師匠はいらない
- 2014年 12月 21日
- 交流の広場
- 藤澤豊
文化や技術に限らず全て先人から学ぶことから始まる。それが家庭における日常生活を通してのこともあれば学校のような体系だった集団教育のこともある。なかには学術研究や芸術、芸能や工芸の世界のように師匠と弟子の関係を通してはじめて可能なものもある。どのようなかたちであれ、まず先人が到達した地点に到達することが求められ、そこに新しい何かを積み上げて次の世代に引き継いでゆく。見ようによっては歴史とはこの遺産継承の継続に他ならない。
引き継いだものの中には、時の経過とさまざまな状況のもとで吟味、精査され人類の叡智、文化遺産として疑問符を発することさえ憚れるものある。そこまでおおげさなものでもないにしても、どのような遺産であっても継承するには、継承するものだけではなく継承するものを築き上げてきた体系だった価値観や考え方、理念を伝えなければならない。この伝承される価値観や理念が次の時代の人たちの思考形成の基礎になる一方で将来の指向を規制する。価値観や理念が歴史によって精査され精緻に堅固に確立されていればいるほど次の時代の人たちを先人が築き上げてきたものに内に押しとどめ進化を延長線上に拘束する。
継承される遺産が大きければ大きいほど断絶や変質は許されず継承した遺産の自然延長線上の展開に制限される。この制限のなかで能力を発揮できる人たちのみが正統な後継者として選別され、制限を超えて自由な展開を試みようとする人たちは異端と見なされる。
徳川幕府の思想的支柱とされた儒教や陽明学を学んだ正統派の人たちは蘭学を受け入れられなかっただろう。受け入れるということは自分たちが引き継いできた全て-社会を規定している思想や理念を否定し、自分たちのよって立つ基盤を切り崩すことになりかねない。それでもそこには切り崩せば存在し得ない旗手の立場の先生方と先生方に師事した(だけ)の従者の立場の人たちもいたはず。旗手として権勢を誇ってきた先生方には陽明学と心中する以外の選択肢はなかっただろうが、従者のなかには切り崩すことで旗手先生-師匠を否定し乗り越えるチャンスと見る人たちもいただろう。
似たようなことが、今経済学の世界で起きているのではないかと、そこから次の時代の理念に発展するなにかが生まれるのではないかと期待している。
理論として成立するための条件が遠の昔に誤りであることが証明された仮説-古典派の見えざる手に代表される仮説に基づいているにもかかわらず富める社会層の需要を満たすことから八十年代から新自由主義が経済学の主流派として権勢を誇ってきた。リーマン・ショックに続く金融危機が、新自由主義は机上の仮説に基づいた経済理論過ぎず、社会の実利おいても許容し得ない害をもたらすものでしかないことが証明されてしまった。社会が大きく変らざる得ないところに至っていること、その危機をもたらした経済理論を変えなければならないことも明らかになってしまった。そこには新自由主義を掲げて旗手として学会から経済社会を導いてこられた高名な先生方とその強い影響下にいる学者や研究者、金融や財政の実務の方々、さらにその周りに従者の人たちがいる。戦後のケインズ経済学に基づいた厚生経済学を否定し新自由主義を打ち立てて、経済や社会の主流派を形成されてこられた高名な先生方とその強い影響下の方々これからいったいどうされるのだろう。
ここまで誤りであったことが明らかになってしまっても、それは実務上のテクニカルな面での間違いが招いたことで学説としての誤りはないと主張して新自由主義と心中する以外の選択肢がない旗手の立場の先生方々も多いだろうが、はたして従者の立場にいらした方々、まさか一度は唾棄したようなかたちで袂を分かったケインズの亜流でもというのも心苦しいのではないかと人事ながら心配になる。江戸末期には陽明学に変わる蘭学という都合のいいものがあったが、新自由主義から渡るに船の船があるようにはみえない(素人の余計なお節介?)。
旗手である先生-師匠に近ければ近いほど師匠から継承した遺産を否定するのが難しい。師匠の存在が大きければ大きいほど、また継承した遺産が大きければ大きいほど、それから自由になるのが難しい。お仕えした師匠が軽量級であれば、また引き継いだ資産が大したものでなれば、自身にとってもまた周囲からの評価の面でも影響下からの脱却も容易だろう。その意味では、今まで強力な師匠に恵まれていなかったという弱い立場が幸いするかもしれない。権勢を誇っていられるのであれば、強力な師匠の影響下に留まって自分を押さえていることにも意味があるが、時代の節目においては権勢を誇ってきた強力な師匠の近くで侍べり続けるのは危険だろう。
変化の早い時代だ。下手に強力な師匠にお仕えして自由を失いかねないのだったら、軽量級の師匠の方が、あるいは社会全てを師匠にして特定の師匠を持たない方がいいかもしれない。師匠を持てるものの正統性が師匠を持たないものの自由な発想に取って代わられる可能性すらある。巷でいう師匠はいらないと言い切れる自分でいれたらと思う。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。