日本降伏70周年の日に―内向きの戦史観からの脱却を
- 2015年 8月 16日
- 評論・紹介・意見
- 「ピースフィロソフィー」乗松聡子
1945年8月15日、裕仁天皇の降伏宣言をもって日本の敗北が決まった日から70年が経った。侵略と植民地支配に対する日本政府としての謝罪と反省を表現した村山談話、小泉談話を塗り替える意図で8月14日出された「安倍談話」は、アジアの傷に塩を塗るような、予想以上にひどいものであった。争点となった、日本の戦争を侵略戦争と認めるか、謝罪をするかとの二点については両方とも安倍の答えはNOであった。今まで一度たりとも日本の侵略や植民地支配に対して誠意ある謝罪や反省の言葉を口にしたことのない人間が、戦後世代にもう謝らすなとまで宣言した。よくもここまで開きなおるものだ。もちろんこれが、ポツダム宣言、戦後憲法、東京裁判を全て否定することを「戦後レジーム脱却」と呼び、戦前に時計を戻すことを目標とする安倍の本性であるのだからそれ以上でもそれ以下でもない。安倍が安倍らしいことを言ったのだから何のニュース性もあるはずはない。何よりも、70周年という大事な年の8月15日、「あの戦争は何だったのか」という本質論ではなく、「安倍談話をどう読むか」といった無意味な議論に費やされることに怒りと無念を感じる。
この日を記すために、新刊、木村朗・高橋博子共編著『核時代の神話と虚像―原子力の平和利用と軍事利用をめぐる戦後史』に当ブログ運営人が寄稿したコラム「内向きの戦史観からの脱却を」を、自分なりの「70年談話」として紹介する。 @PeacePhilosophy 乗松聡子
明石書店より新刊 |
内向きの戦史観からの脱却を
乗松聡子
日本には核問題に熱心な人が多い。広島・長崎の原爆、第五福竜丸など核実験の被害や福島の原発事故など狭い国に核被害が集中してきたからだろう。私の日本での活動の入り口も、日米の学生が広島と長崎で学ぶ旅の仕事であった。私の住むカナダのバンクーバーでは、日系人の多い「九条の会」が「原爆展」を毎夏、行ってきている。
日本の体験をもとに核被害を伝え、核廃絶を訴えていくことに意義はあるし、このようなやり方に当初疑問は持っていなかった。しかし中華系、インド系、フィリピン系、韓国系などアジア系移民が増加し地域によっては過半数をしめるようになったバンクーバーおよびその周辺において、このような活動は、日系以外のアジア系からなかなか理解を得られないと感じるようになった。
一九三一年の満州侵攻に始まった戦争で、日本はアジア太平洋全域を侵略し、地域の人民に残虐行為をはたらき、敵国捕虜を虐待した。戦時中日本軍から多大な被害を受けたアジア諸国の人びとにとってみれば、日本人が「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ」と言うとき、この戦争全体の中から日本人の被害だけを取り出して強調しているようにしか見えないのである。原爆に限らず、日本人は極めて限定された内向きの姿勢で戦争を記憶し、日本人の被害中心の戦史観をそのまま海外にまで持ち出している。
この自国中心主義の戦争記憶は、よく日本人が語る「三一〇万人が犠牲になった戦争」というナラティブにも表れている。二千万とも言われるアジア全域での被害者をどうしたら無視できるのか。もちろん「日本の加害も学ばなければ」という人もいる。バンクーバー九条の会もそのような姿勢である年には「原爆展」と併設で日本軍「慰安婦展」を行った。それはそれで意義のあったことと思うし、日本の加害を何も扱わないよりはいいのだろうが、私はその後、加害「も」という付け足しのような姿勢にも問題があると思うようになった。「被害」と「加害」のバランスを取ればいいということではない。アジア太平洋戦争はその本質が侵略と植民地化、資源剥奪にあったのであり、第一義的に加害戦争であったのだ。「も」などではない。敢えて「も」を付けるのなら「日本人『も』被害を受けた」と言うべきであろう。ドイツ人が第二次大戦を語るとき、ドレスデンなどドイツの都市が受けた空爆やドイツ市民の被害ばかり語り、「ナチスのユダヤ人虐殺『も』伝えなければいけない」などという姿勢が許されるはずがないのは日本人の目にも明白であろう。同じことが日本にも当てはまる。
しかし実際はこの「加害も」の姿勢さえない人たちが多いのが日本の現実だ。日本人の被害を記憶するときは「語り継ぐ」「平和への祈り」といった情緒的な言葉で美化しながら、日本軍「慰安婦」や南京大虐殺など日本軍による加害を語り継ぐ行為に「反日」とレッテルを張るといった二重基準を使う人を私は随分見てきた。それどころかそのような姿勢がエスカレートして、それらの歴史の史実さえ捻じ曲げたり否定したりする勢力が日本では政府要人をはじめとして影響力を伸ばしてきている。そのような自国中心主義こそが日本を戦争に駆り立てたものであり、新たな戦争の原因となり得る危険なものだ。
日本に侵略を受けた国々では日本への原爆投下は「神の救い」だったと思った人も多いという。それは日本人には、特に被爆者にとっては残酷な理解であるが、日本人はどうしてそう思われるのかを理解する必要がある。私も「原爆が解放してくれた」との見方は「原爆が戦争を終わらせた」という誤った史観を前提とするものとして問題視していた。日本降伏の最大の動機はソ連の侵攻によるもので、「原爆が戦争を終わらせた」との見方は正確ではないとするピーター・カズニックら歴史学者と仕事をしてきた(木村朗・カズニック共著『広島・長崎への原爆投下再考―日米の視点』参照)ことからも、アジアにおける原爆投下「解放」史観は誤りであり修正が必要だと思っていた。
しかし今は、まずはアジアの多くの人が「原爆で救われた」と思った背景を理解することが大事であると思っている。それなしに歴史論議をすることは加害国出身の人間としては道義的誤りではないかと思う。原爆が本当に戦争を終わらせたか否かという議論以上に、「原爆」というシンボルが象徴する日本の敗戦がアジアにやっともたらした自由と解放、また、それでも容易には癒えない傷に思いを馳せることがまず大事ではないかと思う。
二〇一四年、高嶋伸欣氏(琉球大学名誉教授)が引率する「東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅」に参加した。マレーシアで訪問した専門学校の校長は「広島と長崎に原爆を落とされ、東京に落とされたらという恐怖で日本は降伏した」と理解していた。ある華人学校ではその学校の生徒と教師が日本軍に殺害されたことを記憶する碑に、「原爆の投下により、国の恥と家の仇は川の流れとともに東へ流れ去った」とあった。シンガポールの戦争体験者である医師は、原爆投下を「早く戦争を終わらせる方法だった」と語った。シンガポールの国立博物館や日本軍の占領を記憶する「旧フォード工場記念館」でも、戦争終結と日本軍からの解放を象徴するように原爆投下が描かれていた。
広島の被爆者の沼田鈴子氏(故人)は、広島の部隊がマレーシアで大量虐殺を行ったと知り、一九八九年高嶋氏の旅に参加し、現地で被害者たちに謝罪した。自ら戦争の傷を負う被爆者のそこまでの行為は現地で大きな驚きと感動を生んだ。沼田氏の行為は、被爆者でもない戦後生まれの私のような者の活動に深い示唆を与えてくれる。沼田氏のような被害者でさえ日本軍の責任をわが責任と感じて行動をするときがあるのだ。戦争の直接被害を受けていない世代こそがさらに踏み込んで日本の戦争責任を問うべきではないかと。
戦後70年、日本人が内向きの戦史観から脱却することが、反核運動や平和教育のみならず、靖国、戦争責任、「慰安婦」、領土問題などの未解決の問題を解決に導き、新たな戦争を防ぐための布石となると信じる。
以上、『核時代の神話と虚像』(明石書店)への寄稿文でした。
敗戦70周年、一緒に読んでほしい過去の投稿より
★ヒロシマの「かたりべ」沼田鈴子氏のマレーシアでの「謝罪発言」の背景とその後(高嶋伸欣)
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2014/09/blog-post_8.html
★日本が克服すべき過去とは何なのか(成澤宗男)
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2014/05/blog-post_10.html
★アジア太平洋戦争 もう一つのいわれなき虐殺 「かわいそうな象」の事実関係は絵本に描かれているものと違った
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2013/04/blog-post.html
★「神風特攻隊」の真実を語り継ぐ: 相星雅子
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2013/11/blog-post_19.html
★「アンブロークン」は、47日間の漂流と2年の過酷な捕虜生活を生き抜いた男の物語
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2015/02/from-shukan-kinyobi-filmbook-unbroken.html
初出:「ピースフィロソフィー」2015.8.15より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2015/08/blog-post.html
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