記憶障害について、ある青年の物語
- 2014年 1月 14日
- 評論・紹介・意見
- 記憶障害鎌倉矩子
― 平成おうなつれづれ草(6)―
前回私は、「記憶障害とともに生きること」と題して、母親の最晩年のことを書いた(’13.10.31、平成おうなつれづれ草(5))。そこでは、記憶と記憶の力を損なわれた者の日常がどのようなものになるかということと、そうした運命に見舞われた者にもなお生き生きした心の活動があり、まもられるべきプライドがあることを述べた。
しかし、「記憶障害」について語り始めたらこれだけで終わらせてはならない、という気持ちが私の中にある。それは、クモ膜下出血などの病気や、交通事故、溺水などの事故によって、若くして記憶障害に見舞われた人々のことである。彼らには、老年者の場合にも増して重い運命が待ち受けている。
脳の病気や頭部の外傷が原因でおこる記憶障害について、治療的リハビリテーションが試みられるようになったのは、1980年前後以降のことである。
当初は素朴な反復訓練によって、物品リストの品名をおぼえさせたり、スケジュールをおぼえさせたりが行われたが、これはあまり有効ではなかった。そもそも覚えることが困難であったし、たとえ正答率が上がっても実用の域に達しないとか、訓練課題ではそこそこの成績をあげても他の課題になるとまた振り出しにもどる、というようなことが頻繁にみられたからである。
記憶術も試された。比較的わかりやすいのは「視覚イメージ法」であろうか。たとえば人の名前を覚えるのに、何かの絵とその人の名前をむすびつけて覚える、といったやりかたである。覚えるべき名前が「カマクラさん」だとしたら、鎌をいっぱい差し込んだ蔵の絵(マンガでよい)を見せて、その絵と一緒に覚えるようにさせる、というぐあいである。もちろん記憶術にはこのほかに、「語頭音法」だの、「場所法」だの、「物語法」だの、「PQRST法」だのがある。「視覚イメージ法」を含め、これらは、ある種の患者のある種の状況下である程度有効にはたらくことが報告されている。
しかし現在、主力とみなされているのは、「外的記憶補助具の利用」と「支援者グループとの連携」である。外的記憶補助具とは、メモリー・ノート、ダイアリー(予定表)、アラームの類のことで、記憶の代わりをはたす小道具のことを指す。
ジェイという青年がいた。
英国の臨床心理学者B.ウィルソンとジェイ本人が、彼の記憶障害の発生から克服までの経緯を学術誌などに発表したのは、1997年から1999年あたりにかけてのことである。それは、重度の記憶障害を負いながらも、外的記憶補助具を使いこなすことによって自活への道をきりひらいた成功物語として知られる。
ジェイは、大学法科の優秀な学生であったが、2年次の20歳のとき、教授の個人指導を受けている最中にてんかん発作を起こし、運び込まれた病院で、左後頭部に大きなクモ膜下出血を起こしていることを確認された。このとき発見された動脈瘤に対してはクリッピング術と称する手術が施されたが、後遺症として、極度の記憶障害が残った。幸いなことに失語症はなく、記憶以外の認知能力は良好であった。
ジェイははじめ、自分に記憶障害があることに気づかなかったが、数か月後にはそれを強く意識するようになり、生活面のトラブルを避けるべく、さまざまな努力をするようになった。脳内出血から4か月後に外来リハビリテーションが開始されたが、その助けを得て彼が試みた方略は、外的補助具の使用、記憶術の利用、リハーサル法(いわゆる棒暗記)、その他である。
これにより彼の日記やノートの活用術は上達し、記憶術も、いくつかは特定場面で使えそうだということがわかった。しかし日常生活ではなお、同じ話をくり返す、訪問すべき治療室の位置を覚えられない等々の問題があり、大学での学業生活に戻れないことは明らかであった。ジェイ自身も、失われた記憶機能の回復に期待をかけるよりも、それを補う方法を作り上げることが必要だと考えるようになった。
―1986年の終りの3か月の間、ジェイは毎時ごとに鳴るようにセットしたアラーム付き腕時計をはめ、ノートをいつもシャツのポケットに入れていた。そしてアラーム音が鳴るごとに自分がしていることを書き留めた。書き留めた情報を毎晩日記に写したが、このときはまだ翌日の計画を立てるまでには至らなかった。
1987年1月には、ジェイは(彼の言う)「グランド・プラン」を編み出した。彼は週間予定表を机の上に置き、さらに一日用カードを用意した。一日用カードには、週間予定表からの詳細な予定と、手帳に記されたその日の約束を書きつけた。これまでうっかり忘れてしまっていたようなすべての予定を書きうつすことに決めたのだ。そして、一日用カードは手帳の中にしまい、日々の課題と1週間の課題を書き上げたリストは机上に置いて、毎晩、翌日の予定のすべてを週間予定表と手帳から一日用カードに転記したかを確認した。おばや姉が、その課題をするよう、毎晩声かけをすることを請け負った。(中略)
やがて彼はディクタフォンを手に入れ、起こっていることをその場でその都度録音するようになった。毎晩その録音を聞き返し、情報を日記に書き写した。(中略)これを始めたころは、おばが毎日のように会いに来て、励ましたり助言をしたりして、彼の問題について共に考えたりしていた。<B.ウィルソン著/鎌倉・山﨑訳、『事例でみる神経心理学的リハビリテーション』、三輪書店、2003、p.44-45>
1988年7月、ジェイはタイプを習った。彼はこの技術の習得ではほとんど問題がなかった。このことは彼に、自分には実技的能力があることを気づかせた(専門的見地から言うと、「ふつうの記憶」と、動作の連鎖を身体におぼえさせる「手続き記憶」とは種類が別なので、一方が損なわれても他方は保たれるということが起こる)。
そこで彼は、家具職人になるための専門学校に入学することを決めた。入学から修了まで、書類ひとつを出すのにさえ、たいへんな努力と時間が必要であったが、おばの助けを受けつつ、彼はそれをやり抜いた。またその間にも、自分の記憶代償システムの改良を続けた。ノートはルーズリーフ式になり、さまざまなセクションがあるシステム手帳へと進化した。ガールフレンドができると、システム手帳にはそれ専用の黄色い社交シートが加えられた。
1992年に、ジェイは家具塗装職人兼籐椅子職人として自営業をたちあげた。仕事を支えたのは、彼が自ら作り上げた記憶代償システムである。
―顧客から電話があると、ジェイはその詳細を書き留め、見積もり提示の日時を打ち合わせる。そして、そのしごとを行うべき日の一日用シートに「122の仕事へ」と書き込む。仕事に間に合う時刻に出かけられるように、時計のアラームのセットもする。見積もりを記入すると、顧客との了解事項の記録として帳簿の1枚目は残す。また仕事の完了日時と配達日時などについても顧客と打ち合わせる。その仕事をする日をシステム手帳のその日付の一日用シートに記入し、忘れないためにアラームをセットする。仕事にかける時間などの情報についても帳簿や業務用シートに記録する。材料費についても記録する。顧客から代金が支払われると帳簿に記録し、システム手帳の中のその業務のシートは破棄される。<上掲書、p.47>
ジェイはひとり暮らしをしていた。脳出血後はきちんと食事をとる必要を自覚していた。そうしないと短気になるからである。バランスのとれた食事や弁当づくりのために、季節ごとのメニュー表とシステム手帳と付箋(「要弁当作り」「弁当作成済み」などと記して使う)が活用された。電話を二重にかけないように電話リストも作った。電話すべきことがらを手帳にメモしておき、それを見るべき時刻をアラームにセットする。電話をかけ終ったらメモにチェックを入れ、内容を社交シートか業務用シートに記入する。またディクタフォンにも記録した。
電車や飛行機の中で席を離れるときには、「右列4番目」というぐあいに何度もそれを言い続けるようにした。アパートでは物をいつも同じ場所におき、就寝や起床のようなルティーンは、いつも同じ手続きを踏むようにした。誰かと一緒にいるときも、少し時間をくださいと相手に頼み、話を中断してはメモを手帳に書き込んだ。
こうしてジェイは自立した。人生について悲観的になった時期もあったが、やがて、安定した気分でいられるようになった。記憶障害者の支援グループに所属し、そこで活動するようにもなった。いまでは重篤な記憶障害を克服して一定の達成を得たという実感をもち、ある種の自尊心をもつようになっている。
ジェイのこの物語は、私たちにいろいろなことを教える。ひとつは、重篤な記憶障害にも克復できる余地があるということだ。
だがこの成功のかげには、ジェイの生来の優れた資質と、有能なリハ・スタッフと、有能な親族の存在があったことを見落とすわけにはいかない。さらには、これが最も肝腎なのだが、ジェイには記憶以外の知力の低下がなく、いわゆる前頭葉機能(行為を発意し、制御し、遂行する機能)の低下もないという幸運があった。こうした好条件のうえに、ジェイ本人の並々ならぬ努力が加わって、“記憶障害リハの金字塔”は打ち立てられたのである。
現実には、ジェイを目ざしても、そこまで行きつくことのできない人々がたくさんいる。誰もがジェイと同じ資質、病状、環境に恵まれるわけではない。
私はさきに外的補助具の利用が主力だと書いたが、その使い方の習得さえも、実は容易ではないのである。そもそも彼らは、ノートにメモを書くとか、ノートを携行するとか、そういうこと自体を忘れてしまうのである。ちいさなひとつひとつの行為の習慣化と成功体験と、それらの集積が実現してはじめて、ジェイの達成に一歩近づくのだと言ってよい。
もしもあなたの近くに、記憶障害リハの途上にいる若者がいたら、どうか暖かく見守ってやってほしい。そして、彼らの力が及ばない部分は、そっと補ってやってほしいと思う。―‘13.12.29記
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