「菅内閣はもうたくさんだ!」―田畑光永氏説への疑問
- 2011年 1月 6日
- 評論・紹介・意見
- 山川哲菅政権は必要か
高名なジャーナリストの田畑光永氏が「菅内閣をもう少し使ってはどうか」という一文を物している。もちろん氏の意図は「暴論珍説」という副題にある通り、ある種の茶化し、強烈な皮肉にあるだろうことは想像に難くない。しかしその諧謔の背後で氏が、どういう立場から批判しているのかにいささか引っかかる点があるため、あえて反論を書かせていただいた次第である。主張のイントロになっている冒頭部の書き出しは、以下のようだ。
「迷走する政権に国民はいらつき、もう少しましな政権を!という声が高まるに違いない。しかし、そう叫びだしたい一方で、また与野党入り乱れて「我こそは」の合唱を聞くうっとうしさとそれに費やされるエネルギーと時間の無駄を想像し、そして果たして「ましな」政権が出来るのかと冷静に考えると、政権交代はしばらく願い下げにしたいという思いもまた頭をもたげてくる。というわけで、ここではあえて「菅内閣にもうすこしやらせよう」と提言したい。」
私見では、これではまるで「あきらめ」と「投げやり」である。誰がやっても同じなのだから、それなら短期政権にするよりは少しは長期政権をもつ方が良いだろうという程度の主張でしかない。政治や政策に対する自己責任(主体性)を放棄したある種のニヒリズムに通じるのではないかと恐れる。しかも田畑氏によれば、高度成長期の池田、佐藤内閣と、鳩山由紀夫の前半の一時期を除き、歴代首相はすべてダメなやつらだったのだから、菅でも良いではないか、というわけだ。しかし、本当に池田、佐藤、鳩山はそれなりに評価されうる内閣だったのだろうか?「貧乏人は麦を食え」との乱暴な発言をして、大資本優遇政策を取り続けた政権はどなたの政権だったのか?佐藤栄作が「非核三原則」を裏切る密約外交を結んだことを忘れることはできない。戦後沖縄の悲劇を招いた張本人は誰だったのか?全くの無策から当初の約束を簡単に反故にし、沖縄に米軍基地を残し、米国の意のままに使えるよう許可したのはどの内閣だったのか? 等々…。
翻って菅現政権について考えてみたい。なるほど田畑氏も菅政権に対して次の程度の指摘はしている。「 菅内閣の評判はすこぶる悪い。マニフェストを守らない、外交でやられっぱなし、いざという時に腰が定まらない、失言が相次ぐ、党内抗争に明け暮れている、選挙に負ける・・・結果、支持率は下がり続けて、今や20%台前半へ。危機ラインである。」
しかし、菅政権の危なさはこの程度の指摘で済ませられるほどのものなのだろうか?大資本優遇減税と、それから当然招来する財政危機の補填として、安易な消費税引き上げ政策の検討(「税制改正大綱」)、従来の専守防衛を破棄し、臨戦体制を想定した「新防衛大綱」構想、管理・監視社会を強化すべく「共通番号制」の導入の検討、などなど。
一言でいえば、経済政策では、小泉構造改革路線(新自由主義路線)の継承であり、外交、軍事面ではアメリカ追随路線の強化でしかないのではないだろうか。しかも、長期の見通しも、政策も持たない(なぜなら、彼らが選挙前に公約した「マニフェスト」はすでに完璧に捨てられているからだ)。いかなる政策といえど、全体の構想から切り離された政策は意味をなさない。間々危険でもありうる。菅が打ち出す政策は、ひたすら己の政権の延命のためのそれでしかない。いわば、権力にひたすらしがみつく醜い小人がこの政権の本質ではないだろうか。
この政権を擁護することは、いかなる意味においてもできないと思う。他の人がやっても同じだという理由は、擁護の理由にはなりえない。むしろ、田畑氏は次のように問題を立てるべきだったのではないだろうか。
「今日の問題を真に解決するにはどうすべきなのか」、「そのために我々はどういう運動を展開する必要があるのか」と。これが真の意味での自己責任の取り方ではないだろうか。政治の全くの堕落、貧困、社会の完全な崩壊は、それ故に全面的な社会の変革を要求しているのではないだろうか。ジャーナリストたる使命は、このための一石を投ずることにこそあるように思えるのだが、いかがであろうか。
皮肉や茶化しがはびこる社会的風潮(テレビや大新聞など)こそ考えなおされるべきだろう。
記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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