テント日誌8月19日 「福島を忘れない!全国シンポジウム」に参加して~福島の怒りと悲しみを忘れない~
- 2013年 8月 20日
- 交流の広場
- 経産省前テントひろば
17日(土)から18日(日)に「反原発自治体議員・市民連盟」が主催する全国シンポジウムと現地訪問に参加し福島の厳しさを実感してきた。
17日午後からのシンポジウムでは、福島県内の地方議員他が百人を超える全国からの議員・市民の参加者に東電福島第一原発事故の被害状況を説明し参加者は熱心に聴き入った。シンポジウムの内容は明くる日の朝日新聞福島地域版に報道された。
円通寺住職吉岡棟憲さんは、冊子「原発事故さえなければ通信」で本当の福島を知らせている。阿武隈川の灯篭流しも川底の放射性物質蓄積で灯篭飾りに、防護服を着てお墓詣りするなんて、除染に5兆円を使って「安心・安全」キャンペーンがなされ、福島の自治体は総て国の下請けだ、と穏やかに怒りを伝えた。浪江町では月一人当たり10万円の賠償費を6倍に増額を求める、当然だ。マスコミが何も書いてくれない。政治家は、財界と官僚とアメリカに従っている。「被災者」でなく「被害者」と呼ぶべき、誰かが加害者だ。福島原発でなく東京電力福島原子力発電所と呼ぶべき、東京の為の発電所だ。
川俣町議員のお話:フクイチの現場を見れば津波は関係ない、ベント前に高濃度放射能汚染が起こった、除染後の廃棄物を農地に5段重ねしている、福島のワタムシの1割に奇形が出た、虫の異常が多く鳥が減っていて生態系異常が心配だ、県も市町村も生態系調査をやる気がない。
飯館村酪農家のお話:4月に計画的避難地域を発表。そこで遊んでも大丈夫、マスク外して大丈夫などの「安全説法」。村長は村を守るが、私は命を守る。末端の行政が悪い、除染は国のいいなり、帰りたい帰れない人へのケアが全く無い、なぜ飯館村だけ年間5mSvなのか? 「帰りたいけれど帰れない人」へのケアが全くない。
質疑応答も活発になされ、積み残しは交流会で個別に話あった。
18日(日)はバスで現地を回った。最初に福島市内の仮設住宅。平屋建てプレハブ住宅がずらっと並ぶ。通路を年配の方が歩いている。怒りと悲しみが込み上げてきた、原発事故後2年5カ月も経っていまだに仮設住宅生活を強いられている人たちが沢山いる!
福島市を南下して川俣町に。絹の町として羽二重を輸出して栄え、日銀福島支店がこの町にあり、昭和46年まで鉄道があった。学校の体育館まわりに400戸が避難して入居した。富士山が見える北限の山がある。
飯館村に入ると田んぼに稲穂がなく草ぼうぼう。家という家に人の気配無くミートプラザと大書したドライブインも閉鎖。11年3月15日に放射能の雨が降った。計画的避難区域で作付も禁止。あちこちの道が通行止め。
川俣町山木屋も同様で、人の気配が無く家が泣いているよう。放射性物質は谷沿いの上昇気流に乗り木に当たって落ちた。田んぼには沢山のブルーシートや黒円盤5枚重ね。空間線量は7μSv、バスの中でも2.3μSv。
葛尾村では住居回り20mが除染された。道路沿いに掲げられた「除染作業中」の旗とジョイントベンチャーの立て看板。田んぼの茶色の塊は減量化してから仮置きする。一日に300tも除染廃棄物が溜まっていく。
「福島を忘れない!全国シンポジウム」と現地見学に参加して、一番に感じたことは、今まで何も分かっていなかったとの実感。人の気配のない家々、牛一匹もいない牛舎、JVによる除染廃棄物と雑草に覆われた田んぼ。線量計を手放せない不安な生活。被害者の方々がもっと怒らないことが不思議だ。
「ふるさとも生活も仕事も奪われた」被害者の深い悲しみと怒りを胸に、闘おう。 (K.M)
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