書評 『歎異抄』を読む①
- 2014年 5月 30日
- カルチャー
- 『歎異抄』宮内広利書評
親鸞の教えは、四十八願をたて修行を実践して仏となった阿弥陀仏が、極楽浄土を建立し、念仏という名号を衆生に与えたことにはじまるとされている。親鸞によれば、弥陀仏の本願によって救われるのは老若男女を問わない。また、善人や悪人を問わず、あらゆる人を分けへだてなくありのままの姿で救うという。その際、善とか悪とかということに意を留めないで、本願を信じ念仏を称えることだけが罪業の重い、煩悩の人を助けるというのである。であるなら、みずからの悪行をふりかえって、自分は極楽浄土に往生できないのではないかという心配には及ばないとされている。もともと、衆生はこの世で煩悩を断ち切って仏になることは考えられないのだから、弥陀の本願に委ねるよりほかに往生するすべはないのである。そればかりか、親鸞は罪深い者こそまっさきに救われるという。
≪善人なおもつて往生を遂ぐ。況んや、悪人をや。≫ 『歎異抄』 唯円著
これは『歎異抄』第三条に書かれている親鸞の悪人正機の思想である。常識では、悪人でさえ往生ができるのだから、ましてや善人が往生できるのは当然ではないか、ということになる。ところが、親鸞によると、このような考え方は弥陀の本願の精神に背いている。なぜなら、善人は功徳によって往生をしようとして、弥陀の救いにたのむ気持ちが足りないから、かえって往生できない。弥陀の本願とは、煩悩具足の悪人である世の多くの人が、どのような功徳もできず迷っているのを憐れんで、悪人を優先して往生させようとするのである。その意味で自力の善行ができない悪人こそ本願を信じれば、善人よりも先に浄土に往くとされるのである。
この場合、問われている「信」の内容である自力の行=善行を否定する親鸞の思想は、善悪の逆転というよりも、現世の倫理を解体してしまった結果と考える方がよいとおもう。信心そのものが阿弥陀仏から受け取ったものであるがゆえに、自力の善行を必要とせず(非行・非善)、ただ念仏だけを称えて阿弥陀仏の本願に委ね、浄土に往生できると信じることは、阿弥陀仏に面する倫理と現世で流通する倫理とが全く背馳するものであることの確認なのである。自力信仰は、自己の中の狭い善悪の判断を基準にし、信仰を任意に選びとっているにすぎないが、それに対して親鸞の他力本願においては、阿弥陀仏の広い慈悲の中にはいってしまうと、その基準そのものが解体してしまうのである。
念仏は文字も読めず仏典の筋道もわからないような愚かな者にも称えやすいように工夫された名号であり、その名号によって救われることを易行という。その易行は、本願の念仏よりも優れた善行はないのであるから、念仏を与えられたことを、ただ素直に喜べばよいことになる。しかも、弥陀の本願で救われないほどの悪はないのである。
また、経典を読んだりしない者は往生しないなどと言いふらす者がいるが、親鸞の念仏は信じて称える以外にどのような学問も必要としない。学問のあるなしを往生の条件にするのは聖道門の難行であり、凡夫を救い取る本願の趣旨をはきちがえたものにほかならない。かえって、それは往生を覚束なくさせるといわれている。親鸞は、たとえ、他宗の人が念仏は浅はかな低級な教えであると批判しても、自分のような凡夫の能力ではむつかしい経典を読むなど及びもつかないから、念仏を称えているのだと答えるべきだと念仏者を諭している。
必要なのは、前世の因縁の結果である善悪にとらわれず、ひたすら阿弥陀仏を信じ、救いを求めて計らわないこと「無義をもって義とする」心のみである。これはあらゆる計らいを捨て、仏の計らいにまかせる心境である。いわば、「信じないことを信じる」ことの謂いにみえる。
では、このように言うとき、念仏者の手元に何が残されるのだろうか。わたしには、ここにいたって親鸞は、いわば「信」を現世から天上界や死の世界へ追いやってしまったとおもえる。だから、現世には煩悩から解脱できない凡夫だけが残される。空海の即身成仏を否定する念仏者は、天上界と現世界を二重化してしまうと同時に、今度は逆に、天上界は念仏者をまるごと現世の方に向かって放逐してしまうのである。
ここには自力を捨てた念仏という手段と目的としての浄土を取り巻く死の意識しかないから、現世的利益という観点からみると、親鸞は「放棄」という形で、現世をまるごと受容したとみえなくはない。しかし、この「放棄」こそが、現世の慰謝という宗教的な意味をもっていた。飢饉、貧困などやり場のない忍従の渦中にある衆生にとって、宗教に何ができるかを問いなおす時、現世の不条理、業悪の責任を転化できる場所はない。だとすれば、現世がどれだけ救いがたく苛酷であっても、すべてを受け容れるほかない。その延長に救いは浄土=来世にしかないのではないかという諦念がやってきてもおかしくない。
ともかく、こうして辱世の意識は死の意識を昇華し純化した。いや、死を意識すること自体が、日常的現世を純化したといってもよかった。 その際、現世は死の意識化とともに、人間がとりきめた狭い善悪の倫理の狭い轍の中から解放されたといえる。
近代以降、ともすれば、この親鸞の悪人正機の思想は自己の罪深さを自覚する念仏者の似絵にそって、キリスト教の罪概念に近づかせて理解する傾向があった。キリスト教の懺悔の思想だけではなく、すべてのいのちが共存していることを自覚して、みずからの生活の不完全性や偽善性を反省し、自我、我欲主義をなくし、互いに慈しみあう世界を築こうとする仏教的生命観が影響しているといわれたのである。しかし、人間の善悪の判断を超えた阿弥陀仏の計り知れない意志を語り、念仏のみがそれに代わる唯一の真実であるとする親鸞が、念仏者に罪の意識を求めるはずがなかった。なぜなら、親鸞は次のように述べているのである。
≪善・悪の二つ、総じて以て存知せざるなり。≫ 『歎異抄』 唯円著
自分(親鸞)は善いということも悪いということもほんとうのことはわからない。如来の心持ちのような高い志をもっていれば、わかるのかもしれないが、自分のような凡夫にはわからない。ただ、念仏だけが確かなことであるというのである。
もしも、人は罪の意識をもち、念仏のたびに、ひとつずつ自分の罪を消していけると考えるとしたら、罪の絶えない人間は一生涯念仏を称えつづけなければならず、その上、不慮の死に遭おうものなら、罪は消えず報われなくなるではないか。そうであるなら、罪の意識をもつこと自体が、ほかでもなく自力の行であるとする言い方ができるのである。この場合、念仏に罪の意識を介在させる方がおかしいのである。事実、親鸞が現世を救い出した意味においては、「本願ぼこり」のような本願に甘えて意志的に犯す罪悪さえもやりかねない、そういう業悪そのままの念仏者さえ、阿弥陀仏に救われるといわれているのである。
「本願ぼこり」とは阿弥陀の本願に甘え、悪人こそ救われるという思想を逆に理解して、悪行を行えばおこなうほど、弥陀が喜んでくれると思い込むことである。思ってはならないことを思い、言ってはならないことを言い、してはならないことをして弥陀に喜んでもらい、往生をとげようとする一部の念仏者がでてきたのである。このような「本願ぼこり」の念仏者に対しても親鸞は、それは宿業がそうさせる悪であるから、救われないことはないと言い切っている。「本願ぼこり」も弥陀の本願を信じていればこそ本願に甘えているのであり、救われないなどというのは誤りだと言うのである。善悪の分別を純粋化によって超えたところに、宗教的核心を据えたはずだからである。
こういう親鸞の思想が、現在のわたしたちの不安や懐疑と相渡るところがあるとすれば、それはとりもなおさず、モラル(善悪の基準)の崩壊という共通の岩盤が横たわっているからだとおもえる。おそらく、親鸞の生きた時代においては、生死にかかわる大規模な危機感があった。貧困と飢餓、戦乱による冷厳な死、これが親鸞の思想の与件であったはずである。その中においても、罪深い衆生がいかにして生存そのままの姿で救済されるかを自問することが、何よりその思想的課題であったのである。自然の欲望の露岩の交錯で、「信」はもちろんモラル(善悪の基準)の崩壊は自明の前提となっていた。これに対して親鸞がみいだした答えは、現世の死を吸引する「放棄」であったといえる。
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