書評 『歎異抄』を読む➄
- 2014年 7月 29日
- カルチャー
- 『歎異抄』宮内広利書評
鎌倉仏教の祖、法然の浄土門の教えは、なにより、仏門の大衆化と民主化だったとおもえる。鎌倉仏教といわれる法然以下、一遍、道元、日蓮、栄西らはだれも、多かれ少なかれ仏教の大衆化をもとめたのである。平安仏教である天台宗や真言宗は仏教のいろいろな教えを統合しようとしたのであるが、鎌倉仏教は反対に多くの教行の中から一人の仏とひとつの行法を選ぶ点に特徴があった。その背景にあったのは、当時、末法思想が拡がっており、実際にも僧侶は堕落して、まさに、鎌倉時代(1052年)は仏教の危機に直面していたことである。さらに、鎌倉仏教の始祖たちは、天台密教の中の「天台本覚論」の影響を受けていた。それは「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)」というもので、人間ばかりかすべての生きとし生けるものが仏になることができるという思想である。これらの理由で、鎌倉仏教はすべての人を簡単な方法で平等に仏になることができる道を求めたということができる。
とりわけ法然は、それ以前の仏教をすべて疑い、明晰な論理をもって浄土三部経に独自の解釈を加えて、最後に極楽往生行の口誦(称名)念仏にたどりついた。中国の僧、善導の『観経疏』をもとに浄土教の体系化をおこない、仏教の大衆化を成し遂げようとしたのである。当時の仏教界においては、極楽往生は深い学問、知識と厳しい修行を抜きにしては考えられなかった。また、阿満利麿によると、仏教の伝来以来、仏像は神々のひとつとして受けとめられて、従来の宗教意識によって仏教は神観念の延長上に位置づけられており、「神仏習合」の形に深く規定されていた。外来魂としての仏が海の彼方の国からやってくるという古代から伝承する宗教意識の中においてとらえられていたのである。
「神仏習合」は8世紀頃から姿をみせ、人々は仏に直接祈願するよりも神を通して仏に接するようになった。仏も衆生に直接説教するよりも神をとおして慈悲を垂れようとするのである。阿満は、この神仏一体を「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」の理論と呼んでいるが、仏や菩薩が神々となってあらわれ、神と仏が特殊と普遍の役割分担をおこなうようになったのである。貴族も民衆も旧来の宗教意識を活かしつつ、仏教の救済にあずかることができる考え方をとった。そんな中、このような普遍と特殊の二重構造を破り、従来の宗教意識の壁に抗して、普遍に直結する飛躍を成し遂げたのが法然である。これは阿弥陀仏の本願にひとえに帰依する超越的宗教といってよかった。
ここでいう超越的宗教という意味は、法然が信仰を日々の生活から切り離して絶対化し、苦行や作善、道徳を超えて、誰もが修することができて救われる専修念仏の救済を説いた点にある。法然の教えでは特別な修行や作善や能力はまったく問われていない。だから、限られた人のための教えではなく、無学な農民や武士であっても婦女子であっても、誰にでも開かれた教義であった。法然の専修念仏は、文字どおり、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏だけをひたすら称えることであった。わが国では古代以来、神を祀るためには食べ物を制限したり、欲望を抑制する苦行が前提にされていたのだが、法然においてはそのような苦行は阿弥陀仏の誓いに記されていないから、ただ、念仏だけがすべてなのである。
平安時代の半ばから源信の『往生要集』によって浄土教が流行し、地獄と極楽を対照的に説きながら、この醜い現世を厭い離れ、美しい極楽浄土への往生を恋い願う思想があった。だが、極楽浄土に往生するためには現世において難行苦行を積み、造寺造塔を行い、厳しい戒律を守る修行あるいは観想という手段が不可欠であり、人間的にも高潔で、慈悲深い心と深い智恵をもつことが求められた。また、臨終のときにのぞんで、阿弥陀仏が菩薩を引き連れて来迎することで往生が決まるという思想や臨終の際、苦しい息の中での念仏の力によって往生が決まるとか、平素称えなくとも臨終のときのみの念仏でよいという考え方があった。
それに対して法然は、往生するのに仏像を造り、塔を建てることが求められるのなら、貧窮困乏な者は往生できない、また、学問や智恵や優れた才能をもった者が往生できるのなら、智恵の劣った凡夫は往生できない、厳しい戒律を求められるのなら、破戒、無戒のものは往生の望みが絶たれるといい、そのような救われない圧倒的多数の貧窮な者、凡庸な者、破戒の者のためにこそ、阿弥陀仏は本願をもってあまねく衆生を摂取すると説いた。煩悩を断ち切れない凡夫、悪人、女人など地位、能力、身分をえらばず、衆生すべての平等な往生こそ法然の念願であったからである。
法然は『選択本願念仏集』の中で、中国の道綽の考え方を受け継いで、仏教を聖道門と浄土門にわけ、聖道門は煩悩を断ち切り悟りを得ることによって仏になる教えであり、だれでもできるものではないから、修しやすい浄土門に帰依すべきと説いた。浄土門に入るなら、浄土に往生する上に直接役立つ正行(しょうぎょう)と、それ以外の直接関係のない雑行(ぞうぎょう)にわけ、雑行を投げ捨て正行を修することを勧める。そして、さらに正行に帰するなら正定の業(しょうじょうのごう)、助業(じょごう)の区別があり、正定の業を選択すべしとした。この場合、正定の業とは阿弥陀如来の名を称する念仏称名をおこなうことである。
正定の業以外には、経典の読誦、極楽浄土の清く美しいありさまを心に描くことや、弥陀の姿を静かに瞑想する行などが含まれていた。しかし、瞑想によって心を集中し、仏や浄土を観想するには、現実の人々の心は狭く、散乱している。このような状態では瞑想や観想はおぼつかないから、阿弥陀仏は衆生の姿を憐れんで名号を称するよう勧めたのである。つまり、人間は欲望が渦巻いていようが鎮まっていようが、ありのままの姿で念仏を称えれば、阿弥陀仏の救済にあずかることでできるというのである。称名念仏は実践が容易であるから、すべての人々に通用するという理由である。法然は聖道の教えは末法の時代の人間には理解も実践も難しいので、浄土の教えこそ縁の深い教えであると説いてまわった。
しかし、法然においては、称名念仏する上で至誠心(しじょうしん)、深心(じんしん)、回向発願心(えこうほつがんしん)の三心を具えなければならないという。至誠心とは身体と口と心で実践する行が必ず真実の心でなされるべきだというのである。そとづらが真面目な修行者らしい装いをしていても、内心では浄土を願う誠の心が欠けており、嘘、偽りを懐くような内面と外面の不一致ではいけないという。深心とは自分は罪悪生死の凡夫であり、輪廻の世界を流転して迷いの世界から脱することなく生きてきたことの自覚をもち、往生できることを信じ、身命をかえりみず迷うことなく念仏の行に打ち込むことである。回向発願心とは、今までの自分や他人がなした善行、功徳をすべて真実の心と深く信じる心に振り向け、浄土に生まれ変わることを求めることである。
また、法然は念仏往生のため四修の実践を勧めている。長期間実践することや西方に背を向けず、西に向かって涙をこぼしたり唾を吐かないこと、縁のある聖人や仏像、経典を敬うこと、ほかの雑行を交えず念仏と経典の読誦に終始することなどである。
これらをみると、法然の思想は親鸞とは微妙なところでちがっている。ひとつには、善悪の観念の切り口がまるで異なっていることである。法然にとっては弥陀の本願によって、悪人でも平等に救われるという思想が下敷きになっていた。老若男女、善人、悪人を問わず称名念仏をしただけで救われるというのである。たとえば、この悪人の中には、漁師、商人、農民など生活する上でやむを得ず、魚や獣を殺し、肉を食べる罪を犯している者が含まれた。また、武士のように宿業により殺生をしなければならない人々のことが念頭におかれていた。法然はこのような罪人、悪人すら差別なく念仏によって往生できると説いたのである。
だが、法然の記録をよく読んでみると、ここで言われている悪人とは、煩悩を具足せる凡夫であるから善行を積むことができないし、どんな修行も耐えられないで、阿弥陀仏にたよらずには救われる道がない人々のことを対象にしており、反対に善人とは、自力で善行をおこない自力で修行することができる人々のことを指している。つまり、俗世間で実際に悪事をはたらく悪人のことを中心テーマにしていないのである。また、悪人を想定しているときでも、悪をあらため善人になって念仏すれば往生できるという言い方しかしていない。
ところが、親鸞においては、宿業によって人を千人殺す罪の救いのことを例にあげているのをみてもわかるとおり、罪悪の質がまるで違った印象を受ける。というのは、法然は仏門の伝統にのっとって、宗教的悪のことをいいくるめているのだが、親鸞の語りは仏門の世界の常識を越えて倫理的・道徳的な悪をも超えていた。だからこそ、親鸞の弟子たちの中から「本願ぼこり」などもうまれたのである。
しかも、法然の思想は、選択念仏による悪人往生といわれ、「悪人でも」救われるという言い方をしている。どんな極悪な者でも、そのままの姿で、深い信念と念仏という条件さえあれば往生できるというのである。一方、親鸞の場合は、「悪人こそ」救われるとしており、この違いは決定的だった。悪人こそ救われるのは、方法が他に考えられないから、阿弥陀仏の力にあずかってよりほか救われるすべがないからである。法然は罪人と悪人について語る際、どちらかというと善人が救われるのだが、悪人としてしか生きられない人々についても往生に漏れることはないというニュアンスを忍ばせている。悪人、罪人ですら往生できるのだから、まして善人が往生できないはずがない。だから、念仏を続けるべきであるという見方に立っていたとおもえる。
法然は一念、十念でもよいから念仏を続けることを説いた。念仏の回数についても、一念でも往生できる、まして多念なら、なおさら往生できると言っているようにみえる。法然は罪業深い者が臨終のとき、善知識(導き手)があらわれ、この者のために経典の名を読み上げるのと、本人が念仏の行をするのでは、罪を消す効果がちがうというようなことを述べている。経典の名を聞くと千劫の罪が消えるのだが、念仏を行すれば五百万劫にも及ぶというのである。それなら、罪の深い者は回数が多いほうがより効果があがることになる。それに対して、親鸞は称名して罪を消すという念仏の効果には自力の計らいが含まれていると考えた。念仏は一念義でよい、一回だけ念仏を称えるだけでよいという考え方が徹底していた。親鸞は、称名念仏自体、阿弥陀仏によって賜ったものだから、その行為自体、口でいうこともできず、言葉で説明することもできない不思議きわまるものという言い方をしている。念仏について人間の小賢しい理性でもって理解することは不可能であると言っているようにみえる。
念仏は行者にとって行でもなければ善でもない。行や善というのは自分の計らいでするものであるが、念仏は自分の計らいでするものではなく、阿弥陀如来からもらい受けるものだからである。そして、信心がおこるとき、阿弥陀仏にすがって一行のみで、すでに固い信心をもらっているのだから、必ず浄土に往生することが保証されているというのである。親鸞はそれをただ一回限りの廻心とよんでいる。念仏以外には、修行も読経も、仏像も寺も作る必要がないと考えていた。日頃、自力をたのむ心では極楽往生できないと思いさだめ、阿弥陀仏の智恵をもらって、自力の心を変えて阿弥陀仏に心から頼り切ることをいうのである。このように、いわば、信心が心の奥深く「内面化」されているのである。
信じる心の不思議さと「内面化」という点に関して、親鸞と唯円はこんな会話を交わしている。唯円が念仏を称えても踊りあがるような強い喜びの気持ちがちっとも湧いてこない、また、楽しいはずの極楽浄土へ早く行こうという気持ちもさっぱり湧いてこないと親鸞に悩みをぶつけた。すると意外にも親鸞は、実をいえば自分も唯円と同じ疑問を感じていると答えるのである。そして、念仏すれば踊りあがりたくなるような喜びを感じないのは、かえって往生がまちがいないとおもわなければならないという。喜ぶべきことを喜ばせないようにするのは煩悩のせいである。阿弥陀仏は、そのような人々の心の中に煩悩のあることを見越した上で、煩悩具足の凡夫のための救済の願を立てたのである。だから、この他力の悲願がわれらのような凡夫のためにあることが頼もしいというのである。
また、早く浄土へ行こうという気持ちがなく、ちょっと病気でもすると死ぬのではないかと心細く思うのは、よほどこの現世の世界が捨てがたくおもわれているからであり、わたしたちの心にさまざまな煩悩が盛んな証拠であるとみなすのである。こういう一見すると煩悩に居直ったかにみえる親鸞の言葉のパラドックスに、「信」の不思議さを見るか、難しさをみるかは人によってちがうかもしれないが、少なくとも親鸞の語りを通じて、わたしたちの心の表面をとおりこした死の意識や「前意識」のようなものが想定されているのはまちがいない。つまり、人々の望んだ場所には信心はない、信心は心の向こう側の世界に深く規定されており、そのため究極の「内面化」を経由せざるを得ないのだ。
称名念仏の「内面化」は、浄土そのものの「内面化」とみあっていた。法然にとって極楽浄土は確かに実在した。法然は源信の思想を下敷きにして、この世は苦悩に満ちた世界であり、あの世=来世こそ楽しみに満ちた世界であるとする。だとすれば、一刻も早くこの穢土である現世を去って、あの世を願い求めよという考え方が根底にあったとみなしてもおかしくない。法然のこのような思想の背後には、実際に、劇的に自らの命を絶ち、あの世におもむいたたくさんの無名の念仏者や「聖(ひじり)」が存在していたのである。だが、親鸞の場合には、浄土を求めて自ら命を絶とうとすることは、弥陀の本願に背くおこないであり、凡夫は阿弥陀仏に任せて命あるかぎり生き、娑婆の縁が切れたときあの世へ行けばよいということになる。さらにいえば、親鸞は救われるための手段としての念仏と浄土との関係を疑義にさらして、絶対他力の果てに浄土の観念そのものを否定したのである。
親鸞の到達点は「自然」ということが、阿弥陀仏の本願さえ手段にしてしまっている場所だった。「信じないことを信じる」世界が、「信じることを信じない」ことに代わる地点に「自然」の思想を置いたからである。そのため、浄土も無であり、すべては空に帰してしまっている。親鸞の究極の「正定聚」の位とは、生からも死からも分別できない世界であったのである。信心を捨てようとしなかった法然の世界からこうした親鸞の「信」の到達点をみると、およそ「信」のあり方が逆立してみえるのは疑えなかった。なぜなら、ここでは「信」は救われるためという目的意識を失い、もはや、信じることの意味をなくすほど「不信」や「愚」と地続きであったからである。
法然の場合、「信」と「不信」あるいは、「この世」と仏の国である「あの世」とはどこまでも交わることのない二元論の主張であった。いわば、目的としての浄土と手段としての念仏が、現世の凡夫としての自覚に促されてパラレルに決定されていた。凡夫が仏になるのは、あくまでも、死後、浄土へ往生してからのことである。凡夫は現在の自分であるかぎり将来の仏ではありえないという一方通行の時間に規定されていたのである。ところが、親鸞における「自然」のあり方をみると、この目的と手段の関係自体を壊して、目的としての浄土がすでに手段になってしまっているのである。現世から疎外した浄土世界が、もうひとつの時間を力点にして二重に疎外される。最初の疎外は、凡夫が浄土を疎外することからはじめられ、「計らわないことを計らう」立場を固めた上で、「自然」ということにおいて、そういう「計らわないことを計らう」こと自体を「計らわない」立場に移行しているのである。いわば、現世の言葉と来世の言葉のその上に、もうひとつの別の言葉の位相が確認できるのである。
そんな親鸞の立場からみると、念仏門にかけられるあらゆる疑念、たとえば、称名念仏は請願の不思議をたのんで信じているのか、名号の不思議を信じて念仏しているのかという問答や、経典や注釈を読んで勉強していないから往生できないのではないかというような疑義などはどうでもよいことがらにすぎない。専修念仏の人と聖道門の人が論争をおこなって、自分の宗派の方が正しいと争い、たとえ、念仏はつまらぬ教えであると非難されたとしても気にせず、自分たちのように文字も読めず、学問のないものには他の教えは修めることなどできないと丁重に答えるべきだと諭している。むしろ、念仏者は自分たちを誹謗する人に対して気の毒に思い、憐れみの心をおこし、彼らが仏教を誹謗した罪で地獄に落ちることがないように祈るべきだという。これらの疑義はすべて念仏の不思議さがわからない自力の計らいが含まれているからである。そればかりか、親鸞は、念仏者は他宗門から悪口を言われないほうがおかしいとさえ言い切っている。
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