IPPNWドイツ支部から: なぜ日本は、ヒロシマ・ナガサキの大惨事にもかかわらず、 原子力を受け容れたのか
- 2015年 8月 25日
- 時代をみる
- グローガー理恵
広島、長崎の大惨事から70年目を記してIPPNWドイツ支部が論評を出した。「なぜ日本は、ヒロシマ・ナガサキの大惨事にもかかわらず、原子力を受け容れたのか 」との記事のタイトルが既に物語っているように、IPPNWの論評は、原爆攻撃のために数多くの被爆犠牲者を出した日本が、なぜいとも簡単に核エネルギーを受け容れていったのか、その背景を掘り下げると共に、私たちに大きな疑問を投げかけている。論評は日本人にとって、大いに思考を促すものなのではないかと思う。
原文(ドイツ語)へのリンク:
http://www.ippnw.de/atomwaffen/humanitaere-folgen/artikel/de/yin-und-yang-weshalb-japan-sich.html
なぜ日本は、ヒロシマ・ナガサキの大惨事にもかかわらず、原子力を受け容れたのか
ヒロシマ・ナガサキから70年
2015年8月11日
(和訳:グローガー理恵)
1945年8月6日、原子爆弾 ”リトルボーイ” は広島で炸裂し、市は灼熱の地獄へと化した。その3日後 の1945年8月9日には長崎が、同様の過酷な運命に襲われたのだった。広島、長崎と、原子爆弾が炸裂したその日、数万人の人々が亡くなり、その年の末までに命を奪われた人々の数は、20万人近くに及んだ。あとの何十万人という犠牲者には、彼らの生涯にとって消えることのない傷痕が残った。それは、ー 負傷や火傷を負い、放射線被曝の影響を受け、自分の家族や故郷を喪失し、精神的外傷を負い、被爆者としての烙印を押されたー傷痕であった。
この8月には、広島と長崎が原爆爆撃されてから70年目を記することになるが、この広島と長崎で起こった大惨事ほど、強く日本人の集団的記憶の中に焼き付いた史実はない。それ以後、日本市民の大多数は、広島・長崎原爆投下の生存者である被爆者たちと共に、全ての核兵器の廃絶を唱え、世界中で2千回以上行われた核兵器実験の被害者たちとも連帯している。さらに、今年の11月には広島で、初の ”世界核被害者フォーラム” が開催され、そこにおいて、放射能汚染されたウラン採掘地帯に住む住民や民間および軍事核事故の犠牲者など、すべての被害者が話す機会を得られることになっている。
しかし、それ以上にもっと驚くべき事実がある。それは、今日において、日本の原子力産業が世界で最大かつ最強な原子力産業のひとつとして数えられるということである。いわゆる ”原子力ムラ” とも呼ばれている日本の原子力ロビーは、日本国内で何十年もの間ずっと政治や社会に決定的な影響を及ぼしてきており、与党とも密接に結託している。彼らは実際、日本で最も影響力の強い産業ロビー団体なのである。ここで、ある疑問が湧く:それは、「いかにして、この軍事核産業が産み出した原爆のためにあれほど酷く苦しんだ国が、民間原子力産業を自国の産業の柱石としていく事になったのか?」という疑問である。我々は、IPPNWドイツ支部と交流/繋がりのある日本の人々に、この疑問を提示してみた。
広島市大学・広島平和研究所で働くロバート・ジェイコブス (Robert Jacobs) 博士/准教授は、「原爆投下後の何年かの間、日本人は全ての原子核テクノロジーを猛烈に拒絶した」と説明する。戦後日本と結びついた米国は、「日本人は原子力に対して非理性的な恐怖感を懐いている」とすら報告している。1945年の8月、人類は核の破壊的な力を知ることになったのであるから、 おそらくは、世界中のほとんどの人々が、原子力というものに対して、日本人と同様な反応を示したのではないだろうか。しかし米国は、このような世界的な拒絶反応を阻止したかった。冷戦が始まった頃、アメリカの核兵器保有は、軍事上ドクトリンの最も重要な軸足となり、核兵器基地が太平洋にも、且つ一番うまくいった場合には、ソ連への飛行距離をできる限り短くするために、日本にも出来ることになっていた。つまるところ、日本人の原子力への ”非理性的な恐怖” が原子力の”受容” に変わることが肝要となったのである。
これを踏まえて、1953年、ドワイト・アイゼンハワー米国大統領 は‘’平和のための原子力 (Atoms for Peace) ” 計画を開始した。それは、「兵器級プルトニウムの生産過程で多量のエネルギーが発生する ー そのエネルギーを電力生産のためにも利用することができる」という提案であった。すなわち、この ” 平和のための 原子力’’ を世界中に広めることで、原子核テクノロジーの悪いイメージを糊塗して、広い社会的受容を得るための道を拓くという意図であった。
このアイディアは日本においても素早く支持者を見つけた。ー特に、勢力や威力、そして大儲けを嗅ぎ出したや政治家や企業家の中に…。日本では従来、政治と企業が非常に密接に絡み合っている。ー原子力の場合だと、企業、政治家、原子力規制庁との間の密接度が、容認できるような限度を超えてしまっている。
しかしながら、原子力支持者にとって、まず、やらなければならなかったことは、日本社会に存在する原子力への根強い不安を打ち破ることであった。そして、日本人がどのように語義を捉え把握するのか、原子力の主唱者は 心得ていたのである。彼らはまず第一に、用語表現を変更緩和させることにした:いわゆる 【peaceful use (平和利用)of nuclear energy(核エネルギー)】 という言葉は【核エネルギーの平和利用】ではなく、【原子力の平和利用】と和訳された。日本語で【nuclear(核) weapons (兵器)】 は 【核兵器】と呼ばれるため、【原子力】は【核兵器】とは異なった事柄を表す言葉であるとして、多くの日本人が心の中で、民間と軍事核産業は別々のものであると区別して考えるようにさせた。単に核を原子力と呼ぶことで、その事が可能になった。しかし事実は、米国の核産業が示したように、民間核産業も軍事核産業も密接にかみ合っていたのである。
次のシンボリックなステップは、再建された広島市の都心に原発第一号機を建てることであった。ー 広島市を破壊し、あれだけの多くの人々の命を奪い去った、あの“悪” の原子に続いて、今度は、有益で、市を復興させて、国やその経済に新しい生を与えてくれるであろうという “善” の原子がやって来ることになる、との明白な印として…。このような陰陽的思想は、多くの日本人の共感を得たかもしれないし、それ自体で何人かの被爆者にとっては、「何のためにこのような事が起きなければならなかったのか?」という彼らの問いに対する答えとなったかもしれない。…しかし、被爆者と広島市民の圧倒的多数は、原子核テクノロジーを拒絶し続けたのだった。そして、広島に原発を設置する計画は、地元住民による猛烈な反対のために失敗に終わった。朝日新聞の新しい調査によると、全ての被爆者の内その“3分の2 (⅔) “が、これまで、原子力を拒否している、という。
しかし米国は、日本国内に民生原子力を根づかせようと、〝原子力平和利用博覧会〞と名付けられた大規模な宣伝活動に資本提供することにした。〝原子力平和利用博覧会〞は、1955年から1957年にかけて日本の10都市で開催された。この〝博覧会〞は、広島の平和記念資料館にもやって来た。そのために、資料館に常時展示されていた、原爆の惨状や放射線の恐怖を伝える資料、被爆者の遺品などの展示品が館外に移され、博覧会の後も、原子力平和利用をテーマにした展示物が、何年もの間、資料館内の展示会場を占めることになった。そして、これらの出来事は、事態を傍観するしかなかった多くの被爆者の怒りをかったのだった。
この原子力ロビーによる集中的なプロパガンダは、政府と繋がりのあるテレビ局や新聞の高揚的報道によって盛り立てられた。「原子力の平和利用は我々の経済を成長させる」とのスローガンは、間もなく、日本社会に浸透遍在していき、テクノロジーの進歩に好意的な日本市民の心に刷り込まれていった。その頃から日本人の間で、”核” とは、ヒロシマとナガサキの恐るべき大量虐殺と結びついたものであり、”原子力” とは、経済成長と人々の幸福に結びついたものであるとの概念が生まれるようになった。
1956年以後、日本原子力研究所が東京から東北の地域にある小さな東海村に発足した。それに続いて出来たのが、核燃料生産工場、使用済燃料再処理施設、そして日本で最初の原子力発電所であった。東海村は、日本の原子力産業の核心となった ーとともに、フクシマ原発事故以前に20以上の所在地に位置した58基の原子炉を有していた、腐敗した、規制不十分な、事故慣れした産業のシンボルともなった。すでにフクシマ超大規模原子力事故が起こったずっと以前から、原子力施設において漏洩や爆発、火災が発生し、その度ごとに、一部で大量の放射能放出を伴っていた事があったという事実が、日本の原子力産業の特色を現わしている。
「今日、多くの日本人は、なぜ、地震、津波、火山噴火で度々悩まされている国が、なんら疑問を発することもなく単純に、原子力を受け容れることができたのだろうか、と思案している。さらに彼らは、経済界・政界の有力者が当時から間違っていると分かっていながら、これらの危険性を無視した背後には何があったのだろうか、と問うている」と、広島平和研究所の ジェイコブス博士は述べる。
さらに、見て見ないふりをする習慣や政治家、企業、原子力規制庁の間の癒着といった背景が原因として付け加わり、東海村やフクシマの原子力災害の発生に寄与していった。
そして、国会事故調査委員会は2012年6月、「フクシマ原子力災害の原因は、これまでの規制当局の原子力防災対策への怠慢と、当時の官邸、規制当局の危機管理意識の低さ、そして責任を持つべき官邸及び規制当局の危機管理体制が機能しなかったためであり、自然災害というよりも人的ミスに帰する」との結論に至った。今回、再び、日本市民に高レベルの放射能を浴びさせたのは外敵ではなく、自分の国の規制当局と企業の過失/怠慢によるものであったという認識は正に、多くの被曝者に諦めと茫然自失をもたらした。
ジェイコブ氏は書く:「原爆被爆者たちは、核時代の終わり、核兵器の廃絶、そして、自分たちの身にふりかかった、あの苦しみを、もう誰一人として味わう必要のない世界を渇望している」と。 だが、その逆に彼らは、フクシマ原子力災害の後、あるイメージと向かい合わされている:それは、自分たちの故郷が放射能汚染されてしまったために避難施設で生活し – 線量計をつけて学校へ通い– 健康診断に一生涯、臨まなければならず– そして原爆被爆者と同様に、がん発病率の増加や子孫への遺伝的影響、社会的烙印を恐れている – 女性、子ども、老人たちのイメージなのである。
これらのイメージは、原爆の犠牲者たちが実際に目指している未来とは全く正反対のものを描き出している。臨床心理学者である福島県・いわき明星大学の窪田文子 (のりこ)教授は彼女の論評をこう結んでいる:「ヒロシマは、70年経った今も放射線被曝の影響と闘っている。だからこそ広島の人々は、自分たちと同様に、今、放射線被曝と取り組んでいる福島の人々に対して特別な心情を懐いている。」
(日本語訳:グローガー理恵)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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