ヨーグルトを食べ過ぎた-はみ出し駐在記(59)
- 2015年 10月 26日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
痩せの大食いだった。脂肪肝と糖尿が気になる歳になってしまったが、甲状腺肥大で手術する三十過ぎまでは、いくら食べても太らない体質だった。(脂肪肝と糖尿は歳のせいにしておきたい)  下戸だったから暴飲はしようがなかったが、若さにまかせて暴食はいつものことだった。健康など気にすることもなく、食べたい物を食べたいときに食べたいだけ食べていた。もっとも、これは私生活においてはという但し書きが必要で、客先では飢えることも多かった。
日本にいたときは、実家か寮か社員食堂での食事だったから、最低減の栄養のバランスはとれていた。それが駐在に出た途端、ほとんど外食で最低減のバランスさえなくなった。自制心の欠片もなく、肉ばかり食べて野菜は口直し程度にしか食べなかった。若かったからだろう、不規則な生活に偏りきった食生活でも、身体はなんとか持ちこたえていた。
週末の朝食、下宿で食べる物といえば、まず冷凍庫から取り出せば食べられるアイスクリーム。次にベーコンかフランクフルトソーセージに卵焼き。飲み物はソーダだけだった。たまにキャンベルのクラムチャウダーかミネストローネを飲むくらいで食事と呼べるようなものはなかった。
ゆっくり起きて、ある物を適当に食べて、遅い昼メシに出かける。“さっぽろ“に行けば、生姜焼き定食か、昼からすき焼きで、ご飯をおかわりした。ダイナーにゆけばハンバーガー。食べるものは決まっていたというか、好きなものしか食べなかった。メニューを見て、何にしようかなどと考えないということでは、今も変わらない。好きなものであれば、何日続けても苦にならない。
ある日、昼飯のあとで回ったスーパーマーケットで、いつものようにいつもの物をカートに入れてレジに向っていたら、ヨーグルトが目に入った。カップのヨーグルトでプレーンやバニラ、蜂蜜から始まって驚くほど色々な種類のフルーツヨーグルトがあった。手に取ってみると、カップやフタに描かれたフルーツの入ったヨーグルトの絵が、どうしても食べたいという気を起こさせる。あれこれ見るが、見る限りどれもこれも不味いわけがない、一度は食べてみなきゃと思わせる。もう、説明など要らない、ただただ無性にヨーグルトを食べたいと思った。
まあ、最初の試しなので六個もあれば十分だろう。どれにするかあれこれ悩んでも、バニラは外せない。残りの五個をどれにするか、これにするかと手にとっては戻して、バナナとチェリーとパイナップル。。。好きな果物の入ったものを選んで買って帰った。
ベーコンやソーセージをさっさと冷蔵庫に入れて、ヨーグルトを食べ始めた。日本のカップに比べて、アメリカのヨーグルトのカップは三四倍大きい。手にとれば、どれもしっかりした重さを感じる。小食な人だったら、一個で十分過ぎる量がある。
ベーコンでもソーセージでもそうなのだが、食べるだけ食べないと落ち着かない。自分でも病気じゃないかと思うことがある。買ってきたヨーグルトを六個とも、あっという間に食べてしまった。ソーダを飲んでちょっと落ち着いて、本でも読もうかと思ったが、なんか食べたりない。ヨーグルトが気になってしょうがない。
全くしょうがないヤツだと思いながら、車を出してスーパーマーケットに行った。食べてしまったヨーグルトはどれも甲乙つけがたいほど美味しかった。でも、たま同じ物ばかりというのもの能がない。どれにするか迷った末に、またあれこれ六個買って下宿に戻った。前に食べ終わったときの満足感と満たされない感とでもいうのから、また六個だった。
下宿に帰って、流石に食べる速度はちょっと落ちたが、それでもまた六個をぺろりと食べてしまった。小一時間の間に十二個も食べれば腹もきつくなる。多少は落ち着いて本を読み始めた。読んではいるのだが、食べたヨーグルトの味がというより、味の記憶が戻ってくる。あれは上手かった、こっちよりあっちの方がなどと、ヨーグルトの味が頭のなかを回りだす。
読んではいるのだが、頭に入らない。頭の中をヨーグルトの味、食べたときに充実感というのか幸福感が膨らんで、いてもたってもいられなくなった。なんだ、まったく自制心のないヤツだ、また行のくか?子供じゃないんだし、もう止したほうがいいんじゃないかとバカバカしい押し合いが始まった。そんなものが始まってしまえば、周囲に押さえる人でもいない限りはなから勝負はついている。
また、スーパーマーケットに行って、どれにするか悩んだ末に六個買ってきた。食べた、食べている満足感と満たされたい欲求のバランスが満足感に大きく傾いてゆくのを感じながら、また六個食べてしまった。もう、おなかも一杯だしヨーグルトは当分いいなって思って本を読み始めた。
読み始めていくらも経たないうちに、なんかお腹がぐるぐるいいだした。何?まさかそりゃないだろう。たかがヨーグルトで、と思っていたら、最終状態に至るまでにたいした時間はかからなかった。トイレに行っては戻ってきて本を読もうとするのだが、またトイレにゆかなければ、。。。何回か繰り返した。
あんな大きなカップを十八個も食べれば下痢のひとつもしようというもの、二十代の後半になっても、外から押さえられないと食の暴走をしてしまう。トイレでしゃがんでいて、精神的に欠陥でもあるのではないかと心配になった。でも、トイレに行かなくなれば、ヨーグルトをちょっと食べ過ぎただけだし、そこまで大げさなことでもないだろうと忘れてしまう。
誰にもあるだろうと勝手に想像(期待)しているのだが、日本にいたときも、どうにも説明のつかない、ただ無性に食べたくなることがあった。アンドーナッツにカシューナッツ、アップルパイ。。。、そんなことを思うのは自分だけかもしれない。自制心がないということなのだろう。自分でもバカだと思う。
でも、ちょっと考えれば、この馬鹿げた抑制の欠如は食べ物だけではないかもしれない。仕事にしても遊びにしても、もっと基本的な生理的な欲求にしても、外からの制限のようなものがないと、自分だけでは抑制しがたい、少なくとも、しがたいときもあるんじゃないかと思う。
そう思って、周りを見渡せば、自制心だけで極端に振れることない人や組織など、あるようでなかなか見つからない。自制心の緩さということでは「チョッと一杯の つもりで飲んで、いつの間にやら はしご酒。。。」植木等の『スーダラ節』という応援歌すらあるじゃないかといい訳がましいことまで考えてしまう。
漠然とした世間体のようなものから、家族や所属した社会や組織から受けるなんらかの規範や規制があってはじめて自制心と呼んでいるものが、たとえ全てではないにしても、生まれるだけのような気がする。
外部からの規制-現状を固定する抑止力-から自由であろうとすれば、自制心は必ず緩いものにならざるを得ない。それを自制心の足りない者の都合のいい思いに過ぎないと言い出したら、社会がそこで終わってしまう。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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