小説 「明日の朝」 (その13)
- 2015年 10月 30日
- カルチャー
- 小説川元祥一
13
突然異物が進入したかのような鋭い電気鋸の音が響き、煙とも埃とも見分けのつかない白いものが場内に舞い上がる。平崎はタイムレコーダーを肩に掛けてリンクサイドを歩いた。いつもなら今頃、暗い天井に小さな星が輝きショパンかモーツアルトの静かな音楽が流れているはずだったが、まるで異質な場所であるかのように、人気のないリンクに照明がともり、その一角が無参にめくられていく。リンクの中に四人のニッカズボンの男がいて、頭梁らしい普段着の男が丸尾の耳元に口を寄せて何かを話していた。やや経って電気鋸の音が止る。すると棟梁が床に空いた穴を指さし、丸尾が膝を折って穴を覗き込む。
山際はとうとう事故の現場に現れなかった。事故の直後リンクに下りて様子を見たらしいが、その後は本社に行ったままだという。従業員にとってはそれが一番楽なことだ。しかし幹部候補生としての現場の研修は彼の身につかないだろうし、そのまま経営陣の中に入っても、碌な事が出来ないのではないか。
全部の部屋と非常口の鍵を開けておけと丸尾に言われたのだったが、医務室だけは閉めておくことにした。何かあったら看護婦がうるさいしのだ。そう思って医務室の鍵をかけ、次の部屋に向かう時だった、リンクの向うで事務室のドアが開いて角刈り頭の男が顔を出した。チンピラを連れて会社を出たという木村だった。その木村がリンクの中の丸尾に声をかける。再び始まった電気鋸の音で何を言ったかわからなかったが、丸尾が軽く手を上げる。そして棟梁に何か話しかけて事務室の方に歩いた。気づくと、平崎が巡回に出た時、事務室にたむろしていた三人の従業員がいそいそとフロントを出るのが見えた。そして、一度事務室に姿を消した丸尾と木村もまた、あわただしくフロントを出て行く。その直後、丸尾に代って野原がリンクの棟梁の横に現れた。従業員の間の連携のある動きが手に取るようにわかった。何かが始まりそうな感じだった。
平崎はそのまま巡回をつづけた。医務室に鍵を掛けた他は、外に出られる非常口も含めてすべての部屋の鍵を開けて歩いた。どうして非常口まで開放しておくのかわからないのだったが、しかしやがてその理由がわかってくる。
突貫工事をやっているリンクの南側にさしかかった時だった。突然目の前の南非常口の扉が音をたてて開き、沖田が一人入って来た。遠目に見ても、その目が異常につり上がり、興奮しているのが分かった。沖田は小走りにリンクに入り、大工が剥ぎ取ったばかりの油で汚れた木辺を数本抱えた。そしてリンクサイドを小走りに北非常口に向かう。平崎はリンクを歩いて沖田に近づいた。
「それをどうするの?」
「こいつを奴らに嘗めさせんのよ。きれいに舐めさせる。それからこれで奴らをぶっ叩くんだ。二度とこんなこと出来ねえようによ」
沖田は自分の言葉に酔っていた。
「捕まえたの?」
「あったりめえよ。マージャンやってるとこ捕まえたのよ」
「どうやって見つけたの?」
「こっちのチンピラ」
沖田が自分の頬を指で縦になぞって見せる。「奴らに、この辺の飲み屋やマージャン屋なんか、奴らが遊びそうなところ全部張り込ませたのよ。そしてよう、今日の油のこと話してる奴を見つけたんさ。奴ら馬鹿だから手柄話のように話してんの。それをチンピラが聞いて木村さんに連絡して来たのよ」沖田が、まるで自分の手柄のように話す。
「この前のヒロポンの連中と同じなの?」
「そうじゃない。奴らじゃなくて、その辺の不良よ。何日か前、女の子のスカートめくって遊んでたから追い出したんたけと、そのグループだよ」
この施設ではチンピラと不良の意味が違う。チンピラが格上でやくざの予備軍を意味する。
「どこへ行くのそれ持って?」
「野球場の裏」
沖田が言って北非常口の向こうに消えた。
最初の巡回を終えて、彼は机のすみにあるラジオのスイッチを入れた。いつもならこの時間帯が平崎の世界だ。ショパンやモーツアルトの音楽が暗いリンクに流れている。しかし今日はそうもいかなかった。
ラジオの歌謡曲を耳にしながら、手持無沙汰に新聞を広げていた。そんな時だった。フロントの北隅にある小さな西非常口の扉が開く音がして、ガサガサと物ずれの音がした。<彼らが帰って来たのだろうか…>
フロント側のドア開けると、顔が引き攣り興奮さめやらないといった様子の男たちが七八人西非常口から入ってくる。凱旋するかのような熱い空気を持ちながら、しかしなぜか彼らはいつもの饒舌を失っていた。その時平崎は初めてすべての非常口を解放した意味が分かった。どこに居ても最短距離で施設に戻るのが大きな理由であろうが、もう一つ理由がありそうだ。通常の営業からすると“裏の世界”とも言える自警的暴力装置としてのシステムを発揮した場合、彼らは正面のフロントを避け、まさに“非常口”を通ることにしているのではないかー。少なくともそれは、非合法とも言える自分たちの姿を人目にさらさないために必要であろう。そしてそれはまた、通常の営業を守り維持するために必要な行為でもあるだろう。平崎はそのように思うのだった。
彼らの不思議な沈黙は事務室に入っても続いた。最初に事務室に入って来た丸尾が宿直室まで行って畳の上に長々と体を延ばした。そしてその丸尾の横に木村が座る。
小杉と平井は事務室に入った後すぐリンク側のドアを開けて事務室を素通りした。その後沖田がやってきて平崎の横の椅子に座った。手柄話が始まるかと思ったが、土足のまま足を机に上げて深い呼吸をする。そんな沖田の手の甲の皮膚が赤くただれていた。気が付くと、宿直室の丸尾や木村の手の甲も赤くただれていた。人を殴り過ぎてみんな疲れたというのだろうか―。
「奴ら何人だったの?」
「三人。全部のばしたよ」
その時、リンク側のドアが開いて野原が入ってきた。
「平崎よう。もうすぐ修理終わるから、フロント広く開け説いて。廃材運び出すから。それと非常口全部鍵かけていいや。控室はだめよ。これから使うんだから」
「ええ」
こうした騒々しい一日が終わったのだった。午前〇時、彼はタイムレコーダーを肩に掛け、鍵の束を右手に、大きな懐中電灯を左手に持って二回目の巡回を始める。
修理作業が終わったリンクでは、場内係の野原と平井がローラスケート靴を履いて新しくなったリンクの滑り具合を確かめていた。デコボコがあると転ぶ者がいて、そこに人が重なって必ず事故になるという。
朝は、いつものように静かな朝だった。まるで何事もなかったかのようだ。顔を引き攣らせ興奮気味だった連中も、それぞれの控室で眠っていた。平崎は、昨日営業終了後閉めて歩いたカーテンと天窓を開けて歩いた。夜警員としての最後の仕事だった。それを終えて、これまた最後の仕事の一つ、広場への水撒きのためにトイレの道具室で小道具を揃えている時、フロントでめずらしく女の高い声がした。
「あらめずらしい。いらっしゃい」
山田芳美の独特の言い回しだった。今日早番なのだろう。
続いてはずむような若い女の声。
「平崎さんいます?」
フロントに聖子が来ているのか?。
「あらまあ、朝からごちそうさま。彼は寝ぼけてて、さっきまでその辺ウロウロしてたわよ。」
「そうなんですか」
「今はトイレかしら。ほら、若い子の声したから出て来たわ」
平崎がモップを入れたバケツとゴムホースを抱えてトイレから出て行くと、ノースリーブのブラウスに白いカーデガン姿の聖子がフロントに立っていた。
「平崎君、よかったわね。朝早くから声かけてもらって」
山田が二人をからかって放送室に入る。
「広場に水を打ってないから寝坊してるんじゃないかなって思った」
聖子もまた山田のからかいに乗って軽口を言う。
「朝は半分眠りながらやってるからね」
彼が小道具を持って広場に出ると聖子がついて来た。
「お土産物の荷物着いたの」
彼女が大きな手提げ袋をあげて見せる。
「平崎さんのも入ってるわ」
「ありがとう。今ここでくれるの?」
「ううん。平崎さん、今日は学校ですか?」
「いや、今日は行かない。帰ったら、ともかく寝てる。昨夜もいろいろあってさ。だからゆっくり寝てから何するか考える。図書館に行くかも知れないし」
「昨日大変な事あったみたいですね。帰りに見たらお客さん外に出てたから、心配してたわ。平崎さんは大丈夫ですか?」
「まあね。後でまた詳しく教えてあげるよ」
「私今日早番だから、お仕事終わったら平崎さんところに行きたい。これ持って」
「俺のところ?アパートに?」
「うん。だめ…?」
一度聖子をアパートに連れて行ったことがある。人に知られた井之頭公園を案内した後、二人だけの時間を作るためだった。そんな事があったとはいえ、聖子の方から自分のアパートに行くと言いだすとは考えていなかった。しかしそんな聖子の声に勢いのようなものを感じる。いつもより少し積極的なのかー。断る理由もなかった。
「駄目じゃないけど、一人で来るのまだ無理じゃない?」
「大丈夫。念のため地図持って行くもん」
「そんなことしなくていい。それだったら俺が駅で待ってる。四時半頃?五時かな?」
「五時」
「じゃ南口の改札で」平崎は、駅の通路にある井の頭線との改札口を思わず避けていた。
「よかった…」
聖子が言って離れて行く。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0177:151030〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。