『帝国と奴隷』ネグリを超えるマルクス『目に見える経済学』資本主義の終焉と日本革命遅延喪失の30年を取り戻す知性情報革命としての対話的連帯と実践(その2)
- 2015年 5月 22日
- 交流の広場
- 武田明
ちきゅう座総会が、今週の土曜日へと迫ってます。
直前再掲載/ちきゅう座第10回総会に向けて:運営委員長からのご挨拶
http://chikyuza.net/archives/53095
問題は、山積しているのです。あまり長文になってしまい時間をここで取るのも得策ではないでしょう。
出来るだけ多くの方の参加を求め、そして、合理的な作業の分担、労働化する事の創造が、実践として問われているのではないでしょうか?
インターネット技術論、そして、オールジャパンとしての政治理念と人材の確保、更に、資金運用です。
この三つを明らかにしなくてはなりません。
常時、提案と公開をインターネット上に公開しつつ展開すべき時です。
しかし、チャットからツイッター、ブログ、動画、使い方まだまだ、未熟な段階に左派はあります。
いつ、動画が取り入れられるのか?3年後かそれとも…。厳しい状態とも言えます。
資金があったなら何がしたいのか?映画製作か?その前に、『ちきゅう座読本』テキストに辿り着けるのか?
オールジャパンは、軌道に乗れるのか?問題は、山積しすぎているのに、「技術なし、理念なし、資金なし」0円からの出発が余儀なくされているのが現在の苦境です。
ただ希望は、人を集め、人海戦術へと展開できるのか?
1%の支配への99%の戦いであるはずのピケティ格差論から繋げていかねばならないはずです。
みなさん、頑張りましょう!
序説
副題:《友愛と真実と「平和と共生」オールジャパン、ちきゅう座総会の創造的近未来対話に向けて》
何とか多くの若い方々の参加をお願いしたいものです。
先日のNHK日曜討論にて、「子供の貧困率」問題が取り上げられていました。
自分は、価値がなんじゃないか。生きている意味がわからない。
進学したくともお金がない為に断念せざるをえない。
沖縄、福島だけではない生き地獄を日本列島あちらこちらに振りまいているのが今の日本独裁政府であり資本主義、植草一秀氏の言う「戦争と弱肉強食」の政治なのです。
この非正規労働者、若者問題については、特に、山本太郎氏と雨宮処凛氏が、リーダー的に、声を上げている分野ではないでしょうか。
更に、その先にあるものとしての「平和と共生」としての「格差是正」論と希望をこれからもちきゅう座は語り続け仲間をふやし読者以上に、告発者、書き手を増やしていくべき時と感じています。
いつもCM大企業広告でしかないメディア独占状況の中、まともな情報が、ちきゅう座的訴えもそうですが、インディーズネットへと追いやられている事が、残念でなりません。
5月19日深夜の時間、岩上安身氏のツイキャスは面白く興味深かった。
@iwakamiyasumi: 【Ch1】ただ今、Ch1では「岩上安身によるTPP交渉差止・違憲訴訟の会 弁護団共同代表・岩月浩二弁護士インタビュー」を中継中です。Ch1→ http://t.co/BZWcP7rnKP CAS→ http://t.co/q0JpXskR9D
(もう周知されているかも知れませんが、現在は、観る事が出来ません。有料ページになっています。技術論的に学ぶものが、ここにもあります。)
この様なTPPと知的財産権、一切のコピーや情報を遮断する世界、憲法革命(革命とは名ばかりのクーデター)が断行されるのだとしたらまさに、今以上の暗黒世界となるしかない。
この事の真偽を明らかにしていかねばなりません。
学問の自由の根本が脅かされ兼ねない。
知る権利をも担保されない社会とも言える。
まさかそこまでは、とも思うのだが、今の日本の現状からしても、国民は、政治から遠ざけられて自民党一党独裁が続いている。
経済は、財政赤字及び「利子率革命」の影響で、危ういばかりであり、辺野古基地問題とオール沖縄、原発事故被曝問題、もはや、国民を、奴隷のように、家畜のように、追いやるしか国体を維持できない段階まで来ているというのが、資本主義の遅すぎた終末期である今日の在り方でしかない事に、怒りと抗議の声を、あらゆるところであげていかねばならないまさに差し迫った現実なのです。
今年は、間に合わないでしょうけれども、是非、別の機会にでも山本太郎氏雨宮処凛氏植草一秀氏を招き、多角的若者の論政治論をちきゅう座から首都圏へそしてインターネット世界全体へ広げていきたいものです。
(しかし、それも、ちきゅう座読本参加としては、いつでも叶う範囲ではないかと思います。)
(1)ちきゅペリアと憲法革命
TPPと憲法革命(実は、反革命)の危機については、既に、紹介していますので、
次に、ちきゅう座総会にちなんで、インターネット技術論としての可能性について模索していこうと思います。
ここからが、本題となります。
みな心待ちにしているちきゅう座への期待、何とか、苦しい人々の気持ちへと届けられないだろうか権力の下敷きになっている人々の代弁、情報基地的発展を望まない人はいないでしょう。
ちきゅペディアと0円商品から命懸けの商品への飛躍としての『ちきゅう座読本』テキストについて
http://revolutio.exblog.jp/21805781/
今回の付録:ちきゅう座内外性と橋下徹第二ファッショ的「逆大阪コンミューン」
http://revolutio.exblog.jp/21805929/
(2)マルクスと宇野理論(日本社会主義経済学思想)の復興の可能性について
今週30日に引き続き来週は、こちらがあります。
5/30世界資本主義フォーラム(研究会)用参考資料
http://chikyuza.net/archives/53199
3時間(午後2時から5時まで)
一見、過去の一時代のものとして取り扱っていますが、語られているのは、現在であり、21世紀の宇野理論復興ではないだろうかと感じて読んでいました。
僕の考えでは、日本の読者向けである最初の限定によって、わかりやすく、資本主義の多重起源説としているのであり、
その実、実際は、現在、問題なのは、中国であり、中国は、資本主義か社会主義かの問題に代表されている故、「資本主義の多重起源説」としてるのではないかとうがった見方から読み取っていた次第なのです。
ソビエト崩壊以後、暗礁に乗り上げているマルクス『資本論』研究と日本のマルクス経済学(宇野理論)であり、何とか、それを研究対象として取り戻し継承、批判的継承の土壌にあげたいとする苦心に喝采しながら、更に、ここから何を読み取るべきかと深読みせざるおえないものを多々感じていたのです。
結論から言うなら資本主義は、僕にとって、画一化した一つのものしかありません。
むしろ、気がつかなかったのは、社会主義社会の側が、多重起源的であったという事です。
まず、中国の話をしました。
更に、キューバであり、北朝鮮、そして、中東イスラム国家の可能性がそれです。
北朝鮮は、兵糧攻め(COCOM)によりいびつな在り方をしていますが、幾らでも、変われる可能性がありながら、チェチェ思想としての独自性もないわけではありません。
出来るだけ、『目に見える経済学』として僕は、展開したいと考えていますので、資本主義の本質は、利潤であり、画一化であり、量産なのです。
それによってどの都市も同じチェーン店展開、コンビニやマクドナルドアメリカ商法が横行しているという訳です。
資本主義が、崩壊しなかった訳は、池上彰氏や水野和夫氏の述べているように、マルクスやケインズ、また、ソビエトや中国などの社会主義国の存在がクッションとなっていた故に、極度の非人道的労働が抑制されていた福祉政策もどきが、政府、施し、分配として、若干されていた故であるという事です。
資本主義は、機械化からIT革命まで、一貫して、量産と簡易さを求めてきたのであり、多起源多様性と見られるものは、実は、社会主義的要素であると僕は、考えています。
しかし、コンビニもチェーン店も悪くはない。
プラグマティズムも実用性も飢えさせないためには、必要性もあるでしょう。
だがそれは、画一化であり、支配の機械主義化であった事の分析をポストモダン的展開もあります。
「私はむろん、何か新しいことを学び、したがってまた、自分で考えようと志す読者を想定しているのである。」資本論文庫版第1巻p13第一版の序文
では、わかりやすく最初から語り直してみます。
「一見、過去のものとして19世紀や資本論内部、宇野段階論を取り扱っている様に思えるのですが、それを通して、実は、現在を語っているのであり、大河ドラマや歴史小説がピックアップの仕方において、現代的主題性に結びつけられていたり、再編集される事によって、歴史的現代としてのアプローチとなっている場合があるのと同じ様に思える。」(手帳から書き写し)
現代中国の近未来性は、更に、某大な資料性においてしか語ることは出来ず、論点が、それによって、曖昧にもなりかねない。
しかし、過去の一部分を例証としながら、論理としての興味、資本主義への興味としての導入部とする、マルクス、宇野理論批判的検証、継承性を開示する逆説性を僕は、読み取らざるをえないだけなのです。
基本的に、マルクスも宇野理論もいまだに正しいと言うのでは、身も蓋もなく、資本主義信者もリフレ信者も読まれる前に、全否定、糾弾、弾圧したいと言う赤狩り的原始的欲求をむき出しにして来られるのは得策でもないからであり、絡め手からの逆説的論調を採用しているのではないでしょうか?
かなり逆説的でうがった見方ではありますが。
僕自身は、あまり、宇野理論については、知らないものの、ダメになったらなったなりに、言及されていなくてはならず、それは、マルクスについても同様なのだけれどもソビエト連邦崩壊後、触れられたくないもの様に、パッタリと学究さえ途絶えてしまい過去に葬り去らんとしている新自由主義的無知なる風潮が、戦前のように、そして、今や、平和憲法にも、戦争法案的にも戦前に逆戻りの知的基盤の瓦解があり、ファショ、在特会差別が、あたかもニュートラルのような首相ファッショにまでいよいよ辿り着いている状態であるという事であり、資本主義のアンチテーゼでもある社会主義理論の研究無くしては、労働組合運動も更なる硬直化を招くであろうし、労働者や国民のアイディンティティ喪失にもなりかねない。
そもそも、ソビエト連邦崩壊としての国体思想でもなく、寧ろ、国体思想に対抗する真自由主義の思想基盤であるのが、マルクス主義や社会主義論理の歴史であったにも関わらず、全てを吹っ飛ばし、知性も理性も存在しない、ファショと帝国主義盲従だけが残っている危機が、今なのです。
収斂説ですが、どう考えてもEU連合が、形成された段階において、資本主義的収斂がされていると考えるべきでしょう。
資本主義的機械化とは、ただ単に、画一化の意味でしかないからです。
19世紀に限定して、起源としての出発点のスタートラインが一致していない事は、大きな問題ではなく、寧ろ、自然で当たり前の事で、周縁諸国を植民地化しながら、画一化を進めていく、文化や民族性を踏みにじりながら推し進められていった在り方こそが、問題視されるべきであるという事ではないでしょうか?
資本主義の本質を哲学、古典経済学的限界性はあったとしても、十分理解の届くテーゼを資本論は、シンプルながら今だに備えているという前提から展開出来ると考えています。
収斂説的であると言うのは、今日、別の意味が含まれているのであり、それが、「社会収斂説」としての資本主義と社会主義、『資本論』の収斂説性として、考察されている意識です。
万年帝国主義としての乗り越え不可。
ローマ帝国、アメリカ帝国主義、徳川幕府が、三百年継続するのと同じ意味合いの支配から目覚めない世界を意味します。
刀狩り以後、権力と武力は、独占され、集中され、兵士、労働者や浮浪者の死体は、放置され、国民が認知症を患い放置されている現状と本質的なものが、なんら変わらず、『帝国の奴隷』となっていると分析されています。
それが、ピケティの言う教育格差健康格差の結果でもある日本の現状です。
民主主義にも到達していない帝国主義支配の実相です。
更に、グローバリズムは、知性狩りであり、最初のTPP憲法革命(実は、反革命)へと進化している。多様化ではなく、画一化支配であり、帝国主義政策そのものでしかないという事です。
マルクス『資本論』が、革命としての労働者の理論や経済学批判ではなく、不徹底であり、資本主義的収斂説であるとした部分を、宇野理論が、徹底して見せたとするなら日本のマルクス主義理論の展開に大いに期待されるべきでもあります。
しかし、哲学、経済学批判的に、『目に見える経済学』としてのシンプルさを広報流布する事を求めている故に、多重起源的説は、帝国主義的譲歩説に誤解されかねない、資本主義的画一化の本質を隠蔽するだけでしかないでしょう。
寧ろ、多重文化起源としては、文化人類学的起源としてあったそれぞれの文化を蹂躙し植民地化してきたものこそが、帝国主義であり、資本主義的植民地政策であり、韓国、中国、アジア諸国、中東イスラム諸国の抵抗として、あるだけの話のように思われるだけです。
まさに、ただ、アメリカ帝国主義も日本帝国主義も身も蓋もないだけの反省をしなくてはならないだけの話でしかないわけです。
更に、資本主義は、日本文化さえ、文学やキビさえ台無しにし続けていると言う話となっている訳です。
やはり、資本主義の終焉と革命は、不可避な段階を30年遅れて、今、語っているだけでしかないのです。
日本の病理としてこれを考察しなくてはなりません。
金融と資本論。財政赤字の構造。
更に、真正民主主義とオールジャパン政治学体系として、主題的言及をちきゅう座読本として、結実していく事が、急務なだけでる様に危機を共有せねばなりません。
その主題こそが、ちきゅう座とオールジャパン政治学そのものと考えます。
(3)ちきゅう座総会想定問答集
http://revolutio.exblog.jp/21805907/
まだまだ完成されていませんが、書き込みを23日以後も追加報告的にやっていこうかなと思ったりしています。
5・11ルネサンス研究所シンポジュウム -アラブ・中東世界の行方とパレスチナ-
http://chikyuza.net/archives/52410
第3回 シンポジュウム 7月13日(月)18:30~21:00
講師:的場昭弘 「グローバル資本主義の現状とゆくえ」(仮題)
コメンテータ 伊藤 誠 会場はいずれも専修大学
僕が行いたいことは、「マルクス梁山泊(第2ちきゅう座)」拠点を軌道に乗せる事です。
アソシエ21は、失敗しましたが、点在している資本主義研究会、社会理論研究会、社会主義理論研究会を結集しながら鍛え上げ、議論する事は可能な段階にあると感じています。
ピケティ格差論の展開と『21世紀の資本論』(ちきゅう座読本)へと結実させることです。
お金の問題ではない。
老齢化した諸先生方も同じ気持ちでしょう。
歴史の真実を極めたい。生きている真実へ迫りたい事の共同であり、上杉隆さんの言っている様に、「ジャーナリストとしての信義として行っていること」であるはずです。
さらに、オールジャパン政治家改革へと結び付けなくてはなりません。
忌憚のない意見をインターネット上で、ちきゅう座にて随意提案しながらやっていきましょう。
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