史上最高益-経済犯罪
- 2014年 8月 13日
- 交流の広場
- 藤澤豊
新聞紙上で史上最高益うんぬんという記事を見る度に経済欄だとしてももうちょっと書きようはなかったのかと思う。企業の広告宣伝で経営が成り立っている新聞社だから経済欄が財界のお手盛り記事に流れるのはやむを得ないのだろう。その企業が社会欄ではブラック企業として報道されていても経済欄では史上最高益と両手をあげての賞賛になる。その賞賛が企業に対する評価を損益決算に基づいた視点に誘導し、市井の心ある人たちの目からさえブラック企業の醜聞を隠してしまう。
経理や会計をご専門としている方々にはお叱りを頂戴しかねないが、大雑把に言えば、企業や組織の損益は売上という収入から売上にかかる経費を差し引いたものでしかない。売上にかかる経費はさまざまだが、事業に物の売り買いが伴うのであれば、物の仕入れは経費の重要な項目になる。それに加えて人件費もあれば事務所や工場施設にかかるコストも経費になる。単純化した式で示せば、損益 = 収入(売上) - 支出(経費)になる。
収入が多(少な)ければ、あるいは支出が少な(多)ければ企業の利益=損益が大きく(小さく)なる。史上最高益を計上したのなら、仕入れ価格や外注価格、従業員やパートの人たちの給料も史上最高益に見合った金額であるはずなのだが、寡聞にして違う方向の話しか聞こえてこない。
ご存知のように、ヘンリー・フォードは誰もが買える価格の自動車を作ったが、それと同時に労働者の賃金をどんどん上げてフツーの労働者が自動車を買える給料にしていった。フォードの賃上げに引きずられるようにしてデトロイトの労働者の収入が増え、自動車産業がアメリカ経済を牽引するかたちで成長していった。フォードが考えたのは、自動車をいくら作ろうがそれを買える人たちがいなければ、営利事業としてなりたたないというごくあたり前のことだった。これがアメリカにモータリゼーションと都市化を引き起こしアメリカだけでなくその後の世界を大きく変えた。
もしヘンリー・フォードがフォード社の前に作った会社-キャディラック社に固執して一般大衆を自動車市場と考えずに、金持ちの道楽としての自動車生産の事業化を進めていってたら、T型フォードで追求した自動車としての簡素化も製造ラインのコスト切り詰めもしななかったろうし、労働者の賃金を上げることもなかっただろう。
フォードは金持ちのニッチの市場を捨てて、一般大衆のマスマーケットを見た。この視線から史上最高益を謳歌している企業を見ると、ほとんどの企業がニッチ市場ではなくマスマーケットで事業を展開していることに気づく。マスマーケットとはさまざまな企業が一般大衆の可処分所得の取り合いをしている市場に他ならない。一般大衆の可処分所得が増えれば市場全体が大きくなり、その市場で事業を展開している企業も業績を伸ばしやすい。フォードは労働者の賃金をあげて一般大衆自動車市場を作り上げていったが、果たして日本の優良企業と言われる、史上最高益で新聞紙上をにぎわす企業はどうしてきたのか。
自社の収益を増やそうとすれば、製品なりサービスなりをより高く売るか、経費を節減しなければならない。ブランドとして確立した見栄の消費財でもないかぎり市場では競争に晒され高く売るのは難しい。いきおい経費節減が焦点となる。経費を節減するためにさまざまな工夫がなされる。外注価格の切り下げ、価格以外の付帯サービス-ジャストインタイムや自社に都合のよい納品状態など外注業者の負担で自社のコストを低減する。正社員の業務を外注したり、正社員を派遣社員や臨時工で置き換えたりして人件費を削減する。。。
外注にもっと払えば外注先の従業員の給与も増えるだろうし、正社員や非正規社員にもっと給与をだせば、勤労者の可処分所得が増えて消費の増大が見込める。企業としてし得る最大の社会貢献だとも思うのだが、これをすれば史上最高益を実現できないだろう。事業の成長はあっても経費のかたちで関係者に利益(=所得)を配分していたら、企業の利益が減る。この企業の利益が富める社会層の所得の源泉になる。株主配当や金融機関への利益分配を優先すれば企業の事業を遂行している社内外の人たちの利益を犠牲にしなければならない。誰かの利益は誰かの不利益になる。誰かの賃金が低く抑えられれば、その抑えられた賃金分、賃金を抑えられなかった人たちに間接的に利益-物やサービスを安く買えるという利益をもたらす。
こうして考えてくると、史上最高益を実現して世間一般で優良企業と目されている企業、果たしてどれほど社会に貢献しているのか。金融市場に貢献していることは間違いなさそうなのだが、企業の実務を遂行している人たちに史上最高益に見合った待遇を提供しているようには見えないし、たとえ間接的であったとしても一般大衆の可処分所得の増加に貢献しているとも思えない。史上最高益を更新して企業の内部留保を積み上げたとして、その積み上げた資金が日本の経済成長や生活水準の向上に寄与するかたちで資本投下される可能性すらなくなってくると、史上最高益とは日本にとって、日本人にとってなんのメリットもないどころか日本を、日本人を犠牲にして実現したものではないかとすら思えてくる。史上最高益とは反社会的経済活動の結果であって、企業としても社会としても恥ずべき結果にすぎないのではないか。大きな反社会的経済活動の結果として大きな史上最高益を計上した会社を多くの日本人がいい会社だと思っている。反社会的経済活動の広報機関としてのマスコミにそう思わされているだけだと思いたいのだが、心底そう信じ込んでいる感のある人たちの話を聞く度にどう説明したものかと。。。
2014/8/10
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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