みのもんたと天野祐吉 ―「混ぜっ返し」と「小判鮫」―
- 2013年 11月 4日
- 評論・紹介・意見
- みのもんた半澤健市天野祐吉
《やっぱり「一億総白痴化」》
みのもんたの報道風番組退場と天野祐吉の死亡報道の感想を書く。
みのに関する報道は息子との関係への批判以外のものは何もなかった。私が知りたかったのは、みのもんたは「ジャーナリスト」として何をしたのか、何をしなかったのかである。脱原発・特定秘密保護法・TPP・靖国参拝・集団的自衛権。こういうテーマを彼はどう考えていたのか。その言説は世論にどんな影響を与えたか。しかし報道はそれについて触れることはなかった。私の感想は、彼がテレビ画面で見せたのは単なる「混ぜっ返し」である。それを論じないで息子の犯罪を論ずる報道は井戸端会議の方法である。大宅壮一による「一億総白痴化」の予言は、いまも「みのバブルとその崩壊」という一好例に結果している。
《小判鮫の自覚はあったろうか》
天野祐吉は気の利いたエッセイを書いていた。私も面白く読んだものである。商品の宣伝媒体たる広告を「批評の対象」としたのが彼の業績だという。しかし天野の批評によって広告は良くなったのか。悪くなったのか。何も変わらなかったのか。
テレビ視聴率の低下は、番組内容の劣化と並んで、CM技術の「小賢しい進歩」―例えばCGの多様やクライマックスでのいきなり挿入―に理由があるのではないか。新聞についていうと最近は、記事と思えば広告であり広告と思えば記事である。大手メディアの人気が落ちたのは、ソーシャルメディアの進出にも原因があるが、批判精神の喪失も理由の一つであると私は思っている。
天野祐吉は、電通などの広告代理店を徹底的に批判をしたことはあるのだろうか。広告業界は、クスリやテレビやクルマの広告だけでなく、メディアと共同してTPPや原発再稼働といった壮大な世論形成を仕事にしているという。広告批評は、所詮業界に寄生する小判鮫である。彼らは母体を離れては生きられない。こういうもろもろについて、天野祐吉が状況を考え抜き、事態を読み込み、自説を書き切った「批評」が、もしあれば読みたいものである。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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