10.5現代史研究会レジュメ(内田弘):『資本論』の対称性 -1841年マルクスが『資本論』を定礎する-
- 2013年 9月 28日
- スタディルーム
- 『資本論』の対称性内田弘
現代史研究会2013年10月5日(土)
明治大学リバティタワー1133号教室
[1] カント批判と対称性
マルクスの『資本論』はいわゆる「経済学」ではない。『資本論』は「ひとつの芸術的な全体」をめざすものである。その哲学的背景を知るためには、彼が批判した哲学者の著作も直に読むことが不可欠である。マルクスの「哲学」といえば、「ヘーゲル」と連鎖反応する。しかし、マルクスは《ヘーゲルはドイツ古典哲学の始祖であるカントを正確に批判したであろうか》という問題意識からヘーゲルを読み批判したのである。これまでほとんど論究されることがなかったこの問題《マルクスのカント批判》こそ、1841年の学位論文「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」(以下「差異論文」と略)を解読する核心である。しかも、マルクスは《カント問題》を1870~80年代まで継承し、その時期に作成した膨大な数学草稿のなかで、つぎのように指摘する。
「フィヒテはカントと手を結び、シェリングはフィヒテと手を結び、ヘーゲルはシェリングと手を結んでいる。しかし、フィヒテもシェリングもヘーゲルも、誰一人としてカントの一般的な基礎づけ、すなわち、観念論一般を研究することはなかった。そのため、彼らは観念論一般をいっそう発展させることはできなかったのである」。[1]
カント認識論の根源的批判=再定義という本来的課題にカント以後のドイツの哲学者は誰一人として取り組まなかった。その未決問題を自分は数学研究でも取り組んでいるというのである。マルクスは(数学草稿の編集者が推定する1870年代以後ではなく)『1863-65年草稿』などで数学を援用した記述の多い1860年代以後の数学研究、すなわち、微分可能性=数の「連続性」や二項定理が展開する「対称性」の研究で、《カントによる観念論の一般的な基礎づけに対する批判》を確認している。これから論証するように、「差異論文」の主題は『純粋理性批判』に対する全面的体系的批判にある。カントのアンチノミー論(無限と有限、全体と部分、自由と必然、有神と無神の二律背反)をカントのように絶対的な対立のままに放置するのではなく、対立する両者を媒介する止揚形態を探求すること、その媒態が「対称性」であることを「差異論文」のみならず『資本論』でも把握していた。だからこそ、「数学における対称性」まで進んでいったのである。その意味で『資本論』の副題「経済学の《批判(Kritik)》」もカント批判を含意する。マルクスは「差異論文」の1840年前後から1883年に死去するまで、同じ問題の解明に一貫して取り組んでいたのである。
[2]「感性・悟性・理性」の分離=解体
「差異論文」の主題が何であるのかを確定するには、「差異論文」準備のために作成した7冊のノートを丹念に読むことが有効である。ノートは公表を前提してはいない。ノート作成という準備にこそ、準備するものが何を目的としているのかが示唆されるからである。いわば「書斎での準備を見る」という手法である。そこで明らかになるのが「差異論文」の主題、カント批判である。マルクスはデモクリトス(BC460ca~BC370ca)とエピクロス(BC341~BC270)というカント(1724~1804)の時代からみて約2100年から2200年も前の自然哲学者の哲学的基礎を検討する。すると、カント『純粋理性批判』「第1部 超越論的分析論」の「感性・悟性・理性」論に対応する彼らの哲学的基礎がすでに分裂し解体していたことが判明する。マルクスは「自己の問題意識(カント批判)をその起源(古代ギリシャ自然哲学)に射影する方法」を駆使しているのである。マルクスの彼に先行する思想家(哲学者・経済学者など)を研究する方法がこれである。アリストテレス『デ・アニマ』、スピノザ『神学・政治論』、スミス『国富論』などのノートはこの方法でとられている。
[カント認識論の解体] マルクスはカント認識論の分裂と解体をノートしている。
「エピクロスの批判基準(真偽判断の基準)は感覚的知覚であった。これには客観的現象が照応している」[M(I/1)26, W272:訳198]。[2]「[エピクロスにとって]感覚はすべて真理の使者である」・「デモクリトスは感覚的知覚を主観的な仮象とみる」[M(I/1)28, W271:訳199]。「デモクリトスが哲学で満足せず、経験的知識の腕に身を投げる。これに対してエピクロスは実証的な諸学問を軽蔑する。なぜなら、それらは(知恵の)真の完成には何も寄与しないからである」[M(I/1)28, W273:訳201。( )は引用者補足]。
エピクロスは感性を全面的に受け入れる。エピクロスは感性的統覚がとらえる対象を客観的な現象として満たされていると考え、それ以上の経験的実証的知識を分析する悟性を軽視する。エピクロスは理性のみが原子を認識できると考える。これを要するに、エピクロスは「感性の承認・悟性の軽視・原子論的理性像」という認識論で提示する。エピクロスではカント認識装置は一面化し解体している。
デモクリトスは感性を「仮象の現象」と考え、感覚による認識を拒否する。代わって悟性で経験的知識を限りなく収集することを認識の根拠とする。原子は理性によってのみ認識可能であると考える。デモクリトスは「感性の拒否・悟性の重視・原子論的理性像」という、エピクロスとは反転した側面でカント認識論を強調する。デモクリトスの原子論は外部に実証性を無限に求める「自発性」をしめし、エピクロスの原子論は感覚的現象の「受容性」をしめす。カントのいう人間の認識能力の基盤である感覚の「自発的受容性」はデモクリトスの「悟性の外延的な自発性」とエピクロスの「感性の内包的な受容性」に分裂している。マルクスは、カント認識論の基礎がすでに二千数百年前のデモクリトスとエピクロスの自然哲学で分裂し解体していることを確認する。
[3] カント・アンチノミーの止揚形態の対称性
マルクスは『純粋理性批判』「第1部 超越論的原理論」の「感性・悟性・理性」がすでに分離=解体していることを確認するだけでない。さらに『純粋理性批判』「第2部 純粋理性の弁証論的推論」「第2章 純粋理性のアンチノミー」でカントが「理性の仮象」を批判する「アンチノミー」を取りあげる。マルクスが「差異論文」でカント・アンチノミーを念頭においていることは、「ここではまだ、アンチノミーを説明する場所ではない。その存在は否定できないということを認めるだけで十分である。これとは反対にエピクロスに聴こう」[M(I/1)26, W271. 訳188]との引用文に示されている。アンチノミーはカントが主張するような回避すべき対立ではない。それらは止揚される対立である。このことをすでにエピクロスが論証しているという。カントのアンチノミーとはつぎの四つである。
[第1の量のアンチノミー] 世界は時間・空間で有限か、無限か(時間に始元があるか否か、空間に限界があるか否か)、
[第2の質のアンチノミー] 世界は要素(部分)から成るか、無限に分割できる(全体)か、
[第3の関係のアンチノミー] 世界には絶対的な始めとしての自由が存在するか、世界の出来事はすべて自然必然性が支配するか、
[第4の様相のアンチノミー] 世界の因果の連鎖に絶対的必然的存在者があるか、否か。
マルクスの「差異論文」は当時のヘーゲル左派内部の宗教批判に発する問題意識である。第4のアンチノミー「神は存在するか、存在しないか」が「差異論文」の直接の主要なモチーフである。マルクスはカントのいうアンチノミーもすでに古代自然哲学の原子論で止揚されていることを論証する。マルクスは「差異論文」そのものを執筆するまえに、7冊のノートに膨大なノートを取った。「エピクロスの哲学 第1ノート」の冒頭でカントのアンチノミーに対応するノートをつぎのようにとる。
[第1のアンチノミー]「全宇宙は限界のないもの[無限]である。なぜなら、限界のあるもの[有限]は端をもっているからである」[M(IV)17, W32. 訳30。[ ]内は引用者補注。以下同]。「原子はたえず永遠に運動する」・「これらの運動には始元というものはない。なぜなら、原子と空虚とは永遠であるからである」[M(IV/1)18, W32. 訳30]。
[第2のアンチノミー]「物体のうち或るものは結合体であり、他のものは結合体をつくる要素である」。
[第3のアンチノミー]「万物のうち或るものは偶然に生じ、或るものは我々の力の及ぶ範囲内にある[必然的である]」[M(IV/1)13:W22:訳21[ ]は引用者]。
[第4のアンチノミー]「神はたしかに存在している。なぜなら神々についての思惟は明晰であるからである。しかし神々は民衆が信じているようなもの[天体]ではない(神についての共通の思惟、諸民族の一致を参照) [3]」[M(IV/1)11:W20:訳18]。
[対立の止揚形態の対称性] カントの四つのアンチノミーはすでに古代自然哲学者が論じていた問題である。しかも、それらの対立は対立に留まるのではなく、特にエピクロスによって事実上、止揚されている。つまりこうである。宇宙形成の原理は「原子(Atom)および空虚(Leere)」である[M(IV/1)81:W160:訳118]。原子はそれ自体に限界をもつ「有限」である。原子と原子の間には空虚が存在する。空虚は原子を有限な存在と規定する「無限」である。原子と原子はその間の空虚を極小化しそれを媒介に連結し結合体になる[無限か有限かの第一アンチノミーの止揚]。原子は要素(部分)でありかつ集合(全体)になる[部分か全体かの第二アンチノミーの止揚]。原子と原子は相互に空虚を媒介に結合する。[原子][空虚][原子][空虚][原子]・・・というように《対称的に結合する連鎖》を成す。[4] デモクリトスの原子のように直線運動でなく、エピクロスの原子は曲線運動(クリナーメン)をする。原子には自由に運動する本性がある。原子が互いに曲がって運動すれば、相互に結合する可能性がある。その結合連鎖運動は天体という予想さえしなかった結果を生む[自由か自然必然性の第三アンチノミーの止揚]。しかも、その天体を民衆は自らの力量を超越する存在として崇拝する。天体は宗教の対象になる。天体崇拝はエピクロスのアタラクシア(安逸)の思想を脅かす。民衆が崇拝する神々は真の神ではないと拒絶する[有神か無神かの第四アンチノミーの止揚]。対立は「対立する両項を相互に内含しあう対称性」に止揚される(MEGA,IV/1,S.20)。[5] マルクスはエピクロス原子論にカント・アンチノミーを止揚する「対称性を特徴とする論証法」を洞察する。対称性はその後、マルクスの宗教批判=経済学の批判の原理となって展開する。
[4] 物象化論としてのカント誤謬推論の再定義
[結晶の抽出法] マルクスは哲学者たちが意図して行った哲学的概念の展開はそのままでは継承できないと考える。むしろ、そこに彼らが意図しない形態で継承すべき合理的核心が結晶体で埋蔵されている。それを洞察し発掘することこそ「批判」の使命であり遂行すべき作業である。「差異論文」でおこなった作業もこれである。この課題をつぎのように表現している。
「哲学的歴史記述は、どのような体系においても諸規定それ自身、つまり体系を貫徹する現実的結晶化 (Kristallisationen)を、哲学者たちが自分を知るかぎりにおいて彼らがおこなう証明や、対話における弁明や、記述から分離しなければならない」[M(IV/1)695:W247:訳178]。
では「現実的結晶化」は如何なる形態で埋蔵されているか。大抵は転倒した形態で潜んでいる。それを析出するために、如何なる方法を採用すればよいのか。
「この分離にあっては、他ならぬ意識の統一性が実は相互欺瞞(wechselseitige Lüge)であることがしめされている。ある歴史上の哲学を記述するさいのこの批判的契機は、ある体系の学問的記述をその歴史的現実存在(historische Existenz)に媒介するためには、まったく不可欠なものである。これは不可避の媒介である。その理由はまさしく現実存在が歴史的現実存在であると同時に、ある哲学的現実存在(eine philosophische [Exsistenz])として主張されなければならず、それゆえその本質にしたがって展開されなければならないからである」[M(IV/1)695, W247-248. 訳178~179]。
「現実的結晶化」・「合理的核心」は直接に実在しない。それは、対称性を成すアンチノミーの止揚形態である「神・貨幣」などの「相互欺瞞」に潜在する。その姿態をそのまま析出し徹底して展開する。するとその姿態をまとう現実存在そのものが消滅し真理が顕現してくる。この迂回路を媒介してこそ、「哲学的現実存在」は顕現してくる。「差異論文」から『資本論』までマルクスがまず否定的事態を取りあげ論じるのは、その方法態度による。
すでに1841年「差異論文」で「神と貨幣」が相互欺瞞の意識形態として相同的であると指摘している。つぎのようにマルクスは「差異論文」で、「神と貨幣」はその世界に内在する者にとって絶対的に見えても、観点を移せば相対化される存在と見る。
「現実のターレルは空想上の神々と同じように存在する。[しかし] 現実の1ターレルでさえも、たとえ一般的に、人間の共同の想像の内部に存在するとしても、その想像の外部に現実に存在するのであろうか。試しに、紙を紙幣として使うことを知らない国に紙幣を持ち込んでみたまえ。すると、そこにいる誰でもきっと君の主観的な想像を笑うだろう」[M(I/1)90:W370:訳291]。
キリスト教信者にとってその神は絶対的存在であるとしても、非キリスト教徒にとっては、それはなんら絶対的存在ではない。紙幣も同じである。それが通用する世界を超えた世界ではそれは紙幣ではなく、何やらが印刷された紙片にすぎない。
[真偽問題と物象化] では、或る世界の外部では神でもなく紙幣でもない存在が、その世界の内部では神であり紙幣であるのはなぜか。神と崇拝し紙幣として通用させる世界を成している者たちの意識の対称的な相互関係こそ、神を生成し紙幣を流通させるのである。その意識の統一が「相互欺瞞」である。[6] 「差異論文」のいう「原子」とは、無意識に相互に騙し合いそれを真実であると信じあう人間の意識である。マルクスにとって直接的には、ユダヤ教・キリスト教を生み出す意識である。黄金を貨幣に転化し、印刷された紙を紙幣と思う意識である。神・貨幣はその果てしない通用力を信じる者たちにとっては「無限を取り込んだ有限」(有限・内・無限)である。外部から見れば虚偽である存在が真理(神・紙幣)として通用する、その意識が媒介する現実の運動を解明することこそ、「批判」でなければならない。この批判は『資本論』(副題「経済学批判」)まで持続する。
したがって、真偽問題こそ、「差異論文」を執筆するマルクスが抱いた問題である。その当時、アリストテレスの『デ・アニマ』のノートをとり、時折コメントを記入する。そのノートの焦点は真偽である。[7] マルクスはアリストテレス『デ・アニマ』真偽論の研究で、ヌース(思惟能力)を問う。人間の思惟能力こそ、現存する物の実在的差異を捨象しそれらを対称的に結合する媒態を生みだす、[8] マルクスは、すべてを「分離(chōrismos)=疎外」する近代の原理をアリストテレスの『デ・アニマ』に読み取る。[9] マルクスは『デ・アニマ』のある件をドイツ語に訳し【 】内にドイツ語でコメントする。[10]
「一般的に、行為事実が分離可能である(chōrista ta pragmata)ように、行為事実(Sache)が質料(Materie)から即自的かつ対自的に分離して実存するように【すなわち事物(Ding)そのものが質料から分離して存在するように、いいかえれば、抽象によって分離可能であるように 】、ヌース(nous)も分離可能である」(MEGA, IV/1:163;拙訳)。
マルクスは、行為事実(Sache)は行為者から分離可能であり、したがって行為者から「行為そのもの(Sache selbst)」として自立しうる、という。[11] ヌース(思惟)も分離可能である。行為事実と思惟が分離して、自由に結合する可能性を指摘しているのである。分離したものが結合される場合、結合の仕方如何では真理(aleteia)にもなり、虚偽(pseudos)にもなる。そこでマルクスはつぎのように注記する。
「アリストテレスは結合(Synthese)にこそ虚偽の根拠があると主張したが、これはあらゆる点で正しい。一般に、想像し反省する思惟は、存在と思惟を結合し、一般的なものと個別的なものを結合し、仮象と本質とを結合する。そのさい、さらにいえることだが、すべての誤った思惟や誤った想像・意識などは、相互に適合せずそれ自体が外面的な諸規定である結合や、客観的な規定と主観的な規定が内面的に結合していない諸関連から生まれるのである」(MEGA, IV/1:164;拙訳)。
客観的契機と主観的契機の結合には、虚偽が真理として現象する「仮象(Schein)」がある。「仮象」は経済学批判の基軸概念である。マルクスのこの真偽論はカントの誤謬推論(Parallogismus)への批判を含意する。カントはアンチノミー論の直前で、デカルトの《我は思惟する、ゆえに、我は実在する(cogito, ergo sum)》を誤謬推論であると批判した。超越論的主観Xの思惟活動の「観念性」は、思惟する主観の「実在性」とは無関係である。デカルトは《思惟するcogito》と《実在するsum》を《ゆえにergo》という媒辞で結合した。思惟主観の「観念性」を「実在性」に結合するという「媒辞概念の誤謬」を犯したと批判する。マルクスは、いや、誤謬推論はたんなる思惟の内部での誤謬ではない。それは現実に存在する。神・貨幣がその実例である、という。神や貨幣が人間の社会的意識の相互欺瞞的統一であることを論証すること、この作業が「差異論文」で提示された「現実的結晶化」の具体的な課題である。
以上のように「差異論文」では、カント『純粋理性批判』前半の「感性・悟性・理性」論だけでなく、さらにその後半の「アンチノミー」およびその直前の「誤謬推論」が「アンチノミーから誤謬推論へ」という逆転した順序で批判的に再構成されている。ここにも「現実的結晶化」をとりだすマルクスの手法が貫徹している。「差異論文」はカント第一批判の総体的批判である。『資本論』体系貫通的な物象化論の理論的端緒は「差異論文」におけるカント・アンチノミー=誤謬推論に対する批判に定礎されているのである。[12]
[5] 近代的虚偽意識の対称的鏡映構造
[鏡映の対称性] マルクスによるカント・アンチノミー批判=止揚でみたように、「差異論文」の原理は原子および空虚である。原子は空虚を媒介に他の原子と結合する。《原子c[原子b(原子a)]》という結合様式は、原子a,原子b,原子cというそれぞれの要素の順序を変換しても、その変換に対して不変の対称的構造《++[**(・)**]++》を維持する。「要素を変換しても不変な対称的構造」こそ、「差異論文」以来のマルクス存在論を根拠づける原理である。「差異論文」ではこの原理を「結晶化」と表現した。『資本論』でもしばしば用いる。結晶の特性は「対称性」にある。「相互欺瞞」で意識が統一されている構造は一方的ではなく相互的であるから「対称性」をもつ。意識は相互に相手を「自分の意識に鏡映する(rückbeziehen,reflect)」。鏡像の内部にはそれまでの鏡映過程が累積している。ヘーゲルの対自存在(Fürsichsein)が近代的市民の哲学的規定であるように、「差異論文」の原子は近代的意識である。[13] 原子=意識は相互に鏡映し合う。意識a (原子a)と意識b (原子b)の鏡映関係で、意識aにとっては意識bが前提であるからその鏡映過程は[意識a(意識b)]の順序になる。意識bにとっては逆の[意識b(意識a)]となる。両者で対称性を成す。鏡映関係は鏡を対称面にして、
[意識a(意識b)]=[ (意識a) 意識b]
と記述される。あるいは、鏡映S(SpiegelungのS)を略号にもちいれば、
[Sa(Sb)]=[ (Sa) Sb]
と書ける。この鏡映過程が何回も繰り返されれば、
【Sa《Sb[Sa(Sb)]》】=【《[(Sa)Sb]Sa》Sb】
というような重層構造になる。その重層性は無限である。「原子(意識)は永遠に運動する」。累進する鏡映過程が遙か無限の彼方に接近するにしたがって、鏡像は無限に小さくなり、それに応じて鏡像の具体性も次第に消滅してゆく。マルクスが後年『資本論』第1部冒頭の価値論で商品の使用価値を「価値鏡(Wertspiegel)」と特徴づけるとき、商品世界の構造が相互鏡映過程であること、その過程では鏡像の具体性が捨象され抽象的な原子的存在に収束することを指摘するのである。「差異論文」では原子が有限であり、空虚が無限である。のちの『資本論』では商品の使用価値が有限であり、価値が無限である。『資本論』における「価値」は「差異論文」の「空虚」の再定義である。「有限・内・無限」、多くの部分(要素)を内包する全体(集合)がこれまたより大きな集合の要素になって現実に存在する。マルクスは【集合[要素(集合)]】という内延的にして外延的な「部分と全体」の重層構造の現実的存在可能性を論証して、カントの第一アンチノミー、第二アンチノミーの止揚形態を提示する。
[同時並存・先後継起と時空相対性] ところが、カントはこの止揚形態を第一アンチノミーの論述個所でつぎのように拒絶していた。
「並存する一切の物[同時並存]を余すところなく枚挙することによって、無限の時間は経過したもの[先後継起]とみなさなければならない。しかしこのことは不可能である。それゆえ現実的な物[部分]の無限の集合(ein unendliches Aggregat wirklichen Dinge)は与えられた全体と見なすことはできないし、したがってまた同時に与えられているものと見なすことはできない」。[14]
マルクスは「同時並存と先後継起との両立」を批判するカントを逆に批判し、空間と時間との相互転化の論理的可能性、時空の相対性を主張した。[15] 数年後(1843年秋)から始まる経済学批判の主要課題は、資本主義(国民経済)におけるその時空相対性の論証である。ブルジョアにとって「自然で自由な秩序」に見える資本主義の歴史的限界は論理的空間的解明で論証可能である。なぜなら、もし論理的空間は歴史的時間と同型であり論理的空間自体に自己消滅する必然性があることを論証できれば、その論証は論証対象の歴史的有限性の論証としても有効であるからである。その論証の中で「差異論文」の「神と貨幣の空間的相対性」も歴史的時間的相対性に変換される。これこそ、真偽が転倒した世界に存在する者が何故・如何にその転倒を論証できるかに答える方法なのである。マルクスの「批判」とはこのような思惟様式である。『経済学批判要綱』からこの問題意識が全面的に展開される。[16]「集合かつ要素としての原子」は『資本論』冒頭で商品として再現する。商品は『資本論』体系展開の要素形態である。[17] すでに「差異論文」が『資本論』形成史の端緒を措定しているのである。
[6] 『資本論』の編成原理とは何か
[労働の二重性と経済学批判] マルクスは『資本論』第1部第1章第2節で、人間の生きた労働の二重性を理解することは経済学を理解する決定的な軸点をなすと指摘し、具体的有用労働としては「使用価値」を生産し、抽象的人間労働としては「価値」の実体となると分析する。第2節で『資本論』の編成原理の要因「価値と使用価値」を分析し、それに続く①価値形態論(第3節)、②商品物神性論(第4節)、③交換過程論(第2章)は、「価値と使用価値」がつぎにみるように対称的に関連し『資本論』の編成原理となっている。
[価値と使用価値の関係] まず第3節の価値形態論で使用価値と価値の相互関係をみよう。①価値形態論は、或る商品の価値が主語でありその他のすべての商品を述語(使用価値)とする一方的な価値の表現様式を解明する[価値(使用価値)]。価値が主体化して使用価値がその表現媒態になる形態は価値形態を原型にしつつ、その後、貨幣の価値尺度機能、ひいては第1部第7編の資本蓄積、第2部の貨幣資本循環、第3部の利子生み資本などに展開する。②商品物神性論は価値の表現媒体になった使用価値が主体化した事態である。使用価値の裏面に価値が自己を隠蔽する[使用価値(価値)]。この事態をマルクスは「物神崇拝」という用語を当てる。「物神崇拝」語は商品論だけでなく、その他の個所でも規則的に用いている。例えば、『資本論』第2部「第1草稿」(MEGA,II/4.1)にあるように、「生きた労働の二重作用」から社会的再生産=流通の構造を把握できない「アダム・スミスの《V+Mのドグマ》」も「物神崇拝」のひとつである。③交換過程論は、すべての商品所有者が相互に相手の商品の使用価値および価値を従属させ自己の商品の「使用価値および価値の同時実現」をもとめる競争を解明する[価値(使用価値)・使用価値(価値)]。この形態は、例えば『資本論』第1部相対的剰余価値論や第2部第3編の社会的再生産=流通論にも展開する。
①・②・③では、価値と使用価値がつぎのよう関連する[主語は()の外部に、述語は()の内部に存在する]。
①価値形態論:価値(使用価値)
②商品物神性論:使用価値(価値)
③交換過程論:価値(使用価値)・使用価値(価値)
①と②が対称性を成し、その①と②の対称的対立が③に対称的に止揚されている。重層的な対称性を成す①②③の観点は単純商品論にとどまることなく、『資本論』を貫徹する。この3つの環が『資本論』の円環体系を成す原理の諸要因である。
[『資本論』の対称性] 上記の「価値と使用価値」の関連にみられるように、『資本論』は「対称性」で編成されている。マルクスは価値形態論でアリストテレス『ニコマコス倫理学』から引用し「(商品)交換は同等性(Gleichheit)なしにありえないが、同等性は通約性(Kommensurabilität)なしにありえない」と指摘する(Das Kapital, Erster Band, S.73-74)。つまり、《商品交換は通約性なしにありえない》のである。「通約性」の原語は「対称性(symmetria: syn + metros)」である。「対称性」は、その訳語「通約性」(「共通の尺度」con+meter)だけで読まれてきたため、見過ごされてきたのである。『資本論』は商品交換の分析から始まる。商品交換は「対称性」を基礎にする。では、『資本論』の「対称性」とは何か。
使用価値(質)の異なる財の間で交換が成立するためには、両者に質的に等しい共通な尺度が存在しなければならない。徹底した内在主義者であるマルクスは、論証に借りを残す貨幣外生説が取らない。マルクスは、相異なる諸労働の同等性は「現実の不等性(=使用価値)の捨象(Abstraktion)」によるほか存在しえないと指摘する(ibid., S.87-88)。「使用価値の捨象」の裏面で同時に進行するのが「価値の抽象(Abstraktion)」である(ibid.,S.52)。使用価値の異なる交換関係そのものを担う財の所有者が無意識に行う「使用価値の捨象」=「価値の抽象」から「共通の尺度」=「通約性」が生まれてくる。無意識に価値を抽象した財の所有者は自己の行為を自覚せず転倒し、相異なる使用価値に「通約性=価値」が本源的に内在するからこそ、相異なる使用価値は交換で商品として相対できる、と思念する。商品交換者はこのような「相互欺瞞」に陥っている。相互欺瞞は、マルクスが『デ・アニマ』研究でいう《思惟(nous)と行為事実(Sache)の恣意的な結合作用》による。《対称性とは、相異なる物がその相違を捨象して到達する「通約性」=「共通の尺度」を媒介に相互に結合する関係にほかならない》。『資本論』が対象とする資本主義的生産様式の基本形態は、対称性をもつ商品交換関係である。
[7] 鏡像左右反転の根拠 [18]
先に「差異論文」でみた相互欺瞞関係の鏡映過程は対称性を成す。それは『資本論』に継承されている。『資本論』価値形態論に単語「価値鏡(Wertspiegel)」が出てくる。同頁の注一八で「人間は鏡(Spiegel)をもってこの世界に生まれてくるのではない」と書く(Das Kapital, ibid.,S.67)。近代資本主義に生きる人間は独自の価値鏡で生きている、という。労働力商品を含めて自分の所有する商品の価値を交換相手の商品の使用価値に鏡映する。その鏡映行為に自覚されない鏡が存在する。価値形態論には、通常の翻訳では「逆の連関」などと訳されているRückbeziehungという単語が出てくる(ibid.,S.79)。そのドイツ単語に対応する英単語はreflection (reflexion)である。通常、「反省・内省・反映」などと訳される。一般的には「前進」し自己の出発点に後方から戻る「再帰」の意味である。「前進=復帰」は円環の上で可能である。相互の鏡映関係は「逆方向に向く二重の前進=復帰の円環」をなす。マルクスは『哲学の貧困』『経済学批判要綱』『経済学批判』『1863-65年草稿』などで、価値と資本の運動は円環を成すと繰り返し指摘する。
『資本論』ではRückbeziehungは、自己の商品の価値を相手の商品の使用価値に映しその鏡像を自己として認識する「鏡映」のことである。交換相手も同じ鏡映行為をする。彼は価値形態論で、相対的価値形態の価値を「表現する=映し出す」等価形態を「鏡」という。マルクスが『資本論』の最初で書く「価値鏡・鏡映」は『資本論』の内部世界に入るキーワードである。現代数学(位相幾何学)ではreflectionは「鏡映」と訳される。鏡映はドイツ語ではSpiegelung という。鏡映は、内部と外部に諸要素を多層的に含みあう。
そこで、本報告要旨の11頁の図「なぜ鏡に映る像は左右が反転して見えるのか」を参考に「鏡映」の仕組みを考える。鏡の「外部」にいる人間(図でいう「鏡映外存在」)は鏡に向かい鏡の内部に自分の姿を映す(「鏡映内存在」)。鏡に映る姿は、鏡の「外部」に立つ自分にぴたりと重なる。或る人が鏡の前に立ち自分の「左手」を挙げるとしよう。鏡には自分にとって「左側」の手=「左手」が挙がって映っている。ところが当人には鏡に「右手」が挙がっているように見える。鏡の「外部」と「内部」では左右が逆転しているかのように見える。「鏡像の左右逆転現象」はなぜ起こるのだろうか。
鏡の「外部」の人間は、自分の観点を鏡の「内部」の人間の観点に移動する。すなわち自分の観点に対して180度(π)の「回転対称(rotational symmetry)」の操作を行い、「外部」の観点からは「左手」に見える関係を「右手」に見えるように自分の観点を変換する。同時に他方で、鏡の「外部」から見る自分自身の観点を鏡の「内部」の人間に投射する「反転対称(inverse symmetry)」の操作を行う。つまり、鏡映外の人間は自分を観点を相対する他人の観点に変換すると同時に、自己の観点を他人の観点に投射する。鏡映内への観点移動の「回転対称」を行いつつ、同時にその移動した観点に鏡映外の自分の観点を投射する「反転対称」の操作を行う。この「二重の観点」・「二重操作」こそ、鏡像が左右逆転しているかのように錯視する根拠である。[19]
[8] 価値論の鏡映構造
マルクスはこの無意識の二重操作を『資本論』の編成原理とする。「転化=変換(Verwandlung, transformation)」のメカニズムがそれである。①自己に相対する他人の観点(鏡映内存在の観点=回転対称)を②自己の他人に相対する観点(鏡映外存在の観点=反転対称)に無意識に変換する。他人も逆の方向から自己に対して同じ変換を行う。この二重の鏡映の相互媒介構造が近代資本主義を編成する原理である。『資本論』冒頭の商品分析は読者を近代資本主義のこのような鏡映世界に導き入れるマルクスの理論操作である。
商品交換には鏡映左右逆転の錯視と同じ論理構造が潜在する(図の右上)。商品aと商品bの交換関係では、商品aと商品bは相互に交換相手を自己に相対させる。頭の中で(観念的に)交換相手を自己に対し180度回転した位置に変換する(回転対称)。ついで商品aの所有者は商品bの使用価値で商品aの価値が商品bの価値と等価であると評価する。同時に商品bの所有者もその価値が商品aの価値に等しいと評価する。相互評価を前提に左右の両商品である商品aと商品bが実際に(実践的に)交換され、商品a (左)と商品b (右)の持手が変換する(反転対称)。商品交換は鏡映左右逆転と同じ論理構造で編成されている。
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相互的な二者間の商品交換を、一方の商品所有者の観点に絞って商品の価値表現の構造を解明するのが価値形態論である(図2の右下)。商品aが商品bに相対する関係は先の商品交換の場合と同じように「回転対称」に相当する。価値形態の相対的価値形態(商品a)が鏡映外存在に対応し、等価形態(商品b)が鏡映内存在に対応する。相対的価値形態と等価形態のこの「回転対称」の関係を前提に、①相対的価値形態の「価値」は如何にして生成するか、②生成した価値は如何に表現されるかを根拠づけるのが、相対的価値形態の観点からする「反転対称」である。マルクスは『資本論』冒頭近くで「諸商品の交換関係を明確に特徴づけるものは、まさに諸商品の使用価値の捨象である」(Das Kapital, ibid.,S.52)と指摘する。使用価値という実在的な存在を捨象するものは商品所有者の無意識の思弁(speculation)である。「使用価値の捨象」の結果は「価値の抽象」である。価値は使用価値に本源的に切り離しがたく結合している。
①相互に「回転対称」の位置にある交換関係で使用価値を等置する行為が価値を抽象する。価値の抽象は行為者が意識しない結果である。彼らは価値は自己の商品に本源的に内在する前提であると取りちがえる。②使用価値の相対関係から抽象された価値は自己を生み出した使用価値の一方である商品bの使用価値を自己の価値を鏡映する「価値鏡」とする。使用価値a,bは質的に異なるにもかかわらず等しいものとして等置し、抽象された価値aを使用価値bで表現する行為は、「回転対称」の位置(第一の否定)にある自他の具体的形態=使用価値を反転し(第二の否定)、或る第三者で対称的に等しいと思弁する行為である。①と②の行為は「反転対称」にほかならない。
価値形態は主語(相対的価値形態)の述語(等価形態)への一方的関係である。交換過程はすべての商品が自己以外の商品を述語にしようとする競争過程から貨幣が彼らが意図しない結果として生成する。各々の商品は価値形態の第二形態で連鎖しあい、『資本論』初版のいう「第4形態」をなす。全部でn種類の商品が交換過程に参加しているとすれば、各々の商品には一般的等価形態(貨幣)になる可能性は1/nある。全部でn種類の商品が存在し各々に1/nの可能性がある。商品世界全体ではn×(1/n)=1の可能性=必然性がある。商品世界からは必ず貨幣が生成する。貨幣は自己以外のn-1種類の商品の価値を自己の使用価値(自然物質・金)で表現=鏡映する。貨幣=金は商品世界の価値鏡であり自己の価値を自己を除く商品群の使用価値で表現=鏡映する。鏡映するものも自己の鏡に鏡映されるものに鏡映される。鏡映関係の対称的推論構造こそ、価値形態=交換過程論が論証する世界である。そこに「要素変換に対して不変の対称的構造」が潜在する。
[9] 『資本論』の「要素変換に対して不変の対称的構造」
最後に、『資本論』第1部初版(1867年)の理論構造が「回転対称」と「反転対称」からなる「不変の構造」を編成することを概説する。
[Ⅰ] 商品論[初版『資本論』第1章(1)商品(2)交換過程]の構成は、①価値形態論②商品物神性論③交換過程論からなる[順序Ⅰ①②③]。順序Ⅰ①②③は下記の独自の入替え(置換)を経て自己に再帰=鏡映する。
[Ⅱ] 商品論に続く貨幣論[第1章(3)貨幣または商品流通]では、まず①貨幣の価値尺度機能は「価値の観念的表現」を論じ、①「価値の観念的表現」を解明する価値形態論に照応する。つぎは諸商品の現実的交換過程における③貨幣の流通手段機能である。これは③貨幣の現実的生成を論証する交換過程論に対応する。最後の②貨幣の蓄蔵機能・支払手段機能・世界貨幣機能は自然物質・金が本来的に貨幣であるかのように現象することを前提とする。これは②商品物神性論に対応する[順序Ⅱ①③②]。
[Ⅲ] 続く転化論[第2章 貨幣の資本への転化]は、②商品物神性論の観点に照応する貨幣の世界貨幣機能・世界市場を前提する第1節「資本の一般的形式」から始まる。第2節は一般的範式の「等価交換と不等価交換の矛盾」を論じ「価値実現と使用価値実現の矛盾」を展開する③交換過程論に対応する。第3節は労働力商品が「剰余価値生産可能態」であることを論じ「価値の表現」を論じる①価値形態論の観点に対応する[順序Ⅲ②③①] 。
[Ⅳ] 続く労働過程論[第3章 絶対的剰余価値の生産(1)の前半]は、労働過程が資本に包摂され「資本の生産性」として現象する事態を論じ②商品物神性論に対応する。[20] 生産過程を「価値の側面」から論じる価値形成=増殖過程[同(1)の後半]は「価値の表現」を論じる①価値形態論に対応する。(1)末尾の「労働過程と価値形成過程の統一」の記述個所は「価値と使用価値の矛盾の統一」を論じる③交換過程論に対応する[順序Ⅳ②①③]。
[Ⅴ] 続く不変資本・可変資本論[第3章(2)]は、労働力の使用価値の消費が価値形成=増殖であり、同時に進行する旧生産手段の使用価値の消費が新しい使用価値を生産し、かつ生産手段の旧価値を新生産物に移転・保存する過程であることを解明する。この解明は「価値と使用価値の矛盾の統一」からの③交換過程論に対応する。続く剰余価値率論[同(3) とその付論(5)]は「価値の観点」からする剰余価値論であり①価値形態の観点に対応する。労働日論[同(4)]は、労働力の使用価値の消費がその価値を超過する剰余価値を生むのに労働力の価値として現象する事態を解明し②商品物神性論に対応する[順序Ⅴ③①②]。
[Ⅵ] つぎの相対的剰余価値論[第4章]は、労働生産性上昇で賃金財(使用価値)の生産に必要な労働量(価値)が減少し必要労働時間が短縮される社会的結果が相対的剰余価値であることを論証し、「価値と使用価値の媒介」を論じる③交換過程論に対応する。絶対的・相対的剰余価値論[第5章]は、剰余価値の二形態の混淆が剰余価値の源泉を隠蔽することを解明し、つぎの労賃論でも時間賃金・個数賃金が剰余価値を隠蔽することを解明し、②商品物神性論に対応する。第2部第3編の社会的総資本の再生産=流通論が「価値と使用価値の統一」から論じる。第1部第7編の資本蓄積論[第6章 資本の蓄積過程]は「(剰余)価値の蓄積」を論じ「価値の表現」を解明する①価値形態論に対応する[順序Ⅵ③②①]。
以上の順序配列を一括し、それらの連結様式を[ ]内に示す。
順序Ⅰ:①②③ [Ⅵ③②①の回転対称=Ⅰ①②③]
順序Ⅱ:①③② [Iの②③の反転対称=Ⅱの③②]
順序Ⅲ:②③① [Ⅱ①③②の回転対称=Ⅲ②③①]
順序Ⅳ:②①③ [Ⅲの③①の反転対称=Ⅳの①③]
順序Ⅴ:③①② [Ⅳ②①③の回転対称=Ⅴ③①②]
順序Ⅵ:③②① [Ⅴの①②の反転対称=Ⅵの②①]
6つの順序には上の各行の[ ]内に記した規則が貫徹する(図《資本循環を編成する「回転対称」と「反転対称」》を参照)。順序Ⅰと順序Ⅱは、両方の起点の元①に続く二つの元②③が逆になる反転対称を成す[②③=③②]。順序Ⅱ①③②の3つの元の順序が逆転する「回転対称」がつぎの順序Ⅲ②③①である。以下同じように反転対称と回転対称が交互に現われる。最後の順序Ⅵ③②①の回転対称が最初の順序Ⅰ①②③である。すでにみたように、鏡を見る人間が経験する鏡像左右逆転は「回転対称と反転対称の交差」に起因する。価値形態・商品交換も同じ編成原理である。さらに『資本論』第1部総体も「回転対称および反転対称の対称的操作で自己を媒介=維持する円環構造」である(14頁の図《資本循環を編成する「回転対称」と「反転対称」》を参照)。
この円環構造は代入される元(要素)を対称的に変換しつつ自己を維持する。『資本論』は「要素変換に対して不変の対称的構造」を成す。この構造は「同時並存」と「先後継起」が両立する時空変換可能性をもつので、Ⅰ~Ⅵの論理空間は歴史的時間の次元に投射可能である。それが本源的蓄積過程論・近代的植民論[第6章(2)(3)]である。
順序Ⅰから順序Ⅵまでは、正三角形の回転の6つの形態を元とする群と同型である。[21] 『資本論』は経済学批判の諸範疇を対称的に配列する群論を潜在する。諸範疇の対称的配列は、商品に含まれる労働の二面的性質[価値と使用価値]は経済学の理解にとって決定的な点であるという認識に根拠をもつ。
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では、資本主義的生産様式は「要素変換に対して不変の構造」を永遠に維持するであろうか。資本が労働力商品の等価交換でより多くの不等価=剰余価値を取得する可能性は、労働生産性上昇率(a)の無限の上昇を必須の条件とするから、aを独立変数とする利潤率[M+V(1-1/a)]/(C+V/a)の極限値は(V+M)/Cという自己矛盾した事態に資本主義が接近することを示す。この事態は資本主義の「要素変換に対して不変の構造」が実は自ら消滅すべき歴史的制度であることを示す。マルクスは『要綱』で、ブルジョア的生産諸関係を自立した諸関係として正確に観察し演繹すれば、それはつねにこの体制の背後にある過去を指示する「最初の諸方程式」に到達し、さらに生成してくる将来も示唆する、と指摘する。この諸方程式は「要素変換に対して不変の構造」を内包するであろう。1860年代から1880年代までマルクスは、ヘーゲル『大論理学』に示唆された「原始関数と導関数の比率」の問題から「微分可能性=連続性問題」を研究し、そこに「対称性(Symmetrie)」を確認している。[22] この確認は「要素(経済学範疇)変換に対して不変の対称的構造」が近代資本主義の編成原理であることマルクスが把握していたことを示している。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study593:130928〕
[1] K.Mаркс, Maтeмaтичecкиe Pукoписи, Haукa,1968 (独露対訳), p.208; Marx’s Mathematical Manuscripts, translated by C. Aronson, M. Meo, and R. A. Archer, New Park Publications, 1983, p.119.マルクス『数学手稿』菅原仰訳、大月書店、1973年、98頁。訳文一部変更。
[2] この引用頁表記は、新MEGA, I/1.S.26、Marx/Engels Werke, Bd.40,S.272、『マルクス・エンゲルス全集』第40巻、訳198頁の略である。以下同じ。なお「差異論文」準備のために作成した「七冊のノート」は新MEGAではWerke版を再編集して第IV部第1巻[M(IV/1)]に収められている。
[3] のちにみるように《神の観念は集団によって異なり、神の絶対性は相対化される》とマルクスは指摘する。
[4] マルクスの後年の数学研究の主題がこの「対称性(Symmetrie)」である。内田弘「『資本論』の《不変の対称的構造》」『情況』2013年5・6月合併号を参照せよ。『資本論』の例証・化学結晶体も対称的結合体である。
[5] 『資本論』の基本観点が③交換過程論=「価値(使用価値)・使用価値(価値)」に総合されるのも、これと同じ対称性による(9頁参照)。内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」『専修経済学論集』通巻第111号、2012年3月、43頁参照。
[6] 『経済学批判要綱』(MEGA,II/1.2,S.344)でも剰余価値配分をめぐる価格規定における「相互的瞞着(die wechselseitige Prellerei)」という。マルクスはその配分比率の多様性にもかかわらず剰余価値総額は一定であるという。そのとき彼は剰余価値総額を自然対数の底e(ネイピア数)で根拠づけ、剰余価値の配分比率を「標準正規分布曲線」で想定していると思われる。
[7] 内田弘「マルクスのアリストテレス『デ・アニマ』研究の問題像」『季報 唯物論研究』第102号、2007年を参照せよ。
[8] 前掲内田論文「『資本論』の自然哲学的基礎」50頁を参照せよ。
[9] マルクスは、問題を歴史に射影し、問題の始元の歴史をたどる。マルクスの生涯を貫く問題の一貫性を根拠づけるのはこの方法態度である。三木清が『構想力の論理』で引用するG.ソレルはマルクスの「スタイル化された射影法」を適確に把握している。『三木清全集』第8巻、岩波書店、1976年、52頁。三木は「昔から書家や彫刻家はスタイル化に基き、不動のものの緊張によって動くものの明瞭な観念を与えることに成功してきた」(同頁)と指摘する。三木のいう《「動くもの」と「不動のもの」の関係》は「要素変換に対して不変の対称性」といいかえられる。マルクスの探求した「資本一般」概念がこれである。
[10]) つぎの二つの引用は、すでに内田弘「マルクスのアリストテレス『デ・アニマ』研究の問題像」『季刊 唯物論研究』第102号、2007年11月、22頁以下でおこなっている。
[11] この観点はその後、マルクスの『経済学・哲学草稿』における社会的諸関係の「物象的力」への転化についての問題関心、『ドイツ・イデオロギー』の物件化=物象化論に継承される。
[12] 内田弘「『資本論』の《不変の対称的構造》」『情況』2013年6月号を参照せよ。
[13] Cf.Peter Fenves, Marx’s Doctoral Dissertation on Two Greek Atomists and the Post-Kantian Interpretation, Journal of the History of Ideas, 1986,Vol.XLVII,No.3. この論文および工藤秀明『原・経済学批判と自然主義』(千葉大学経済研究叢書1、1997年)は「差異論文」研究の先駆的労作である。
[14] Kant, Kritik der reinen Vernunft, Felixmeiner, 1976,S.455. 中山元訳『純粋理性批判』光文社文庫、2011年、第5分冊56頁。[ ]は引用者。
[15] 貨幣資本循環・生産資本循環・商品資本循環の相互媒介関係が「同時並存と先後継起との共存」を根拠づける。その相互媒介関係は「並進対称性(translational symmetry)」を成す。
[16] 例えば、MEGA,II/1.1,S.125を参照せよ。すでに1844年の『パリ草稿』「疎外された労働」4規定は「結果→過程→前提=結果」という論理的円環をなすことを論証し、近代資本主義の再生産の論理が歴史的時間と同型であることを論証している。マルクスがスミス『国富論』体系を変換して検出したのがこれである。内田弘「『資本論』形成史における『哲学の貧困』」『(専修大学)社会科学年報』2013年3月、第47号、29頁以下を参照。『パリ草稿』のその4規定は『1863-65年草稿』の「第2部 資本の流通過程」の「第1草稿」に再現する。マルクスの初期と後期の安易な区分は恣意的になる可能性が高い。
[17] 前掲内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」を参照。
[18] 以下の[7][8][9]は内田弘「『資本論』の《不変の対称的構造》」『情況』2013年5・6月合併号の後半を大幅に改稿したものである。
[19] 鏡像のこのような左右逆転の錯視については、広瀬立成『対称性から見た物質・素粒子・宇宙』ブルーバックス、2006年、44-48頁を参照せよ。広瀬はこの逆転を「回転対称と反転対称との心理的混乱」と指摘する。
[20] マルクスにとって、労働過程は単に使用価値を生産する歴史貫通的な過程ではない。その資本主義的仮象こそ問題である。MEGA,II/4.1,S.123(『直接的生産過程の諸結果』向坂逸郎訳、岩波文庫、1953年、231頁)を参照せよ。
[21] 遠山啓『現代数学入門』ちくま学芸文庫、2012年、191頁以下を参照せよ。
[22] 前掲のつぎの頁を参照せよ。K.Mаркс, Maтeмaтичecкиe Pукoписи, Haукa,1968,стр.176;Marx’s Mathematical Manuscripts, translated by C. Aronson, M. Meo, and R. A. Archer, New Park Publications, 1983,p.99.;マルクス『数学手稿』菅原仰訳、大月書店、1973年、82頁。
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