小説 「明日の朝」 (その1)
- 2015年 9月 4日
- カルチャー
- 小説川元祥一
【小説『明日の朝』発表について】
この小説は文芸誌『千年紀文学』に連載中の「明日の朝は…」の原稿の後半(未発表部分)を訂正書き直したものである。当文芸誌に投稿した時に、後半、特に最後の場面は書き直すことを告げて連載を始めてもらった。そうしているうちに、発表部分を見たウエブ版「ちきゅう座」の関係者から同じものをウエブ版として連載したいと依頼された。ちきゅう座には昨年六月に1960年の安保闘争をテーマにした「六月十五日」(中編小説)を発表したので、その関連と思われる。千年紀文学の小林孝吉氏に相談し、彼から「広く読まれた方が良い」と快諾を得てウエブ版に発表することとした。そして、それをきっかけに後半の書き直しにとりかかった。この長編小説は私が三十歳頃の作品で野間宏の影響を強く受けており、人を「心理・肉体・社会」的存在として描こうとした。しかし作品としては書き切れていないのを感じて発表を控えていた。その後私の転職・引っ越などで原稿の所在を見失っていた。今思うとその後の時間の経過は無駄ではなかった。いろいろ細かい要素は別に書くとして、四十年近く経ってやっと社会を描くことが出来たと思っている。三十歳当時も含め、その間最も困難だったのは、部落問題の社会性だった。当初その社会性は<差別・被差別の現実>だった。私はそれを超えようとしていたが、超えるために何が描けるか、手探りだった。そのため歴史と社会構成体、文化論などを模索してきた。その間評論や小説を書きながらも、満足は出来なかった。2015年の今年私は「部落共同体論」(近日発表)を書き上げ、やっと部落の社会構成体と差別の原点を把握できたと思っている。その意味で書き直しも可能かと思う。若い頃の弱点ばかりの原稿であるが、その社会を描く手法は、私なりに掴めたと思っている。また、書き直すことで改めて思うのは、この作品は、部落問題を一人で解決する可能性を探ろうとしているということだ。いかなる社会問題も、最終的には一人一人の内部、心理としての解決が無くてはならないと思うかだ。また、社会的心理的に存在するものを無視しては日本人の真相に迫ることは出来ないとも思っている。その姿勢は今も続いている。書き直すことで、千年紀文学に連載する原稿の中、一つの会社名の表示を一字変更したので、ウエブ版タイトルを「明日の朝」とする。
2015年9月・川元
-------------------------------------------
明日の朝
川元祥一
1
人の列が幾筋も重なるプラットホームの端を歩きながら平崎章行はふと前方の列に目をとめた。おびただしい人の中ではあったが、そこに立っている一人の女の横顔に見覚えがあった。まさかこんなところで、という気持ちがあったが、彼は足をゆるめながら女に近づいた。白いワイシャツ姿が目立ち始めた勤め帰りの男の肩の間にベージュのスーツを着た女が立っていて、その横顔がある女に似ていた。しかし彼が知っている女は、この駅から三十キロばかり離れた農村に住んでいた。洪水のように人が動きまわるこの都市の中で、それほど遠くに住んでいる女とこんなところで出合うのは信じがたい感じだった。そのうえ、やわらかいウエーブを持って耳たぶを包む髪は、以前出合っていたオカッパ頭のそれとはまったく違っていた。華やいだ感じがする薄化粧やハンドバックを持って孤独な表情で立っている姿は、かって見たことのないものだった。しかし柔和な感じがする頬ややさしげな眉、そしてなによりも左の目尻にある小さな黒子など。
彼は女の前に行って足を止めた。やはり彼が知っている女に間違いなかった。
「岡谷さん?」
彼は声を掛けた。女が振り向き、一瞬瞳に驚きの表情をはしらせたあと声をあげた。
「あら」
「この線で帰るんですか」
「いいえ、そうじゃないんです。今日はお友達の家に寄ってたもんですから」
丸っぽい顔の、少し泣き顔に見える目元に羞恥をただよわせながら岡谷千津子が微笑んだ。その時になって彼は、千津子が青山学院の短期大学に通っていたことを思い出していた。そのことを考えると、彼女がこの渋谷の井の線のプラットホームにいることはそう珍しいことではないかも知れなかった。といっても、短期大学の卒業が間近にせまって就職先を捜しているという話を昨年の暮れ、伯父の広中修平から聞いていた。
「大学はもう終ったんでしたっけえ?」
「ええ、やっと終ってお勤めしてるんです」
「どちら?」
「日日経済新聞社なんです」
千津子がちょっと頚を傾げながら答えた。三十キロばかり離れたた彼女の家でよく出合っていた昨年までとちがって、服装がととのい華やいだ雰囲気が漂っている原因がわかった。
「いいところへ行ってるんですねえ。新聞記者にでもなるんですか?」
「いいえ、そんなんじゃあないんです。事務系のお仕事で、お茶汲みばかりしてるんですよ。広中さんはいつもこの線使っておられるんですか?」
「いえ、僕もたまたま用事で渋谷に来て、この線を使っただけなんです。いつもは中央線なんです」
「私もそうなんです。いつもは東京駅から中央線で帰るんです」
「奇遇ですね。いつも使っている電車で合わなくて、二人共たまたま使った電車で会うなんて」
「そうですね」
千津子が子供っぽく笑った。
「あのねえ、僕の姓は広中ではないんです。伯父さんが広中だから、そう呼ばれることがよくあるんですけど僕は平崎なんです。伯父さんとは姓が違うんですよ」
「あら、すみませんでした。ちっとも知らなくって」
「いんですよ。でもヒラサキ.アキユキっていうんですよ。本当の名前は」
「はい。平崎さん」
千津子が茶目っ気を見せた。
頭上のスピーカーからあわただしい男の声が流れ始め、大きなネオンが光っている右側の暗闇から電車が入って来た。ドアが開くと、客が降りてしまうのを待ち切れずにプラットホームに並んでいた人が殺到した。二人は立ち止まったままその人波を見送り、一番後から電車に乗った。
車内は吊り革が空いてない状態で、二人はドアに近い鉄柱を掴んで向き合った。千津子の唇には薄いピンク色の口紅がさされていて、やわらかくウエーブした髪で隠された耳たぶには白い象牙のイヤリングが飾られていた。そして、彼の手より少し下のところで、同じように鉄柱を掴む指の爪にも、口紅に合わせた薄いピンクのマニキュアが塗られていた。多摩川辺りにある彼女の家の近くで出合っていたこれまでの千津子とはやはり違った。しかもそんな千津子と、このおびただしい人並みの中で出合い、向き合っているのだった。<まるで奇蹟のようだ>と平崎は思った。
「日日経済に入るのは大変だったんじゃあないですか」
「いえ、私の仕事はお茶汲みたいなもんですからそうでもないんです。記者の方とか編集の方は大変なんだっていいますけど、私は事務系の端っこの方ですから。お友達のお父さんが日日にいらっして、その方の紹介で入れていただいの。そうでなかったら私など入れませんわ」
「そうでもないでしょうけど。よかったですねえ。僕も新聞社か出版社のようなところへ行きたいとは思ってるんですけど」
「広中さん、あらごめんなさい。平崎さんも卒業が近いんですか?」
「ええ、僕は一年留年しちゃったんです。だから本当なら今頃あなたみたいに勤めてなきゃいけないんですけど、学生運動ばかりやってたから卒業出来なくて」
千津子がじっと彼をみていた。彼はつづいてアルバイトのことを説明しょうかと考えてやめてしまった。留年したのは学生運動より、むしろアルバイトの方が大きな原因だった。そのことを彼女に説明しょうとしたのだったが、言い訳がましく聞こえる気がした。それにアルバイトのことはいつか伯父の家の近くで彼女に合ったとき話した気がした。
「ずっと学生運動されてるんですか?」
「いえ、そんなことはないんです。いつか話したみたいに、僕はアルバイトずっとやってたから、専門的な活動家にはなれなかったんです。いやアルバイトのせいにしちゃあだめなんで、正直言って僕は専門的な政治活動家にはなりたくなかったんです。イデオロギーとか行動には共感するものがあってやりましたけど、政治的な活動家になりたいと思わなかったんです」
千津子が頚を傾げながら彼を凝視していた。そしてその柔和な表情から彼女の感情が温もりを持って彼の肌に伝わって来る感じがした。
あれはもう三年も前のことだった。彼はその日、彼女が住んでいる町の田野に着き伯父のところに向かった。吉祥寺のアパートを出る時降りそうだと思った空模様だったが、傘を持たずに出かけてしまった。そして途中で降りだした雨が、田野駅に着く頃、結構激しくなっていた。
彼の頭頂部から顎にかけて仰々しい包帯が巻かれていて、顎が締め付けられる感じだった。足速に歩くと頭頂部の傷が少し疼く感じでもあった。その二日前のことだった。日米安全保障条約改定に反対するデモがあり、彼が参加していた全学連のデモ隊が国会議事堂に突入して警官隊と衝突していた。議事堂に入った後、国の最高機関を目の当たりにする不思議な感動を味わいながら周りを見ていたのだったが、突然排除にあたった警官隊に追われ、後ろから警棒で叩かれたのだった。一度は気を失い、気づくとデモ隊から遠く離れた敷地内に横たわっているのだった。周りにも学生がいて、呻いたり蹲ったりしていた。その様子から警官隊に捕獲されているのがわかった。やむお得ないとはいえ、このままだと少なくとも数日間自由を失うと思いつき、見張りをしているらしい警察官の様子を見つめながら、隙をみて暗闇の中の植木の影に滑りこんだ。そして逃げまどうデモ隊に戻り、議事堂の外に出たのだった。
その日は緊張していたのだろう、頭部の痛みもなく出血もすぐ止ったので気にもしなかったが、次の日になって傷口がズキズキとし、町医者に行って手当をしてもらった。たいした傷ではなかったが、傷口を三針縫い、それを留めるための包帯が頭頂部をかばうため顎にまで掛るのだった。
田野駅から伯父の家に行く途中、新興住宅がつづく道端に小さな雑貨店があった。激しくなった雨足に彼は肩をすくめて歩いていたが、店に近付くと、前に赤い傘を差した千津子が立っているのが見えた。彼女の方も彼に気付いていて、道の反対側を歩く彼を見ていたが、彼は黙って通り過ぎた。
まっすぐな道の前方に白いブロック塀があって、塀の内側に低い小さな赤瓦の屋根が見えていた。修平がいる借家だった。そのブロック塀の少し離れた左側に大きな欅が数本茂る屋敷林が続いた。このあたりの古い農家が並ぶ一角だった。農家といっても、今は立派な屋敷が並び、高級なお屋敷街といった風情なのだ。その一角の入り口あたりにある白壁の土蔵を持つ大きな屋敷が千津子の家だった。そんな屋敷の畑の端に借家が三件建つ。
雑貨店から二十メートルばかり離れた時だった。横に人の気配を感じて振り向くと千津子がいた。その時彼女は高校三年生だったと思う。彼から少し離れて紙袋を抱えていたが、傘を持つ手だけを黙って彼にのばした。
少し照れくさかったし、数十メートル先に伯父の家が見えていたので彼は、「いいです」と断わった。すると千津子が、泣き顔に見えるやさしげな顔に一瞬驚きを走らせ、手を引っ込めた。ところが、彼女はそのまま先に行くのではなく、彼と並んで歩くのだった。雨に濡れて歩く者を放っておいて良いものかと迷っている風に見えた。そんな彼女を見て彼は思い直し「じゃあちょっと貸して下さい」と手をのばした。その時彼の脳裡にあったのは自分が傘を持ち、千津子と一緒に歩く姿だった。その映像がちょっと照れくさかった。ところが、傘を彼に手渡すと彼女は突然雨の中を走り、青いスカートをひらつかせながら白いブロック塀の手前を屋敷林に曲がった。
彼はそのまま千津子の赤い傘を差して伯父が住んでいる道端の小さな借家に行き、すぐ母家の方に返しに行った。屋敷林を持つ家が昔からの住民なのを示しているらしい。重そうな屋根をもつ家の、門柱の内にある踏み石を踏んで玄関先に立った。特別威厳があるという風でもなく、農村部でよく見る土埃の色を残す玄関戸だった。少し戸を開けて声をかけた。小肥りした千津子の母親が出てきて傘を受け取った。その時、母親が彼の頭の包帯を見て「あら、どうされたんですか?」と尋ねた。彼は照れながら「デモに行って警官の警棒で叩かれて…」と答えた。するとその母親が「あらまあ、警官も乱暴なのね」と言ったものだ。 連日のようにつづいている安保反対デモの熱気や、機動隊のものもしい防御体制からすると、どこかまのぬけた反応だった。しかし彼はそこに温もりを感じていた。その時も千津子が母親の後ろに立ち、彼をじっと見つめていた。
満員電車の暑苦しい人気と振動する電車の中で、その日の千津子の姿が脳裏に浮かぶのを知りながら
「学生運動なんか嫌いですか?」、と彼は声をかけた。
千津子がふいを突かれたような顔をした。
「いいえ」
そう答えて彼女が目もとを紅潮させた。彼はなぜか自分の問が、長い間彼女に尋ねてみたかったことのように思った。
「私の学校はそんな人いなかったんです。学部の方には何人かおられたようですけど。私は全然そんな人と知りあう機会がなかったし、私自身も少しぼんやりしてるものですから。でも自分の信念を持っておられる方っていいなって思います」
「そうですか」
千津子に言われて彼は逆に照れくさかった。自分に信念があるとは思はなかった。しかも、千津子のような言い方も少し単純ではないかと思ってしまう。
「あなたが大学に入った年はもう安保闘争も終ってしまって、学生運動も沈んでましたからね」
「そのようですね。私はほとんど知らないんですけど。学校が一番静かな時だと云われました。渋谷駅や吉祥寺駅で時々ビラをいただくくらいで」
「大学の時はこの線を使ってたんですか?」
「ええ、毎日。少し遠いんですけど下宿するのは許してもらえなくて。平崎さんはどちらにお住まいなんですか?」
「僕は吉祥寺に住んでるんです」
「ああそうですか。よくお会いするのに、どこに住んでおられるか知らなくって」
「そうですね。伯父のところでばかり出会ってましたからね。吉祥寺の井の頭公園を知ってます?」
「ええ知ってます」
「あの公園のすぐ上なんです」
「あらそうですか。あそこはよく行きました」
「行ったことがあるんですか?」
「ええ。最近は行かないんですけど。子供のころ遠足でよく行きました」
「遠足で?」
「ええ」
「小学校のころの遠足ですか?」
「ええ、幼稚園のときもいったと思うんですけど。四、五回行ってるんですよ」
「地元だもんね。そんな話し聞くとなぜか胸がホッとするな」
「……」
千津子がまるで年上の女のように微笑んでいた。井の頭公園で遊ぶ幼稚園児の千津子はどんな姿なのだろうか。
いつの間にか揺れる吊り革が目立つようになっていた。通過した駅を気にしなくても、終点の駅が近いのがわかる。
そして、同時に彼は自分の胸に迫るものを感じた。それは電車が渋谷の駅を出てしばらく経った後脳裏によぎってもいた。電車が吉祥寺駅に着くまでに話してみようか、と思うものー。奇蹟とも言える出逢いなのだ。こんな機会を逃すと再び同じ機会はないかも知れない。
「最近、広中さんのところにはあまりいらっしゃらないんですか?」
千津子がきいた。
「ええ。ちょっと僕の方も忙しいことがあったりして」
彼はあたりさわりのない返事をした。この四月に行ったまま修平に会っていなかった。会いたくなかったのだ。しかし今、そのことを千津子に話したくなかった。短い時間のなかで修平に関する自分の気持ちを説明するのは非常に難しい気がした。
「岡谷さんは音楽なんか好きですか?」
「ええ」
「ピアノリサイタルなんか行きます?」
「ええ、学生の頃お友達と何回か行きました」
「いまストランセスキートというソ連のピアニストが来てるんですけど知ってます?」
「いえ、知らないです」
千津子が恥らいを顔に浮べた。
「お勤めが始まってから、少し余裕を無くしちゃって」
「そうでしょうね。新入社員の間はね、夢中でしょうから」
「そうでもないんですけど、ぼんやりしてるものですから」
千津子の目辺に再び紅潮がはしった。
電車が静かに止まってドアが開いた。終点の一つ手前の駅だった。
「僕はストランセスキーを聴に行こうかと思っているんですけど、よかったら一緒に行きませんか?」
ドアが締まったあと彼が聞いた。
「…いんですか?」
頸を傾げ、やわらかい笑顔で千津子が彼を見た。その笑顔にどんな心理があるのかわからなかったが、彼はたたみかけるように言った。
「もちろんです。よかったら次ぎの日曜日どうですか?リサイタルは六月の末まであるんですけど」
「次ぎの日曜日だったら大丈夫です」
意外と簡単に思わぬ返事が返ってきた。
「じゃあ僕が切符買って置きますから、行きましょう」
ストランセスキーがどんな音楽家なのか彼はほとんど知らなかった。昨年の暮れの事だったが、修平のところに行くと修平が週刊紙の芸能欄を見ていて、いきなり「ストランセスキーいうのを知っとるか?」と彼に聞いた。ソ連の小説家なんだろうかと思ったが彼は「知らん」と答えた。すると修平が馬鹿にしたような笑いを顔に浮べたものだった。その時修平がひとしきり講釈したストランセスキーというのは、ソ連の天才ピアニストと言うわれている男で、作曲もするという。そのストランセスキーが日本に来ると修平が言った。「お前もたまにはクラッシックくらい聴いた方がええで」と。修平が尊大な言い方をして、そばにいた女房の花枝までが修平の調子に乗ってせせら笑った。
しかし平崎はその時、修平は週刊紙を見て始めてストランセスキーを知ったに違いないと思った。負け惜しみではないが、修平というのはそんな男だ。これまで修平がクラッシック音楽に趣味をもっているのを聞いたことも見たこともない。自分でプレーヤーやレコードをを持ってもいない。
そうした平崎の修平への直感が当ったかどうかわからなかった。だが、その時修平が見ていた週刊紙を後で読むと、彼が講釈したことが全て書かれているのだった。
偶然、岡谷千津子と出会ったその日は、前夜からのアルバイトの夜警が開けた朝、川口市にある伯母の広中紀子の家に行き、伯母の依頼で渋谷に住んでいるある女のところに荷物を届けて帰る途中だった。その女と会うのも久し振りで、しばらく無駄話をした後だった。国鉄の渋谷駅の隅にあるプレイガドの前を通り掛かった時、週刊誌に載っていたストランセスキーの写真と同じものを使った大きなポスターが貼られているのを見て足を止めた。修平の尊大な口調が頭に蘇っていた。ああやって人を小馬鹿にしておきながら、修平は自分では決してリサイタルに行かないだろうと思った。そんなことが何回もあった。そんな修平への反発心があって、一人で聴きに行こうかと心が動いた。ポスターは巨大な白黒写真で、暗い闇から浮き出た彫りの深い内行的な顔が魅力的だった。こんな内向的な表情を持つ男が弾き出すピアノの音はどんなものだろうかと思った。だが、彼はその時すぐプレイガイドの前を離れた。ポケットにチケットを買う金がなかった。
そのままプレイガイドを通り過ぎ、井の頭線のプラットホームに上がってきたのだった。そして千津子に出会った。
「リサイタルは夕方六時半から始まるんですけど、少し早めに出て来ません?コーヒーでも飲みたいし」
「ええ。いいですね」
「どこで逢いますか?」
電車が終点に近ずきつつある気配を察して彼は聞いた。
「どこでもいいです。平崎さん決めて下さい」
「僕もよく知らないんだけど、とりあえず吉祥寺駅で逢いませんか。午後一時頃この電車が着く改札口で。その後リサイタルまで何をしてるか二人で決めませんか」
千津子が微笑んでうなずいた。
電車が吉祥寺に着き、二人は井の頭線の改札を出たところで別れた。
「次ぎの日曜日ここでね」
別れ際に彼が足元を指差し、千津子がそれを見て楽しむように「はい」と答えた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0155:150904〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。