小説 「明日の朝」 (その12)
- 2015年 10月 27日
- カルチャー
- 小説川元祥一
12
フロントの前の広場に人が群れて溜まっていた。先々週のチンピラ騒動と違って、やたらと人が多い。入場制限をしているように見えたが、この時期入場制限など考えられなかった。建物の中で障害事件でもあったのかー。
平崎は人を掻き分けてフロントを通った。フロントに小柄な小島が立っていたが、立っているだけで人が前を通るのを気にも留めず、浮かない顔で場内のリンクを見ていた。
フロアーにも人が溜まっていた。しかしその向こうに見えるリンクには奇妙な空白感があった。人の姿がほとんどなかった。。
事務室のドアを開けると草色の制服姿の従業員が溜まっていた。
「何かあったの?」ドアのそばに立っている平井に聞いた。
「リンクに油をまかれた」
「油?」
「ああ平崎さん。この間さあ、ガラス割って逃げた奴いたじゃない。連中の顔見てない?」
なぜか喜々とした輝きを浮べて沖田が奥から近付いた。
「見てないな。寝てる時にやられたんだから」
平崎が答えると、机で従業員に囲まれている丸尾が沖田を振り返った。
「覚えてたってどうしょうもねえよ、馬鹿。すぐフロント閉めてりゃよかったんだ。それがよう火事でも起ったみてえに客をゾロゾロ逃がしやがって。今頃この辺にいるわけねえだろう」
先日窓ガラスに石をぶつけた者が関係しているとしたら、その連中の顔を知る可能性があるのは丸尾だろう。しかし、その日、喧嘩をした後のことを丸尾はまったく覚えていないという。そんな事情があってか、丸尾がいらいらしているのかも知れない。
「平崎さん飛び出した時、一応見たんだろう」
沖田がめげずに宿直室について来た。その口から歯糞の臭いがした。
「見たといっても逃げて行く後姿をチラット見ただけだからなぁ」
「この辺のチンピラはやらねえって。そんな事したら自分が遊ぶところ無くなるだろう」丸尾に次いでベテランにあたる野原が言う。
「どうやって油まかれたの?」話しやすい沖田に平崎は声をかけた。
「ビニールの袋に入れて入場したらしんだ。油の入ったビニール袋がリンクで潰れてたんだ」
「リンクでそれを投げたの?」
「人込みにまぎれてリンクに置いたんじゃない。それで踏み潰されたんだよ。だから誰も現場見てねえの。見てたら俺たちこんなとこでウロウロしてねえよ。今頃控室に連れ込んで袋叩きよ」
沖田がロッカーの扉を拳で叩いた。
「丸さん言うように、すぐ玄関閉めて客を閉じ込めてたら犯人捕まったんだよ。小島さん馬鹿だからよ、火事の時みてえに客を逃がしちゃったのよ」
フロントで小島が浮かない顔をしていた原因がわかった。
「そんならたとえ俺が顔を覚えてたってしょうがないじゃない」
「だけどさ、しらばっくれてその辺にいるかも知れないじゃない」
「いたってだめよそんなの。わかんるわけないよ」
「だけどさあ、石を投げられた時って夜中じゃなくて、明け方だよ。電車もなんもない時間だよ。だから、いつもこの辺うろうろしてる奴だと思うんだよな。だから平崎さんが客の顔見て歩いて、あんたの顔見て逃げたらそいつだよ」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。そんなことより、今夜泊まれる奴を確かめとけよ」
丸尾が沖田に言った。沖田は意表を突かれた顔で生返事をした。
夜警員の制服に腕を通して事務室に下りて行くと丸尾が首をねじ曲げて平崎に声をかける。
「よう。今夜はいっぱい泊ることになるから頼むぜ」
「いいですよ」
意味もわからず平崎は答えた。そんな丸尾に沖田が喰いさがった。
「夜になって大勢いたって無駄だろう。犯人捕まえなきゃあ。広場に人が溜まってるうちにそいつを捜さなきゃ意味ないよ」
若いのにこいつはなかなかの者だと平崎は思った。
「うるせえな、黙ってろ。お前が考えてる奴がやったとは限らねんだ。他にもやりそうな奴がわんさといるんだ」
丸尾がむきになって言う。すると丸尾の横に座っていた野原が立ち上がって沖田の頭を小突いた。
「打つ手は打ってるんだ。ギャーギャー騒ぐな」
「山際が警察に訴えた、てんだろう」
「そんなんじゃねえよ。警察はこの程度じゃ動かねえよ。聴取だけだ。怪我人ないから」
どうやら彼らは警察とは別に、自分たちで何かしょうとしている。
平崎は二階の事務室に向かった。階段から見上げると野田道子と小暮定子が窓辺に張り付いてリンクを見下ろしていた。楕円形のリンクの南寄りの床がロープで囲まれ、中でニッカズボンの男が数名作業をしていた。緑色の従業員も四、五人ロープで囲んだ床の周りをモップを掛けたり拭いたりしたりしていた。ロープの囲いの外では、ローラースケートで滑っている者もいた。このままで営業を続けるつもりなのだろう。
「いろんな事故があるもんですね」
小暮定子から夜警道具を受け取りながら平崎は野田に声を掛けた。
「困っちゃうのよ。あそこ全部板取り換えなくちゃなんないの。お金ばかりかかって。でも怪我人なくて幸いよ、これで怪我人出てたら大損害よ」
野田がやたら生臭いことを言う。しかし、どっちみち会社が損をするだけじゃないかと平崎は思った。この施設を作った者が儲けを全部懐に入れる。その代わり器物が壊れたらそいつが修復する。それが当然と言うものだろう。そこで働く者はそんな修復に関係ないだろう。賃金を貰えればそれでいい。その範囲の中で何かを心配すればいい。そしてそのうえで従業員は従業員で会社とは別の世界をつくればいいだろう。自分たちのシステムも作ることを考えることが出来ないわけではないだろう。
「営業が終わるまでは囲いに見張りを置くけど、営業終わったらすぐ一晩で突貫工事だからね。宿直員の外に誰か事情の分かる人が泊まることになると思うから、平崎さんよろしくお願いね」
「誰が泊るんですか?」
「本当は山際さんなんだけど、現場のこと何もわかんないからね。今だって本当はここに居なきゃなんないのに、本社に行って戻って来やしない。だから丸尾さんか野原さんに頼んでみるわ。彼らがいないとリンクのことわかんないもんね。板取り替えるだけでなく、その後リンクの滑りが悪かったら今度は本物の怪我人出るから」
平崎は何も言わなかったが、丸尾も野原もすでにそのつもりで動いているのではないか。平崎から見ても支配人の山際は当てに出来ないだろう。本人もそれがわかっていて本社に逃げているのではないか―。
平崎は警備道具を抱えて事務室を出た。リンクの上では応急処置が終わったらしく、ロープの囲みだけを残して作業員たちの姿が消えていた。そしてその時、スビーカーから山田芳美の気取った声が流れ、営業が再開されることが告げられる。後二時間余りの営業だったが、入場料の払い戻しは面倒なのだろう。そんなことをやりたくもないだろう。だけど、この場合それを誰が決めたのだろうか―。
そんなことを考えながら平崎は下の事務室に戻った。緑色の制服がそれぞれの持ち場に散っていたが、机の前では数人の従業員が丸尾を囲んでいた。机に腰かけている者もいたので平崎は宿直室にあがって、夜警員の小道具を自分のロッカーに置いた。その後部屋の隅に重ねた布団の山にもたれて一休み。山田が蛍の光を場内に流すまで、定まった仕事はない。
机の電話が鳴っていた。誰かが受話器を取り、丸尾に渡したようだ。丸尾がいやに丁寧な言葉で話した。本社からだと平崎は思った。丸尾が丁寧語を使うのはその時以外にない。
「はい。わかりました。野原にもそれ伝えます。いえ、大丈夫です。私の方から言っときますから」
話しの様子からして、二階の野田達子が話したことを本社から正式に依頼しているのだろう。
「よう、平崎よう。今夜俺は特別手当つきの宿直員だ。野原も一緒だ。貸布団二組届くから受け取っといてよ」
予想した通りだった。
「布団は一杯ありますよ」本社や二階の事務所に内緒にしているが、従業員が勝手に借りた貸布団が宿直室だけでなく、貸靴の控室にも場内係の控室にもゴロゴロしている。
「わかってるよ。だけど本社が俺と野原の分勝手に注文したんだ。黙って受け取るんだぞ。本社だって知ってんだ。山際が時々見回りしてんだから。だけど知らない振りしてんだ。こっちも、知らん振りしなきゃなんねんだ」
「それはいいけど山際は何してんだい?全然見ないけど」
丸尾を囲んでいた長安が言った。
「本社に逃げてるよ。本社から建築屋に電話して、今夜突貫工事だってよ」
「電話は山際から?」
「違うよ。奴はこんな時絶対顔を出さない。現場のことは中卒高卒がやることって決めてんだ。大卒の本社社員は手を汚さなくていいって思ってんだ」
丸尾が言うのが当たっていそうだった。本社には一部の女子事務員を除いて大学卒ばかりが入っていた。そこで二、三年すごすと、ローラスケート場とか、アイススケート場、野球場などの現場に支配人として配置される。本社の大学卒が現場と接触を持つのはこの時だけだった。しかも本社社員が全てそうするのではなく、ごく一部の、管理者として出世コースにある者だけが、一定の研修期間として支配人になるらしい。そして彼らは数年置きに交代する。現場には中学卒か高校卒が入るが、そうした現場の者が本社社員になるのは十年に一人有るか無いかだといわれている。そこにははっきりとした一線があるのだ。お互いに本当の意味での交流が成り立たない強固な一線―。
「平崎よう。今夜どの部屋も全部鍵を開けといてくんないか。俺たち以外に何人か泊まることになるしな。いつでも出入り出来るように非常口の鍵もはずしといてよ。山際は逃げちゃたから警備に文句言う奴誰もいないよ。もし文句言う奴がいたら俺がそうしろって言ったって言えよ」
丸尾が宿直室の方に来て言った。どんな計画が練られているのか分からなかったが、突貫工事とは別に、従業員だけが知る、何かの臨戦体制といった雰囲気が丸尾の言葉にあった。
「いいですよ。何人くらい泊まるの?」
「わかんないけど、十人くらいは泊まるよ。会社が注文した貸し布団が着いたら貸靴の方に回してよ。俺その新しい布団で寝るから」
「寝られやしないよ」
長安が丸尾にからんだ。
「いんだよ。俺は十分ずつでも寝られるんだ。お前らみてえに柔い神経と違うんだ」
丸尾が長安に言って事務室を出た。他の男たちもそれぞれの持ち場に散っていく。その後平崎は事務室に下りて行った。男たちの興奮した空気が残っていた。突然起きた異常を楽しむ男たちの宴の後といった感じー。
平崎は一人机の椅子に残り、ぼんやりと時計を見た。八時五分。後一時間たらずで営業が終る。だが、彼にとって、この建物の中にいる限り時計によって計られる時はほとんど意味がない。時間がどのように移り変わろうと、彼がこの建物の中にいて同じ仕事をしていることに変りはない。そしてもし彼にとって今大切な時間があるとしたら、地球の反対側に回った太陽の動きだろう。太陽が地球を半周し再び東京の東の空に顔を出した時、彼にとって時間というものが改めて意味を持ち始める。それまでは、時計の針によって計られる時間は、神経と肉体の消耗度を現わす健康診断器のバロメーターでしかない。
営業が終わる九時まで、警備員がすべきことはない。いや、やるべきことが全くないわけではない。日誌帳に自分の名前と日付を記入する。三時間ごとに書きこむことになっている日誌の中に、それぞれの時間に起こった目新しい事を書き込むようになっている。また、その夜臨時に宿泊する者の名前も書くようになっている。しかしそんなことをいちいち書き込んでいたのは、ここに入って一カ月ばかりのことで、その後は朝の退社間際に「特別なし」と書き込むだけだった。今日の事故はいずれ日誌帳の中に書き込むことになるだろうが、それも退社間際に、社員の誰もが知っている一万分の一くらいのことを書いておけばいい。
彼はタバコを取り出して火をつけ、放送室に行った。
ツンとしたマニキュアの揮発の匂いがした。
「いろいろなことがありますね、お姉さん」
「なんだね、お兄ちゃん。今夜は徹夜の仕事かね」
「そういうことになりそうだな。お姉さん夜中に握り飯でも差し入れしてくんねえか」
「自分で勝手に握りなさい。それとも、ピチピチ娘に頼む?」
山田はマニキュアを塗るため反り返した指から目を離さなかった。
「みんな喜んでる感じだよ。事故があって…」
平崎がまともなことを言う。
「馬鹿みたいね。あんなの警察に任せとけばいいのに」
「警察に任せたら面白くないんだよ。自分たちでやることに面白さがあるんだよ」
「じゃあ、あんたも楽しんでんじゃない」
「そういうことかな。まあ結構面白いけど」
「犯人捕まえて野球場に連れて行くんだって?」
「そんなこと言ってた?」
「そうみたいよ。本当ならリンクに引っ張り込んで油を舐めさせるんだけど、今夜は大工が入ってるから野球場に連れてって、ブッ叩くんだって。みんなで」
山田がマスカラの付いた目をギョロつかせる。
「だけど誰がやったか分かんないのに、どうやって犯人捕まえる気なんだろう」
「あなた聞いてないの?」
「聞いてない」
「チンピラ使って捜すのよ。さっき貸靴の木村さんがチンピラ連れて出て行ったもん」
「チンピラ使ったらわかるの?」
「だってヤクザの組にザッと流してさ、あちこちで聞くらしいわよ。私よく知らないけど。飲み屋とかマージャン屋とか、チンピラがいつも遊んでるところへ今日の話し流して情報集めるんじゃない?」
「それで丸さん強気なのか。だけど、そんなことでヤクザ使っていいのかなあ。あとで怖いんじゃない」
「平気よ。彼らだって毎日ここで只で遊んでんだもん。うちの者には手を出さないの。かえって彼ら喜ぶんじゃない。役に立つことが出来るからって。こんなことがあった後は彼ら大きな顔をして入ってくるから」
山田が刷毛を持つ手を止めた。
「ところであんた秋の慰安旅行行くの?」
「わかんないよ、そんな先のこと」
「あら何よ。早くしないと間近になって言ったらいろいろ計画狂う事あんのよ」
「そんな事あるの?」
「あるわよ。その前に仲良しグループ作っていろいろ計画立てるもん」
「へー。だけど俺には早過ぎても困るよ。その頃何があるか今からわかんないもん」
「うちの慰安旅行は早過ぎることないの、大人数だから。聖子ちゃん気にしてたわよ。あんたが行かなかったら彼女も行かないって」
山田がいたずらっぽい目を向ける。平崎はヒヤリとしものを感じた。<こんなところまで話しが来ているのか>
「彼女は社員なんだから堂々と行けばいいよ」
「あら、あんただって社員でしょう。アルバイトも社員よ。アルバイトいないと会社困るもん。遠慮しなくていいのよ」
「遠慮しないけど…」
「去年も行かなかったでしょう。みんな言ってたわよ。大学生だから俺たちと一緒にいたくないんだろうって。一緒に行かないと何言われるかわかんないわよ」
「それはないよ。俺にだって都合あるよ」
「そんなこと言ったらみんな都合あるわよ」
「それはそうだけど。行きたい人が行けばいいじゃない」
「あら、あなた行きたくないの?そんなこと言っていいの?向うで二人だけのお部屋用意しょうかって皆言ってるわよ。新婚さんがいる時はいつもそうするのよ」
<いったい何事なんだよ>と思う。<俺たちはやはりあの渦の中にいるのか…>
「本社から支配人来るけど、殿さまみたいに特別室にするの。その方がいいでしょう。お金は全部会社がもって、従業員はやりたい放題」
山田が横目でニヤリとする。
「いいですよ俺は、そんなことしてもらわなくても」
彼は言った。そして思わず立ち上がった。<俺の周りもあの渦が出来ているというのか?>もっと上手な逃れ方があるかと思ったが、繕う余裕がなかった。彼は一人事務室に戻った。しかし山田の言葉が脳裏で尾を引いた。なぜかそこに、抜き差しならないものがあるのを感じた。<俺はそんな渦に巻き込まれたくはない…>。従業員が楽しみにしている慰安旅行。それは分かる。しかしそれに加わるかどうかー。そんな簡単なことが、なぜこれほどにまといつくのか―。その渦の中に聖子がいた。そして彼の脳裡にはもう一人の女―。<いろんなことがあってよいのではないか。まだ決まらないこともある。想像しないこともある。いろいろなことがあって、いろんな奴がいてよいのではないか―>
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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