辺野古移設計画を断念して普天間飛行場を返還せよ -稲嶺名護市長再選は民主主義の勝利-
- 2014年 1月 21日
- 時代をみる
- 伊藤力司沖縄辺野古
沖縄から素晴らしいニュースが届いた。名護市辺野古に新しい米海兵隊基地を造るという日米政府の合意に真っ向から反対する稲嶺進名護市市長が、安倍政権や自民党が膨大な交付金を約束して推した基地賛成派の対立候補、末松文信候補を破って再選されたのだ。これは名護市民だけでなく、沖縄にこれ以上基地を造ることはごめんだという沖縄県民すべての勝利である。
辺野古に基地を造る計画は、1995年の米兵による沖縄の少女暴行事件に憤激した沖縄県民の反基地闘争に恐れをなした日米政府が、宜野湾市中心部にあって「世界一危険な飛行場」と言われた米海兵隊・普天間飛行場を閉鎖することで合意。日米政府は1997年、その代わりにジュゴンとウミガメの住む辺野古の海を埋め立てて、新しい基地を造り普天間の海兵隊を移設する計画を作った。
それから17年を経てなお辺野古移設がならなかったのは、第一に、もう沖縄に軍事基地を造らせたくないという沖縄県民の強い意思である。日本の総面積の0・6%しかない沖縄に在日米軍基地の73・8%が集中するという異常な状態をこれ以上許すことはできない。そのような決意を、本土に住むわれわれはこぞって支持すべきである。
沖縄は、17世紀の島津・薩摩藩の侵攻、明治維新政府による「琉球処分」(明治12年)など、ヤマトによる酷い仕打ちをこうむってきた。さらに先の大戦の末期、沖縄は本土防衛の「捨て石作戦」の舞台となり、12万人以上もの犠牲者を出した。ヤマトはこれ以上の差別を沖縄に押しつけるべきではない。
沖縄は1945年から1972年までの27年間、米占領軍の直接統治下に置かれた。戦後アメリカに教えられた日本の民主主義は、軍政下の沖縄には適用されなかったのである。普天間飛行場はもともと、疎開した住民の土地を占拠した米海兵隊が勝手に造った臨時の飛行場であった。本来なら終戦後元の住民に返すべき土地である。疎開先から戻った住民はやむなく、飛行場の周辺に住み着いた。その結果が「世界で最も危険な飛行場」(ラムズフェルド元米国防長官)となった。
日米両政府は1997年、危険な普天間飛行場の閉鎖と返還を決めた。米ソの冷戦も終わり、ブッシュ米政権も評判の悪いイラク戦争から撤退を始めた時期だから、普天間飛行場の閉鎖は当然視された。それなのに、日米政府は名護市辺野古に新しい基地を造って米海兵隊を移設する方針を定めたのである。
それから17年余、仲井真沖縄県知事は「県外移設」の選挙公約に違反して、新基地の建設に必要な辺野古の海岸埋め立て工事を昨年末認可。日米政府にしてみれば、ようやく辺野古移設計画が前進しかけた矢先、稲嶺市長再選は新たな悪夢だろう。
一方、これ以上沖縄に軍事基地を造らせまいと決意した沖縄県民とその決意を応援するヤマト市民にとって、稲嶺再選は素晴らしい朗報である。日米政府はここで名護市民の民主主義と自己決定権を尊重し、辺野古移設を断念すべきである。だが安倍内閣は「名護市長の権限は限定されている」(菅官房長官)として、あくまで辺野古移設計画を進める方針である。
年間3000億円の交付金という「アメ」と、普天間飛行場の固定化という「ムチ」をちらつかせて辺野古移設を迫る安倍内閣の手法は、名護市民に拒絶された。法と民主主義に立つと言うのなら、日米政府はここで辺野古に新たな軍事基地を造る計画を断念し、普天間飛行場を直ちに閉鎖して敷地を返還すべきである。
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