憲法が、我々国民に求めている役目とは何か
- 2015年 6月 25日
- 評論・紹介・意見
- 熊王信之
現国会で激論が継続している「安保法制」では、先行して、既に、「日米防衛協力のための指針」が改定されたので、法制整備が後追いになってしまっている。 これは、米国従属の国柄を象徴的に表す出来事であるにも拘らず、余り世論の批判が注がれないのは何故であろうか。 或は、国民も従属国家の総督以下並みに我が国が米国の臣下に成り下がっている現実を受け入れてしまっているのであろうか。
この国が、敗戦以来、対米国従属国家になり果て、独立国家としての意思を制限されているのは、明々白々の事実であり、その点においては、私は、日本共産党の現綱領に同感である。
発達した資本主義の国でありながら、他国に従属している国等は、他に見当たらないが、敗戦時に、ソ連・中国と衝突目前の米国との取引により天皇制を温存出来得、また、戦犯を大量に見逃して貰った恩義に依るものであるのかどうかは別として、政治的・経済的に、また、文化に至るまで米国を首領と仰ぐ国家に成り下がったのである。 現憲法の条文さえも米国より提案されたものであるのは、国民にとっては、如何にも皮肉なことであるが、認める他は無いであろう。
従って、「安保法制」も、この新ガイドライン改定に係る条件整備のためのものであるのは、当然のことで、安倍首相以下の念願でも何でも無く、ただ、米国の意思に依るものである。 ただし、安倍首相の念願とする旧憲法体制の復古は、米国の峻拒するところであり、首相以下の願は、米国の利益に叶う範囲で実現されるに過ぎない儚い夢となる運命にある。
下記報道中にある「本来は14年末までの作業完了を目指していたが、安保法制をめぐる日本の議論が遅れていたことから、半年ほど先延ばしされていた。」との記述に従えば、日本国内で議論が深まる前に、既に、米国よりの指示があった、と理解するのが順当であろう。
ただし、戦争出来るのも米国の監視の下で、米国の許可が無ければ不可能であるのが論理的帰結となろう。
既に、ちきゅう座に投稿したことであるが、歴史的には、日本は、憲法制定後に、米国の指示に依り、参戦した事実がある。 占領下であるとはいえ、憲法に明白に違背した行為は、朝鮮戦争時の掃海に従事した当時の海上保安庁特別掃海隊に依るものであった。 憲法違反の行為であっても、それが宗主国の命であれば、唯々諾々と従うのがこの国の国柄。 即ち、日本は、傀儡国家(puppet state)である。
傀儡国家では、安保法制整備が未だの段階であっても、宗主国の命が発動されれば、既定のこととなる。 従って、宗主国の軍事第一線指揮官でさえも、既定のこととして、自衛隊の新任務遂行に期待する。 「米海軍のロバート・トーマス第7艦隊司令官は31日までにロイターのインタビューに応じ、自衛隊が哨戒活動を南シナ海にまで広げることに期待を示した。」との報道日時は、2015年 01月 31日 13:13 JSTとある。 全ては、安保法制の国会論議より先である。
南シナ海の哨戒活動、自衛隊に期待=米第7艦隊司令官 ロイター 2015年 01月 31日 13:13 JST
米国の覇権主義は、現在、曲がり角にあり、東アジアにおける米軍の存在も転換期を迎えている、と思われる。 最早、一国で世界の覇権を掌握し得る段階では無くなりつつあるのが事実であろう。その間隙を埋めるには、自衛隊が必要である、との判断が米国にあり、その目的限りで、安保法制を整備する必要が安倍政権にはあるものと思われる。
だがしかし、憲法は健在である。 如何に迂遠であろうとも、憲法論議が原点であり、如何なる法制も憲法に反するものは認められない。 それは、国家存立の基盤であり、基盤を守るのは、国民であり、時の政権如きでは無い、それは、最高裁判所でさえも無いのである。
日本国憲法の下で、朝鮮戦争の時期の違憲の行いの如き愚行を再現させてはならない。 反憲法の愚行を企図する政権に憲法を厳守させることが我々国民の努めであり、現憲法が我々国民に求めている役目である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5440:150625〕
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