民放とNHKの番組の質の差を決めた課題着眼・報道意欲の落差~沖縄慰霊の日のテレビ番組を視て(1)~
- 2015年 6月 27日
- 時代をみる
- 醍醐聡
2015年6月26日
沖縄戦と現在の基地問題の連続性を見事に描いたNスタ
沖縄慰霊の日にちなんだテレビ番組が数多く放送された。その中で印象深かったのは民放の中で非常に良質と思えた番組があったことだ。それを逐一、紹介すると余りに長くなるので、一つだけ、TBSのNスタ(朝5時~)の視聴ノートをもとにまとめたレポートを掲載することにした。
特に、番組の最後で、佐古忠彦記者が平和の礎のそばに立って述べた語りは、「沖縄戦」と「現代の沖縄の基地問題」を連続的にとらえる視点、裏付けとなる史実をリアルに提供した言葉と思えた。
そこで、佐古記者のスピーチ全文を原稿におこした。それを次の記事に掲載することにした。
なお、佐古記者の語りの裏付けとなった新城信敏さんの証言の録画がTBSの次のサイトに掲載されている。証言者の生の声を聞くとリアリティが増してくる。
「沖縄戦が残した教訓、住民の生死を分けたのは」
(TBS 2015年6月23日、Nスタ ニューズアイ)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2524193.html
ただし、番組では新城さんの証言以外に番組制作者((佐古記者ら)が今の普天間基地周辺の沖縄戦の戦中・戦後の状況を調査・取材して得た情報も放送された。
この記事ではその要旨を紹介しながら、同じ日に放送されたNHKニュースウッチ9の放送内容との比較もしておきたい。
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沖縄戦前、現在の普天間飛行場の北側一角に住んでいた新城信敏さん(86歳。当時16歳)を佐古忠彦記者が取材。
1945年4月1日に沖縄本島に米軍が上陸した翌日、宜野湾村に住んでいた新城さんたち300人は湧き水があった自宅近くの壕(アラグスクガー)に避難。
しかし、上陸してから4日後には、そこへ銃を構えた米兵が現われた。日頃から、教え込まれていた「女は強姦されて殺される。男は銃殺される」という言葉を信じない者はいなかったと新城信敏さんは言う。
さらに、当時の日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」とする戦陣訓を徹底。敵への投降を禁じていた。しかし、アラグスクガーには渡米経験のある住民がいてアメリカ兵と交渉し、「何も持たずに洞窟から出る」ことを条件に300人全員が捕虜となった。
地域住民の命をかえって危険にさらした日本軍の存在
しかし、同じ普天間飛行場周辺といっても、新城さんたちが住んでいた北側とは逆の南側では日本軍が多くの陣地を構築し、アメリカ軍を迎え撃った。
その結果、普天間飛行場の北側と南側では、犠牲となった住民の数に大きな違いが出た。それを左右したのは、日本軍の存在だった。
今の普天間基地の北側の地域の戦没者率
普天間12% 新城12% 喜友名13% 伊佐9%
今の普天間基地の南側の地域の戦没者率
長田49% 志真志44% 我如古49% 佐真下47%
嘉敷48% 大謝名26%
戦没者率の高い南側の地域の住民は、日本軍のそばにいたため投降することも許されず、激しい戦闘に巻き込まれて多数の人々が命を落とした。
一方、新城さんたちがいた北側は日本軍が既に後退した地域で、住民たちが冷静に集団投降できるケースが多く、早くからアメリカ軍の支配による戦後が訪れていた。
しかし、投降後、2年間の収容所生活を終えて新城さんが、もとあった自分の家に戻ると、 生まれ育った家があった場所はアメリカ軍に接収され、普天間基地へと姿を変えていた。
教育は武器よりも怖い
沖縄戦から70年経った今、何を思うかと尋ねられた新城さんはこう語った。「今、考えると悪夢ですよね。教育っていうのは一番恐ろしい。武器より怖いですよ。」
相手軍への投降を禁じ、「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え込んだ「教育は武器よりも怖い」という新城さんの言葉を聴いて私は、「国策翼賛報道は武器よりも怖い」という言葉もありと思えた。
沖縄戦と現在の基地問題の連続性に踏み込まなかったNHK
Nスタの番組は、慰霊の日にちなんだNHKのいくつかの番組がおおむね、「沖縄戦の悲劇」を回顧的に描き、どの番組も戦争体験をいかに引き継ぐかが課題というトーンに収斂し、「現代の沖縄の基地問題」との連続性に立ち入ることがなかったのと好対照だった。
しかし、慰霊の日の式典で翁長知事は犠牲者への慰霊の言葉を述べて終わらず、沖縄戦終結後の土地の強制収用から目下の辺野古基地問題を説きおこし、「辺野古が嫌なら代案を出せ」と求める政府の物言いの不条理を厳しく批判する言葉を平和宣言に盛り込んだ。高校生の知念さんは「今は平和でしょうか?」と沖縄の「今」を問いかけた。
こうした発言を聴いて、沖縄戦の犠牲者の慰霊と目下の基地建設に反対する沖縄の民意は強く繋がっていることを思い知らされ、沖縄問題をめぐる報道の質は、課題設定(agenda setting)―――何に対して、どのような問いかけをするのか―――で左右されると感じさせられた。
Nスタが、現在の普天間基地の形成史に焦点を当てると同時に、沖縄戦当時、普天間基地周辺に住んでいた住民の間でも、日本兵がそばにいた地域かどうかで戦没率に大きな差があった事実に注目して、住民にとって軍隊は平和を維持する抑止力とは真逆の存在であるという教訓で番組を結んだのは、「課題着眼」の重要性を例証するものだった。
基地負担を「担ってきた」のではなく、「担わされてきた」のだ
そのようなNHKの番組の中で、23日のニュースウオッチ9に登場した沖縄放送局の西銘記者(沖縄出身、記者歴22年)が、今の「基地問題は沖縄戦の延長線上にあるのです」、「沖縄戦と基地問題をトータルで考える必要があります」と懸命に語ったのが印象的だった。
また、西銘記者は短い持ち時間の中で、「沖縄は基地負担を担ってきたのではなく、担わされてきたのです」と険しい表情で語たった。この一言は何を意味したか?
私は、とっさに、その日の慰霊式典で安倍首相が「沖縄の人々には米軍基地の集中など安全保障上の負担を長きにわたって担っていただいています」と語った言葉を思い浮かべた。
「すすんで担ったのではない。担わされたのだ」・・・・西銘記者は、沖縄県民を代表して、こう言い返えさずにはいられなかったのではないか。沖縄出身の放送人のせめてもの矜持かと思えた。
覆うべくもない「言葉の軽さ」
しかし、それに続く河野キャスターの結びの語りは、「沖縄が背負ってきた基地負担をどうやってやわらげていくのか、日本全体で考えていくべき課題だと改 めて感じました」という定型文で終わった。言葉の「軽さ」、リアリティの希薄さは覆うべくもなかった。
沖縄戦の悲劇を語り継ぐ必要性を説いた河野キャスター自身、慰霊の日に先立って、どれくらい、沖縄戦の体験者、遺族の生の声を聞き、住民が生死の境をさまよった戦跡を巡ったのだろう?
番組では、地元の高校生を相手に、沖縄戦の体験談をどれくらい聴いたか?とか、街中を歩く旅行者に、戦跡に出かける予定は?とマイクを向けていた。「新婚旅行なので戦争系はちょっと・・・」とか、「私たちはアレなので・・・」とかいった返しの言葉を拾っていたが、いかにもお手軽な「取材」である。
調査・取材の密度、もしかしたら調査報道の意欲の差が、語りの質、ひいては沖縄慰霊の日にちなんだNHKと民放の番組の質の差を決めたよううに思えてならなかった。
初出:醍醐聰のブログから許可を得て転載
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye3024:150627〕
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