書評 :塩原俊彦『ウクライナ・ゲート』(社会評論社、2014.10.10発行)
- 2014年 12月 22日
- 評論・紹介・意見
- 染谷武彦
*『ウクライナ・ゲート』塩原俊彦著(社会評論社 2014.10.10発行 2400円+税)
これは「ウクライナ問題」を素材にしてネオコンの野望を徹底的に暴露、糾弾した書である。日頃から米欧マスコミの基調に乗った高邁な「学者」たちのウクライナ問題の論考に辟易している向きには、読後の爽快感を確実に保証できる。
昨年末から今年2月にかけてウクライナで起こった”政変”にたいして、また、それに起因したロシアのクリミア併合にたいして、われわれはいかに情報操作されてきたろうか。
そうした反省をもとに本書を繙けば、ウクライナ問題の一連の経緯を通じて、米国の横暴な政策が底流になっていたことがよく理解できる。
すなわち、著者によれば、「ウクライナ危機の本質は、ネオコンによって主導された米国政府がウクライナ支配をねらって仕組んだ帝国主義的侵略にあると理解すべき」であるとされる。米国は「ウクライナを将来的にEUやNATOに組み込んで、米国中心の秩序のなかに同化させ、ロシアと対決しようと」しているのだと結論づけている(以上本文212ページ)。
しからばネオコンとは何か。著者によるまとめを敷衍するならば、以下であろう。
1.世界を善悪に二元論的な対立構造でとらえ、外交政策に道義的な明快さを求める。
2.中東をはじめとする世界の自由化、民主化など、米国の考える「道義的な善」を実現するため、米国は己の力を積極的に使うべきだと考える。
3.必要なら単独で専制的に軍事力を行使することをいとわない。
4.国際的な条約や協定、国連などの国際機関は、米国の行動の自由を束縛する存在とみなし、国際協調主義には極めて懐疑的。
さらには、ネオコンにはユダヤ系知識人が多く、イスラエル政府とのつながりを持つ者も多いという点も特徴的である。
要するに、世界を「民主化」という美名のもとに、それを達成するためには力の行使をいとわない。しかし、力の行使が民主化として帰結するかどうかには本質的には関心がなく、軍事行為やエネルギー側面で、米国に有利に働くような体制や制度的枠組みの構築が帰結さえすればよいと、著者はネオコンをくくっている。
以上の観点を押さえた上で、本書の内容概略を詳述していきたい。
本書の構成は序章をふくめ、全体で以下に列記するように6つの章からなっている。
序章ーウクライナを論じるための基礎知識
1章ー誰がウクライナ危機を招いたか
2章ーナショナリズムの煽動という大罪
3章ー軍事とエネルギーでロシアを攻撃する「ネオコン」
4章ー「デジタル外交」と情報操作
5章ーウクライナの今後
序章では、とくに第二次大戦最中におけるウクライナ西部で起こった独立運動についての説明がなされ、今時のウクライナ危機の底流にあるウクライナの反ロシア感情の淵源が紹介される。
第1章では主として米国政府中枢が抱えている「ネオコン」グループに焦点をあて、その人脈や、かれらが意図するところが暴露される。
第2章ではウクライナ暫定政権に潜む超過激なナショナリスト集団=ライトセクターのこれまでの動きが浮き彫りにされる。選挙で選ばれたヤヌコビッチ政権が暴力によって倒されたことの追認をしている欧米の姿勢を厳しく糾弾している。この一件こそ、ウクライナ問題の中心的核とも言える案件で、重要である。事実関係は、2014年2月21日にドイツ外相、ポーランド外相、フランス外務省欧州大陸部長のもとで、ヤヌコビッチとウクライナ改革各派代表との間で結ばれたとされる「協定」が、その後に暴力を伴う政変で破棄されたことこそが発端であるとしている。協定では、2004年のウクライナ憲法に復帰し、新憲法採択後に2014年内に大統領選挙が実施されることなどが謳われていた。ロシアの主張は、この協定を遵守して事態をそこに復することにあったからである。協定破棄は認められない。また、それを追認する欧米の姿勢にロシアは強い拒絶反応を寄せたのだ。そして、ここで活躍した「ライトセクダー」の殺戮から地域のロシア人を守るべく、ロシアのクリミア併合が成ったことが詳述される。じっさい、多くの西側マスコミが意図的に無視しているが「オデッサ事件」では48名もの親露派活動家がライトセクターに焼き殺されているのだ。
他方でロシアの資源問題,なかんずくガスプロムとその支配下にあるガスパイプライン網の事情については著者自身の長年の研究歴がものを言って特記的強みをもって論じられている。ここでは著者独自の主張として、ウクライナ東部のシェールガス埋蔵の問題と、それに触手を伸ばす米国ネオコンの野望が明らかにされる。
第3章ではウクライナ問題とNATOとの関係が抉られる。米国の軍産複合体はかつて元米大統領アイゼンハワ-が危惧した通り、「全米企業の純所得よりも多い安全保障費を費やして」おり、国家からの巨額の資金投入が直接に軍事産業に関わらない、マスコミを含む文化面にも強い影響力を持ち出していることを挙げ、警鐘を鳴らしている。そしてNATO自体が米国に依存した機構であり、欧州各国はこれに引きずられている構図が明らかにされる。他方で中国の動向にも目が向けられ、対欧米関係でロシアを隠然と牽制しつつ対露ロ関係に当たる、漁夫の利を得んとする中国の姿勢が浮き彫りにされる。
第4章ではウクライナ問題そのものから距離を置いて、それを扱うマスコミの姿勢が検証される。ワシントンポストは「オデッサ事件」でライトセクターが跳梁跋扈したことを敢えて伏せ、ニューヨークタイムスはロシア国境からウクライナにロシア軍隊が派遣されたかのような主張を繰り返し、偏向報道に徹していることが指摘される。さらに、暫定政権が閣僚内部に極右過激派を抱えていることを明らかなにしないばかりか、反政府勢力の武器の出所を追及しさえしない姿勢の欧米マスコミを糾弾する。かつてイラク戦争当時に米国政府の言い分を鵜呑みにして顧みなかった欧米マスコミとそれに追随する日本のマスコミも合わせて批判の的になっている。
第5章では著者の本意が展開され、合わせて著者独自のウクライナ問題の今後の展望が示される。ウクライナ側の観点からすれば、クリミアを失ったことでGDPの3・8%の落ち込みを被っているとされ、ウクライナ経済は大きくロシアに依存しており、ロシア抜きではその立ち直りが期待できないことが明らかにされる。すなわちウクライナの輸出総額の23・8%がロシア向けであり、逆にロシアはウクライナへ石油や天然ガスを安価で輸出する一方、車両や軍需品を高額で輸入するという形で、50~100億ドル相当の援助をしてきている。ロシアとの関係を断絶することはウクライナ経済に破綻をもたらすことが明らかとなる。同時にウクライナ人のロシアへの出稼ぎも300万人と多く、ウクライナ生産年齢人口の7分の1に達している。裏を返せば、ロシア経済もウクライナに依存するところが大きく、両者の関係が修復できないほどに拗れてしまえば、とくにウクライナ側の受ける損害は甚大だということが分かる。
また、天然ガスについても、ロシアの主たる輸送ルートは2本で、ウクライナ経由で大規模開発が期待されていたサウスストリームは本書出版後にはご破算になって、ロシアのウクライナ離れは一定の方向性に歩み始めてもいる。
以上、大雑把に見てきたが、本書の強みはその資料渉猟の幅と深さにある。個々の事例はいちいち挙げなかったが、事細かい探索が行われ、著者の資料渉猟の行き届き加減には誰しも圧倒されるであろう。ネオコンの野望を逐一の文献渉猟をもとに、政治家個人の名を挙げつ、その人脈を追跡してつぶさに検証していたり、石油天然ガスなら、その背景となるロシア・ガスプロムの人事関係からパイプライン敷設の有り様など、事細かに追跡していく丹念さには敬服する。この点は本書の価値を高めている。
他方で、いくつか気になる側面も存在している。本書は直接にウクライナ問題とは離れて、言語と民族、近代国民国家、民主主義、自由などの抽象論への言及に多くを割いている。本質論談義は議論の進め方として避けられないのではあろうが、それは時として知的水準があまりに高く、哲学談義に深入りして難解過ぎる。一般向け教養書としての水準を遙かに超えており、全体のバランス感覚の修正が求められよう。
なお、今時のウクライナ問題に関わってネオコンの対ロシア政策の究極的到達点についての推定は欠落させている。評者の私見では、ネオコンの究極目標は、ロシア連邦を解体に導き、プーチン大統領を第2のミロシェビッチとばかりに、ウクライナ戦犯として国際法廷に立たせることあたりに落ち着くのではないか。ウクライナ問題に関して類書に見られぬ米国批判を特徴とする本書では、そこまで想像力を逞しくさせてもおかしくはない。
著者はまた、日本のウクライナ問題にたいする取り組みにも言及する。ロシアの支援なしにウクライナの再建はありえず、ロシアも加わったウクライナ支援の枠組みを整えるべきであるが、日本国内のマスメディアが米国寄りに偏しているから、こうした外交をとるのが困難になっているとの結論である。だが、これは無い物ねだりの愚痴であり、本書の内容からはみ出しており、無用なおしゃべりではないのか。
評者は左流を自認するが、評者からみて著者が「遅れてきたラジカリスト」という印象が色濃い。米国のキューバ・グアンタナモ基地の占領を取り上げ、キューバ政府の再三にわたる要求にも応えず、手放さずにいることを挙げて、米国の不正を糾弾している。これほどに根源的な批判はあまり目にしたことはない。とは言え、左流論壇には新参者であることもまた明らかで、たとえば2001.9.11を「同時多発テロ」として、著者が本書で一貫して批判してやまない欧米マスメディアの表現をそのまま借用している点にそれが言える。
終わりに本書の読後感としてどうしても書いておきたいことがある。
米国の強みはどこにあるのか。資本が世界を席巻し、資本の集中化によって国家や個人の自由をも脅かすまでになり、一部の人間がイデオロギー上の敵のいなくなった世界で、民主主義を喧伝し、都合のいい資本の論理に組み伏せるもの、それを著者は全体主義的民主主義と呼ぶ。この資本の力はネーションを超えて移動する。そしてネオコンの本意は近代国家を解体させる力をもちながら、しかし、ネーションという枠組みから乖離できずにいると著者は看破する。多くの地域ではこれを当然のことと受け入れ、受け入れない地域は暴力によって服従を迫られるわけである。著者は、世界はこのような秩序で動いているとして、巨大マスメディアもその中に組み込まれており、その外に立って批判する視点を失っていると見ている。
資本の力は強靭だ。著者は民主主義が全体主義と親和性をもつと説きながら、しかし、資本の力、貨幣の掌握は一方で知的活動と親和性をもつものでもあることを見落としてはいないか。欧米マスメディアの偏向が横行するのは、それを受け入れている多くの世界の地域の無数の知識人のうちにある米国流の世界了解がそこに存在するからであろう。それなりに受け入れる下地があるのだ。米国は世界各地から多くの留学生を受け入れるばかりでなく、優秀な研究者たちを潤沢な研究費とともに育成している。資力・貨幣の掌握による米国の支配力は強大である。それは十分に世界各国の政治動向を領導しうるものであるばかりか、その支配力は各国知識人層のイデオロギーにも波及する。それは偏向したマスメディアを鵜呑みにする知とも親和性を持つ。著者は本書を通じて一貫して世界に横行する巨大マスメディアの偏向を指弾するが、実はそうした偏向が受け入れられる下地というものが確かにあるのだ。世界各地域の知識人層がマスメディア同様に多かれ少なかれ資本力の下に蹂躙されている側面があるからではないのか。もちろん、そうした蹂躙に抗して真理探求に直進する真摯な研究者は存在する。いうまでもなく著者もその貴重な一人だ。しかし、それは世界のどこでも多数派を形成しにくいのだ。本書を読んでの読後感としてこのことを強く感じ、著者の労作に感謝するとともに、今後とも孤立することなく邁進されるよう声援のことばを送らざるをえない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion5080:141222〕
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