中国は「社会主義をめざす国」なのか――共産党の大会決議案を読んで
- 2014年 1月 14日
- 評論・紹介・意見
- 社会主義阿部治平
――八ヶ岳山麓から(89)――
日本共産党の「第26回大会決議案」を読んだ。
小学校以来の友人と、日本はこんなに反動的になって、国粋主義がはびこって、これからどうなる?という議論をしたあと、彼が「これを読め」といった。読めば日本がどうあるべきかわかるというわけだ。
「決議案」には同意できるところもあるが、不可解なところもあった。とくに、「第6章 日本における未来社会の展望について」(以下「第6章」という)を読んで、これはいけないと思った。「共産党は中国のような社会を目指すのか」という疑問に答えようとした部分である。
「第6章」は、まず現存社会主義国の現在と今後をどう見るかについて、次の二つの角度が重要だという。
第一、中国やベトナム、キューバは、「社会主義に到達した国ぐにではなく、社会主義をめざす国ぐに」だということ。つまり現存社会主義国は真の社会主義国ではない、やがて社会主義になる国だということだ。
第二、「社会主義をめざす国ぐに」は、世界の政治と経済に占める比重が年々大きくなるなかで、資本主義国との対比が試されるようになっていることである。
まず、中国やベトナム、キューバは社会主義を自称しているが、日本共産党は「それは違う」というのだ。だが「第6章」には、中国やベトナム、キューバがやがて到達するはずの「社会主義なるもの」がどんな社会か、これが書いてない。これなしには社会主義ではないという根拠も、到達すべき社会主義も、日本共産党が構想する未来日本もわからない。
私がかつて盲目的に信じた社会主義の観念には、プロレタリア独裁・生産手段の社会化・計画経済の三つの要素があった。現存する社会主義国では、プロレタリア独裁すなわち共産党の一党支配となっているが、生産手段の社会化(国有とか共同所有のことでしょうね)と計画経済は変身し、中国では主要分野に独占的国営資本が存在するとともに不完全な市場経済体制を形成している。
もっとも、「第6章」後半には生産手段の社会化によって、資本主義経済の缺陥は一掃されると書いてあるから、日本の社会主義でも生産手段は公有化されるらしい。
横道にそれます。「社会主義をめざす国ぐに」の中に北朝鮮が入っていないのはあまりに残酷な政治をしているからでしょう。ですが、ソ連も中国も、革命の功労者を殺し、無辜の人を多数長期に投獄し強制労働をさせ、人民を貧困のままにし、百万、千万単位の人を餓死させ、経済を停滞させたのはほぼ同じです。東欧については盛田常夫氏の『ポスト社会主義の政治経済学』をごらんあれ。
だから共産党とか社会主義という言葉には暗い影がいつもつきまとっています。これは党内にいてはわからないでしょうね。
「第6章」は、中国は社会主義の土台を建設する過程で、市場経済を導入したという。
どうしてこんなことがいえるのか。市場経済の導入は、毛沢東の空想と文化大革命によって中国経済が崩壊の危機に瀕したため、やむを得ずとられた政策である。鄧小平は暗中模索――川底の石を足で探りながら川を渡ったのである。社会主義への経済的土台をつくるなどという確固たる見通しがあって行われたのではない。
「第6章」は、「市場経済の導入は合理性を持っているが、この道を選択すれば国内外の資本主義が流入してくるし、そこから汚職・腐敗・社会的格差・環境破壊などの問題が拡大する」、また中国の将来を展望する場合に……今後も貧困や所得格差の縮小や環境保全と戦い、政治体制と民主主義の問題など、さまざまな問題と格闘を続けて行かなくてはならない――そういう国として見ていく必要がある、という。
私は、政治体制と民主主義の問題は貧困や環境とは同列には論じられないとおもう。政治体制が変わらなくても、貧困や所得格差の縮小、、医療体制の充実、大気汚染の防止、癌の集団発生対策などはやろうとすればやれるからである。
「第6章」では「大量の貧困人口」の存在を指摘しているが、その大半は、中国人口の3分の2を占める農民と出稼ぎ者である。この人たちは医療、教育など公的サービス面でひどい差別待遇を受けている。根源は農村戸籍という身分制度である。
さらに地方政府は土地公有をたてに農地を収用して「失地農民」を生み、多額の収入を得ると同時にコネのある経営者を富ませ、それが年間20万件ともいわれる争議の原因のひとつになっている。
中国経済は、いま国有セクターが多くの産業分野を独占し、民営企業の活動範囲を狭め、「官」が果実を取り過ぎて「民(営企業)」の資本蓄積を妨げている。いうところの「国進民退」状況である(津上俊哉『中国台頭の終焉』)。ところが国営企業にからまる既得権益層は、むしろこれを中国的特徴のある市場経済(あるいは社会主義)として改革を拒んでいる。
重慶の薄熙来や石油閥の周永康に見るように、すでに彼らの腐敗は拡大深化して最高級幹部(日本でいえば国務大臣レベル)に及んでいる。
これらの問題点は、「将来を展望するにあたって」とか「問題が拡大する」のではなく、すでに拡大し深刻化している。なぜ環境汚染がこのように深刻か、なぜ構造的腐敗が生ずるか、この分析がなぜ「第6章」にないのだろうか。
第二の、現存社会主義国が「否応なしに資本主義国との対比が試される」問題について、「第6章」はその対比項目をつぎのように挙げている。
中国などで政治生活の中で「人民が主人公」であるか否か、人民の生活向上がはかられているか、人権と自由の拡大に努力しているか、覇権主義を許さない取組をやっているか、核兵器・地球温暖化などで積極的役割を果たしているか。
また中国などが「覇権主義や大国主義が再現される危険もありうるだろう。そうした大きな誤りを犯すなら、社会主義への道から決定的に踏み外す危険すらあるだろう」ともいう。
私の中国での生活実感からして、問題は「危険すらあるだろう」というのんきな話ではない。可能形・未来形でもない。すこし関心のあるものには、誰の目にも結論は得られている。
革命以来60年余、いや市場経済30数年間の発展の中で、貧困・所得格差、環境などの問題などの課題を解決しながら前進する努力はあってしかるべきだった。もちろん、胡耀邦のとった政策や、胡錦濤の「和諧(調和ある)社会」のスローガンに見るように、中共中央に問題意識が全然なかったとはいえない。しかし主流にはならなかった。
盛田常夫氏は「ヨーロッパの社会主義国はすでに自壊してしまったが、アジアにはアジア的専制支配とスターリン型戦時社会主義が組み合わさったアジア的混合体制が依然として維持されている。すでに中国は資本主義経済へと転換して経済基盤を立て直し、政治的支配のスローガンとして社会主義を利用し、次第にその社会主義から民族主義へと舵を切る二枚舌の国家;資本主義体制に自己転換しつつある」とみている(本ブログ2013.12.24 「軍事的独裁体制下の政敵殺害をどう理解するか」)。
私は、中国共産党はすでに「社会主義への道から決定的に踏み外し」、中華民族の興隆をとなえる大国主義路線へ転換したと思う。「主人公は人民」ではない、官軍産複合体である。――だからといって中国を敵視せよというのではない、それは大きな誤りだ。
我々はもう現存社会主義を知ってしまった。その崩壊過程も見た。プロレタリア独裁とは一党支配のことであり、生産手段の社会化は新たな利権構造を生むものであり、計画経済は本来的に不可能なしろものであった。結局、我々は20世紀を通して、市場経済を基礎とした、議会制民主主義の高度福祉国家以上のものを見出せなかったのである。
そこで、現行社会主義国を「社会主義をめざす国」と定義するならば、日本共産党から見て、中国のどこにどのように「社会主義をめざす新しい探求が開始」されたか、どうかそれを示してほしい。そうすれば私のようなものでも、なるほど「社会主義をめざす国」にちがいないと納得できるにちがいない。
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