書評 戦後の気分と自由
- 2015年 5月 30日
- カルチャー
- 宮内広利小阪修平書評
1960年代後半の日大闘争や東大闘争を頂点とする学生運動の根源に伏在していたのは、学生の非定型なエネルギーであった。その非定型な運動というのは、平和と民主主義を実現するための闘いでもなく、経済的理由その他もろもろの理由づけでもなく、個々人の内面だけを支えにしていたことを意味する。つまり、それを個々人の内面に則して言いあらわせば、大学の中で学生が、その存在に強い危機感や疎外感を抱いていないことの意思表示であったことである。全共闘運動のとりかかりでは、確かに、学費値上げ、学生会館の管理、学校法人の不正経理などの問題、政治的にはベトナム戦争が引き金になったのは事実だが、それに対して抵抗する運動が大きく膨らむかどうかは、多く、個々の学生の心理のメカニズムに負っていたのである。
わたしたちは、とかく危機感という言葉にたくさんの意味を被せがちであるが、何の危機感でなければならないかを人々は知らない。もし、危機感がそういう不安定な情緒の塊と考えるなら、それは不安感であったり、恐怖、悦びと結びついてもおかしくない。そればかりか、危機感は指示される心の中のあるモノであることをやめ、指示するシンボルとしてのみ使われるときにはじめて、ひとの心理的メカニズムの変位を推しはかるものとしてあらわれる。そこでは、漠然としたものであればあるほど危機感は本来の意味を失い、あたかも危機感という言葉自体を狙った衝動や「身体行為」が登場する。これはいうならば、人々の内面の狭間に危機感が宙づりにされた状態を意味しており、それを危機感という言葉の表と裏の顔になぞれば、表の危機感が少なければ少ないほど、そして、裏の危機感が大きくなればなるほど、より強い「身体行為」を運んでくれることになる。そのような心理的縺れが生じるためには下地が必要だった。
要するに、危機感をもつほど、学生たちは、はじめから大学に期待をもっていなかった。そういう意味で大学に対する危機感などはなかった。むしろ、マスプロ教育のおかげで、出席をとらない授業にはでなかったし、単位さえとれるならそれでよかった。ショーウィンドーを眺めながら雑踏の流れにそって歩くことが愉悦であるのと同様、なまじ、高校生活の延長のように、教師と輪をなしてのゼミや大学院なんかは性に合わない、そんな学生が多かった。今とちがって、まだ、大学という幻想も知識人という幻想も少しは流通していたが、もはやその内実を失っていただけでなく、それは社会的地位の安定した重石であったり、金儲けの隠れ蓑にしかみえないことを、学生たちはよく知っていたのである。学問に皮一枚のノスタルジーをもっていた連中から、学生は大学という幻想と私生活に二重に引き裂かれた内面をもちあわせているなどと、しかつめらしく説教されたりしても、ほんとうは、そんなことは傷つく理由にならなかった。
外見からして一目瞭然だった。やや年長の学生だと詰襟姿をみかけたものだが、60年代も終わり頃には、急に、ほとんどの学生が、長髪、Tシャツ、ジーパンに早変わりして、そんなファッション感覚が気に食わないと、ひねくれ活動家の茶けたジャンパー姿だけがきわだっていた。そんなわけだから、大学構内が学問などという世界に足を踏み入れた感触をもつはずもなかった。そこでは、うつむき加減に歩いても、危機感のカケラすら落ちてはいなかったのだ。
こういう危機感の使い分けができるほどの「自由」さがもたらした恣意性の温床は、おそらく60年代後半という時代の特質からうまれたものだ。学生たちの親の世代は、戦後の十数年、ようやく40代の働き盛りを迎えていた。彼らは戦後の荒廃の中から立ちあがろうとし、社会とじぶんの生活を復興しようと目標をもって生きていた。子供たちの世代は、いわゆる大戦がおわったころ生まれた「ベビーブーム」(団塊)世代である。彼らが赤ん坊の頃、父親たちはようやく仕事にありつき、妻子にひもじいおもいをさせまいと懸命に働いた。それだけに、この時期の親たちには、少なくとも自分の家庭の将来の希望と達成感も、また、具体的に感じられていた。おかげで子供の世代の日常生活は生理的な脅威から次第に解放されることになる。
実際、60年代の人々の社会意識は、空前の高度成長経済に支えられていた。この大衆消費生活の拡大は、人々の意識をいわば「マイホーム型」に馴らしつつあった。高度成長経済の中で、先進資本主義国の大衆は、次第に中産階級化していた。これはダニエル・ベルが、1960年に『イデオロギーの終焉』のなかで予言していたことの実現にちがいなかった。経済的に豊かになり、生活水準が高まってくるにつれて、古典的なマルクス主義が考えるようなイデオロギー的な対立の構図は次第に色褪せていった。しかし、ダニエル・ベルがいうように、イデオロギーの消滅が、すべての対立の構図そのものを消し去ったわけではない。社会的な意識のあり方が確実に変わり、旧来の左翼が描く構図の中からはみえない意識の変化がきわだってきたのである。
このような生活のありようが1980年頃まで続いたが、もし、60年代をわが国の経済指標の滑走期とみなすなら、それ以降の生活実感からしても、バブル経済、バブル崩壊後の停滞、そして、今回の3.11の大震災で数万人規模の犠牲者がでるまで、衣食住についての豊かさと貧しさが同居している状態において、さほど変わっているとはおもえない。しかし、60年代が際立っていたのは、何より「変貌する時間」という経済発展の代名詞が残ったことだ。IT革命と携帯電話の普及によって推し量るかもしれない時間や空間の横断化も、団塊世代にとっては、60年代が体験した実質経済成長率が年平均11.0%に達する過程に含まれる社会意識の膨張にはとてもおよばない。なぜなら、60年代は、毎年、1/10だけ人々が飢えや貧困から解放されることが前提されており、時間感覚を先取りして、未来図を幾通りも描くことが可能だったことだ。おそらく、人々のかかえるスピード感からすれば、10年という道のりをほぼ1年間の凝縮した時間で滑走できるとおもったにちがいない。会社は生きた数字に追われるかのように設備投資をおこない、人々は自動車、カラーテレビ、ルームクーラーなどの耐久消費財を求めて店頭に列をなした。
しかし、1年間を10年の目盛でみることができることは、反面、社会像の肥大化や自己像の歪みからこぼれおちた不安感、抑鬱感など非定型な気分=自己感情をかこつことにつながった。この場合、自己感情とは自分に対する不如意感のことを指している。これら総じて強迫観念をくぐって溢れ出た気分は、受験戦争後の虚脱感とも重なって、15歳から20歳までを過ごした学生層の内面に集中的に充満してきたといえる。これは無意識のうちにそういう意識と自己感情がバランスを失って、自己感情が社会全体の目的の変化のスピードを追い越してしまったことを意味しており、覚めた意識の側の異和感を補填するためには、確かな支えが求められた。
意識と自己感情との齟齬に気づいた学生たちは、自分自身に照らして、教授連に対して考えていることと実際にやっていることのちがいを告発した。そこからくるもどかしさや不安も、ほんとうは、社会全体の変貌の時間感覚が内面に加速することによって、自己感情の歪みをとおして非定型な気分が生みだされたことに起因していたのである。それに相応するかのようにデモやストライキなどの「身体行為」は逆方向に「自由感」をもたらした。それが、従来からの学生運動にはみられなかったラジカルな特色を与えるとともに、多数が支配する自治会中心の運動と決定的に異なっていたのである。
全共闘運動においては、地盤沈下した自治会に変わって、クラスやサークル闘争委員会が闘争の核として登場した。それが、新鮮な共同性を求める学生のエネルギーを結集して、全学的闘争組織-全共闘へと発展していったのである。党派や自治会など、既成の組織の理念や論理から逸脱した大衆の直接民主主義の行動組織である。実際の運動過程では、比較的少数の戦闘的集団が、まず突出した闘争(校舎占拠、バリケード・スト)をおこない、事後的に大衆を周囲に結集しつつ、運動の大衆化を実現するというマッセン・スト型の闘争戦術が日常化して、学園のゼネスト状態をつくりだしたのである。だから、その「自由度」において、全共闘運動は、それまでの学生運動のあり方を決定的に変えたといえる。
わたしたちは、高度成長経済が意識と自己感情の異和をうんだことを知った。そして、その異和結合がゴツゴツした「身体行為」を受け皿にするとき、今まで一度も開かれたことがない「自由」の可能性を試したこともわかった。この可能性はさまざまに枝分かれして、その小枝の先に果実をもたらすかのように幻想した。まもなくそれは潰えたのだが、もはや、その根を張り、幹を伸ばし葉をつけたプロセス自体を自然のようにたどることはできない。では、わたしたちは追億の後に1960年代から何を学ぼうとするだろうか。
中沢新一によれば、一神教としてのキリスト教は、唯一神としての「父」が「子」=イエスをうみだし、神と人間の間に亀裂をもたらしたばかりか、その「父」と「子」の関係を媒介する「精霊」に自由を与えた。また、解き放たれた「精霊」の自由さは、人々に増殖性の経済行為への道を開いた。つまり、「父」と「子」の関係は、「精霊」をとおしてのみ、無限に再生産することができるようになったのだ。そこで、ABCで構成された三角形の輪は横に流れ出し、シンメトリーの閉鎖性を覆して動くシステムをつくりだす。
この考え方は、マルクスの価値形態論から貨幣論への道すじを導きの糸として手に入れられたものだ。いうまでもなく、上着またはお茶またはコーヒーまたは小麦または金=リンネルとなり、リンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、他の商品もリンネルと交換しなければならず、したがって、いろいろな商品の価値を第三の商品であるリンネルで表現することができるようになる。こうして、「20エレのリンネル=1着の上着」という簡単な価値形態は、途中から逆立の契機をはらむことになる。わたしたちが逆立と呼ぶのは、一般的価値形態の双方向のたわむれから貨幣形態へ至る途中で起こったメカニズムを指している。そこで、上着の価値をリンネルの使用価値でおしはかることで、リンネルという等価形態にはそれ以上の価値がもたらされ、あたかも精霊の光を身にかざすことになる。そのリンネルは、次々と上着以外の別の女性の憧れの対象となる。中沢はこのリンネルの「受肉」について、精霊をまとってガリラヤ地方を布教しているイエスの姿に喩えている。そのとき、このイエスにはたくさんの可能性が降ってきた。
シニフィアン=表現する地位には、ただ神の意志を継ぐもの以上の、多くの流動性や浮遊性に取り囲まれ、やがて、貨幣という特殊な商品をうみだすことになる。それはキリスト教という一神教の中に引き入れた刺を象徴するものであったのだが、忘れてはならないのは、この神とイエスと精霊の三角形は、わたしたちに、恣意性のキラメキほどではないが、ともかく、「自由」を与えたことだ。このキリスト教の「三位一体」の構造と精霊が、商品世界と貨幣世界の遊離をまねき、商品は富として、バーチャル化した欲望と愛の想像力で埋め尽くされた現在の資本主義の原型を形づくった。
「自由」は商人資本家の懐にため込まれた貨幣が、やがて産業資本によって剰余価値の創出へと道すじを開くことを言い換えたものである。内在的な価値は解き放たれ、人々のあいだの商品はつながりを求めて増殖していく。それは共同体をまたぐ横のひろがりをもたらして、人々の視野を広げながら、自由闊達な世界を形づくる。現在進行形の世界は形のないものに埋め尽くされている、ということは、人はたくさんの可能性を夢見ることができるということだ。よりたくさんの消費は、より多くの欲望を喚起し、欲望はより多くの見知らぬ商品を求めてさまよう。ポスト構造主義だけが欲望を謳歌するのではない。揺籃期の資本主義の「自由」さそのものが、貨幣の誕生に裏づけられているのだ。表現するものと表現されるものの二元論の足場は、表現されない個々の人間の意思が貨幣で表現されることによって、人間の言葉が誰にでもわかる秘密の抜け道を経由して、心の断面が「身体」で表現されることを可能にした。
そこで類推できることは、あの60年代後半の学生運動における意識と自己感情の関係が、「身体行為」を媒介することによって、唯一、「自由」の発露をもたらしたことだ。「身体」とは意識と自己感情の等価形態をよくあらわしていた。しかし、「身体行為」に向けた脱出劇は、あくまでも社会的環境の時間感覚の変位にもとづくものであり、単に、情報の交通手段が飛躍的に向上し、人々の意識が世界の果てまで遠くおよぶようになったことだけによるものではない。いわば、空間の隔遠化は時間の隔遠化に裏づけられていた。近代社会というのは生産と消費の時間的隔遠化のことであり、それには貨幣という媒介が不可欠だった。60年代における意識と自己感情の関係が、「身体行為」という貨幣を媒介することによって、自由の発露は、「身体」によって支えられていた。
商品はそれ自身として貧富を形づくることはない。それはポランニーが指摘するように、貨幣を媒介することによって、埋められた体から頭一つ覗かせた経済的存在としてあらわれたときからはじめて富をなす。だが、マルクスによれば、貨幣をもった人間の自由な選択は、さらに資本や階級を支配するまでやまない不自由さと引き換えに賭けられたものだ。つまり、人々は自由でしかないものが、自由であらなければならないモノになった途端、不自由そのものの中に突き落とされる罠にはまるとみなされた。この自由から不自由への転回は、「私的感性・意識」の「自由」の誕生の秘密にもあてはまる。
というより、たとえ、ゆくゆくは不自由に到着するにしても、意識と自己感情の異和は「身体行為」の手助けなくして、出口を見出すことができなかったのだ。つまり、「身体行為」による脱出は、社会的環境の時間感覚が内面に加速し、感情の歪みによって非定型な気分から生じたのなら、わたしたちの意識が自己感情のスピードに追いつけば、その「身体行為」の私的自由は、プラスの価値に転化できるはずだった。すくなくとも、自由に賭けられることはなくなって、私的「自由」が不自由に舞い戻ることもないとおもえた。おそらく、60年代の運動が潰えた理由もそこにあったのだが、そう振り返るわたしたちも、現在でもほんとうは、その「自由」がより深く分岐する場所を見渡せるような高台に立っている実感をともなっていない。
60年代半ばまでの大学闘争は、まだ、授業料問題を中心とした伝統型に限られていた。それが1965年にはいるとまもなく、中央大学の学生会館の運営問題や、横浜国立大学におけるカリキュラムをめぐる紛争に代表されるように、授業料という量的なものを対象にする問題から、にわかに教育の場の質の構造そのものが問われはじめ、学生の管理の問題、ひいては知的な状況そのものを対象にするものに変わっていった。これは、学生個々の「私的感性・意識」というものの高まりを考えることなしには想定できない断面である。そして、もっといえば、多くの学生にとってほんとうは、単位をとりさえすれば、授業・カリキュラムの内容など変わっても変わらなくても、どっちでもよかったのである。真面目な顔して、大学改革のスローガンを掲げてみても、どこか嘘っぽい感じがしていた。ただ、異和を放つ感情の影を「身体」に落とし込み、手触りで大学の風景を変えてしまう自由のカケラに触れたかったにすぎない。
資本主義の高度化による私生活中心主義ということによって一括りにしているが、実際は、この時代は、かつて抑圧されてきたか、生理的欲求の陰になっていたとりとめのない「私的感性・意識」が、いうなれば「身体行為」を表現手段にした途端、肉体言語として社会の表層にあらわれてきた時期に当たっている。それが大学闘争を実力闘争の場に臨ませ、教授会や理事会など既成の大学権力とぶつかったのである。おそらく、教授会や知識人の欺瞞性は、この学生がもつ内発的で原初的な自己感情によってのみ俎上にのぼり、目にみえるものにできた。その意味で、大学闘争は「身体」をつうじて「身体的言語」を放散し、解放した。だからこそ、反面で、そのとりとめなさを既成品の言葉で方向づけることがむつかしかったのである。あえて図式化すれば、管理(権力)社会と「身体行為」としての言語の原初性との対立だったからである。
したがって、全共闘運動は、社会権力としての大学への異議申し立てであったと同時に、一種の文化(無意識)における革命にもつながった。それは資本主義が高度化する過程が、学生の自己感情をとおして古い知識や文化の形態を否定し、新しいものをうみだす現象の一つだったのである。この文化の新しい動きとはサブカルチャーのメインロード化であるが、それへの移行過程としての従来のアカデミズムの知識の否定であった。大学と政治の関係ではなく、大学と社会や文化との関係における大学の閉鎖性が否定されたのである。つまり、アカデミズムという「知」、あるいは既成の文化が否定され、それ以降、大学は知的生活のトップランナーという地位を急激に失って、大衆化の一途をたどることになる。
東大闘争も日大闘争も、当初は党派の介入も少なく、政治的性格をほとんどもっていなかった。全国を席捲した大学闘争は、どのような階級闘争ともいずれからも無縁な未開の聖域で発生したというべきである。いかなる革命的思想や運動の伝統からも切断されていたとともに、その点において、あらゆる亡霊や幻想からも自由であった、そのような地点からの学生叛乱の様相を色濃くもっていたのである。そして、そのことの故に、全共闘運動はノンセクト・ラジカルに担われ、党派に指導された運動をこえて、大衆性を獲得していくことになったのである。
しかし、やがて、学生叛乱の当事者たちの「身体行為」に囲まれた言語は、それ自体のもっている組織の原理さえ否定しはじめた。そのため、運動の指導力も低下し、さまざまなセクトに分裂して、瓦解してしまう。やがて、60年安保闘争における「前衛神話」の崩壊を経由して、一廻りしたこの時代のそれは、形をもたない群集の一瞬の叛乱であったかにみえた。
小阪修平は、『思想としての全共闘世代』の中で、全共闘体験の「入射角」のちがいから体験の質におうじて、その後の生き方がちがってくるというようなことを述べている。同じ全共闘世代とはいっても、1960年代の後半から70年代にかけて、闘争への関わりの時期によってその体験の質もちがい、また、「出射角」も異なるという解釈なのだが、この点については保留をつけてなら、おおよそ納得できるような気がする。小阪のように全共闘運動の前に大学に入り、運動の助走期、昂揚期、そして衰退期を歩き過ぎるように触れたものにしかわからない感慨が込められているのかもしれないからだ。そのような視線の底には、ある人にとっては自由を体感できても、別の目でみれば自由の退廃や、もしかしたら、不自由であるかもしれないこともあることを受け取る彼の度量が隠されている。しかし、そのことを差し引いても、わたしが小阪の僅差の世代論に違和感を覚えるのは、そのことで闘争に関わった学生がみた風景や自意識の微差にとらわれて、「身体」に刻み込まれた内面のリズムや振動が大きな比重をもっていた事実を見逃しているような印象をもつからだ。
彼にとっては、全共闘運動の昂揚期にくらべて、衰退期の街頭闘争は泡末のような政治的象徴行為に映っているのかもしれない。だが、全共闘運動によって内面に届いた神経は、まず、まぎれもなく新鮮な身体感覚や痛覚、それに後からやってくる悔恨やであった。そのため、全共闘運動が終息したあとも観念の空虚に支配され、何をしてよいかわからないというようなことにはならなかった。
小阪の思想として運動の周辺で交通整理した要約によれば、全共闘運動とは、戦後民主主義を理念としてではなく、自然に呼吸するように育ってきた学生たちの潔癖さと、理念と生活を使いわける教授連の卑怯さとの対立の構図になる。そういう対立の構図は、教授連に対して自分もろとも「自己否定」や「大学解体」をせまった。しかしながら、それは学問の世界に一歩足を踏み入れつつあるより知的な学生の部分には自覚されていたのかもしれないが、多くの学生のように否定すべきものがない者には、「自己否定」それ自体、空疎な観念の遊びにしかみえなかった。
その一方で、小阪はこの政治的季節は社会に対する違和感が溶け出た稀有な時代だったと述懐している。それは、一見、固有名詞で語られて当然のようにみえるのだが、こういうメタフィジカルな言い方では、それはどこから来たものかという問いかけには何も答えていないに等しい。おまけに、理念と生活の不一致を痛感せざるを得なくなった80年代や90年代をとおして、後世代に学校を荒らしただけの影響しか与えず、その後の生活のあり方に「始末」をつけなかったとか、指針を与えなかったことを後悔するくだりがでてくると、なぜ、後悔や引け目を感じなければならないのだろうとおもってしまう。ここで一番みつけやすい答えは、彼が巻き込まれ吸いよせられた時代の潮流は、彼に自己倫理とは何かを突きつけたということだ。つまり、挫折や屈折を強いられながら、どのように生活すればあのときの体験を生かしていくことができるかを問い直したとき、理念と生活の関係という大見出しが手招きしたというべきであるが、こういう問題意識は錐を揉むような問答に落とし込む。彼は次のようなことを述べている。
≪もちろん、いろいろなタイプがいた。自分の思想を応用できるような現実を探していくタイプ、現実にたいしては一歩距離をとりながら、でもそのなかでは誠実にふるまおうとするタイプ。自分のかかえこんだ問題にのみリアリティを感じ、現実的な人生を仮の姿で生きていこうとするタイプ、などなど。もちろん神棚にまつりあげたイデオロギーを墨守し、自分が現実のなかでどうふるまっているかは忘却するタイプもいた。いずれにせよ、「現実」とどういうスタンスをとるかが、外側から見たぼくらの世代の行動様式をおりなしていった。≫『思想としての全共闘世代』 小阪修平著
果たして、学生たちは、残念ながらどのタイプにも属さず、思想(理念)と生活の格闘劇のような現実に渡り合った記憶はない。もちろん、戦後民主主義や社会主義などという理念を持ったおぼえもないから、その分、教授連のそれにまやかしをおぼえたこともない。だいたいにおいて、理念と生活というような二分法そのものに疑問をもっていた。ありていにいえば、その理念と生活のあいだに「肉体」や「身体」の感覚をぬきにして、運動とその後の生活を考えることはできないのである。そして、その後の実生活はときおり生身の「身体」を噴出させることがあったが、できるだけその感覚を露出しないように生きようと努めた。そういうわたしたちからみると、理念と生活の角逐の構図は、おそらく「身体行為」の濃度がもっとも低下したときにやってくるようにおもえる。つまり、理念に殉じたという彼の説明とは全く逆に、全共闘運動は「身体行為」をつうじて、理念と生活の距離をもっとも拡げ、無限遠点に退けたと考えるのだ。
生活に面する理念や理念に面する生活からもっともかけ離れている場所にこそ、「身体行為」の自由はうまれた。そして、「身体」とはどんな民主主義より前に、その自由さにおいて「私的感性・意識」と同義でなければならなかった。なぜなら、「身体」とは何よりも非合法な異物である分だけ自由だったからだ。全共闘は理念に従ったのではなく、「身体」に忠実であった。運動の終りの後には、その「身体」の痕跡は、理念という架空のではなく、自らの居場所を探して言語やファッションそして生き方の問題にまで拡がって、いわゆる文化の囲いができたにちがいなかった。
小阪の生きた80年代以降は、欲望の肯定としての市民社会をうみだし、それに面して、嫌いだけどこの世に生きなければならない両義性をもっていた。そんな中、ポスト・モダンの世代は、全共闘世代のような露骨な「身体行為」を嫌い、両義性の隙間をぬうように軽やかさをバネにして、理念と生活の隔たりを飛び越そうとしたのだが、やがて市民社会そのものが乱反射してさまざまな様相をみせはじめる。そこでは軽やかさでありつづけることが苦痛でさえありながら、人々は「大きな物語」を忘れ、私小説のような視界の狭い自分探しをはじめる。現実はこの間に「生理」の言葉として生まれ変わり、自分にみえるようにしか語ることができなくなる、というような従順すぎる後世代に対する小阪の辛辣な批評は、かつてはあった「大きな物語」についての神話的な考え方から、当然、予測され導き出されたものだ。だが、「身体」というキーワードでもう一度はじめに戻って、自分たちの物語や後世代、現実の今を考えるなら、きっと、その世界像は変わってみえてくるはずだ。こうしてわたしたちは古くて新しい問いかけのスタートラインに並び、「自由」とは何かの問題にたどりつく。
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