英会話学校―はみ出し駐在記(5)
- 2015年 3月 17日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
輸出業務担当の子会社、仕事で英語を使うことがないわけではないが、所詮営業部隊の後ろに控えた技術部隊、機会は限られていた。癖の強い営業マンから彼らの判断(都合?)で、これは技術の仕事と押し付けられた諸雑をこなす日々だった。そこでは技術屋への可能性は追いかけようもなく、いくらやったところで気の利いた雑務屋にしかなれない。自分の将来のために、なんとかしなきゃ、何かしなきゃと考えても何も思いつかなかった。小遣いと夕方か週末の空いた時間でできることは限られていた。あるいは限られていると思い込んでいただけで別の可能性を知らなかっただけかもしれないが。何もないなかから思いついたのは夕方の英会話学校だった。
仕事で必要かと聞かれれば、Yesだったが、まあ使えないより多少は使えた方がいいという程度だった。何故英会話を?と聞かれれば、他にやること、できることを思いつかなかったからでしかない。特別な目的もなし、二期上の人が行っていたことがあるというだけで英会話学校を決めた。通い始めて知ったのだが、教育関係でも結構名の知れた米国の財団が後ろ盾になっている英会話学校で、数ある英会話学校のなかではまともなところだった。
クラスが1(下)から6(上)段階に分かれていて、6段階を終わってしまっても勉強したい人たちのために上に二つのクラスが用意されていた。入学するにはまずどのクラスに入れるべきか-入学前の英語のレベルを確認するテストがあった。受験も経験していない、真面目に英語を勉強したこともないのが何の準備もなく、placement testと言われて、それなんですかって感じで受けたテスト、結果はクラス2(下から二番目)だった。何もしてきていないにもかかわらず、図々しくも多少がっかりした。でも、まあ順当な結果だろうと納得する気持ちの方が強かった。今だったら、2から始めればクラス6まで相当勉強できると喜ぶのだが、そんな気持ちも何もなかった。勉強したい、しなければならないという気持ちはあったが、切羽詰まっているわけでもなし、ふわふわしていて何もなかった。
先生方は英語を母国語としない人たちに英語を教える教育を受けた人たちだった。それでも授業は形にはまったつまらないものだった。週明けは決まって、週末に何をしたかを生徒に拙い英語で話させる。その話を聞いて一時間の授業が終わる。パターンプラクティスとして生徒同士でオウム返しのようなことを繰り返す。生徒にプレッシャーをかけずにおだててその気にさせるという米国系の教育姿勢の副作用とでもいうのか先生がフツーの日本人には度を超えて優しい。緊張感もなく授業にでていれば教科書のセッションが形だけは消化されてゆく。時間は過ぎてゆくが何が身についたという実感のないまま三ヶ月の学期が終わった。
仕事の緊急性(どの程度?)は英会話教室の日程に合わせてはくれない。明日でも明後日にでも処理すれば十分だろうということでも癖の強い営業マンは押してくる。表面上は勉強を頑張れという一言二言だが内実は嫌味以外ではない。授業に出ようとすれば残業できない。授業日の週二日の残業を極力減らして、残りの三日間の残業時間を一時間ずつ増やして周りとのバランスをとった。今でもあるだろうが、そこは昔ながらの日本の会社。
基幹産業と言えば聞こえはいいが構造不況の製造業、安月給から使える金はしれている。たかが三ヶ月で結論を出すのは早過ぎるだろうが、何の効果があるとも思えないところに職場では歓迎されないこともあって次の学期には行かなかった。たった三ヶ月の英会話学校だった。
数ヶ月後にタイミングを測ったかのようにニューヨーク駐在の命令がでてきた。中学校卒業以下の英語のレベルで何の準備もなく赴任した。二十五歳で赴任してバタバタしていたら入院して手術が必要な病気にかかっていることが分かった。米国で入院したのでは駐在所に迷惑がかかる。駐在を切り上げて慌てて帰国し夏休みに手術して秋には職場復帰した。仕事に戻った時は三十歳になっていた。三十歳にして将来何をどうしてゆこうという考えもない。駐在に行って何が変わったかといえば英語でのバタバタに慣れたくらいだった。
手術後の回復を待って、また英会話学校に通おうと思った。歳だけはとって、前と同じように何かしなければと思ったが何もなかった。三ヶ月で辞めてしまった学校に行ってまたplacement testを受けた。結果はクラス3だった。駐在にでる前に三ヶ月お世話になってクラス2からクラス3に進級した。何年かニューヨークで駐在員生活をした後に受けたテストでクラス3。米国でバタバタ生活を送って英語であれば日常生活ならなんとでもなる、なんとでもしてきたにもかかわらず試験の結果-英語のレベルは駐在前と変らなかった。
米国あたりで生活すれば英語ができるようになれると考えている人たちがいるが、それは米国で英語の勉強をきちんとすればという話で、ただ現地で生活してきただけではしれている。仕事は工作機械の据え付けや修理。相手は機械で人であることは希だった。そこで身につけた英語、日常生活はなんとかしてきたというものででしかない。
仕事を通した経験で得られる知識では将来がないことがはっきりしていた。ぼんやりしていたがそれでも三十を過ぎると多少は何か考える。自分の金と時間でできることは何かと考えたが他が思いつかなかった。駐在にでるための英語でもなければ、ましてや教養の英語でもない。会社を辞めてメシをくってゆくための英語、英語と日本語で何が分かるのか勉強を始めた。英語は好きではないというより嫌いだった。できれば英語でなにかをするのはイヤだったが他に何も思い浮かばなかった。
香港の客のマネージャから聞いた言葉が背中を押してくれた。お互い三十歳だった。一緒に夕食に出かけたときになんどか聞いた。「男の人生は三十から。それまでは準備期間。」「三十からが人生、お互いこれからだ。」
今になって思えば歳は三十でも六十でもかまわないし男も女もない。英語でもなんでもそうだが、しなければと思ったときが始めるとき。やるだけやってみるしかやれることはないのだし、やるだけやってダメならしょうがない。やらずに後で悔いが残るのだけは避けたい。やればやったで、上手くゆかなかったとしても何か残る。残った何かをどう使うか人生だろう。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5240:150317〕
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