おい、連れてけ-はみ出し駐在記(61)
- 2015年 11月 1日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
アメリカの子会社は慢性的な技術屋不足に陥っていた。営業は代理店まかせだからまだしも、機械の据付や修理を担当するフィールドサービスには知識のある技術屋を当てなければならない。駐在員(技術屋)を増員しようにも、不景気で失業率も高いことから就労ビザが下りない。アメリカ人を雇ってもトレーニングする能力がない。典型的な日本の会社で英語の技術資料がほとんどないから、雇ってもなかなか技術屋として立ち上がらない。苦肉の策として工場から技術屋を長期出張で派遣してもらっていた。
そのためニューヨーク支社には少なくとも三四名の応援者がいた。ビザの期限が限られていて、長期といっても三ヶ月もすれば帰国だった。しょっちゅう誰かが来て、誰かが帰国する。その度に会社の経費で歓迎会やら追い出し会があった。出張先の気安さもある。出張手当もある。何人か集まれば決まって飲み食いに出かけた。それがフツーの日常生活になっていた。
先に来ている応援者から新たに着いた応援者に、衣食住に関する細かな日常生活の知恵のような情報が引き継がれてゆく。たまにそれまで遭遇したことのない問題がでてきても、ほとんどは応援者のなかで処理されるようになっていった。ただマンハッタンの夜遊びは、シドニーの暴れん坊を例外として、応援者だけではどうにもならなかった。ちょっと慣れたくらいでは昼間のマンハッタンまでで、夜ははみ出し駐在員の出番だった。
「扇」のマスターとはあれこれチャレンジしていたが、応援者を連れて特別これといった遊びに出かけたのはそれほど多くなかった。もっとも、多くないと思っているのはマスターとの遊びが度を過ぎていたからで、応援者にとってはなかなか得られない、記憶に残ることだったのだと思う。
怪しいところで、危なさの感覚ができていない応援者を連れて歩くのは精神的な負担が大きい。三四人で一緒に歩いていたはずのが、どこにもとっぽいのがいて、ちょっと目を離した隙に、お決まりの呼び込みや何だか訳のわからないのに引っかかってしまう。自分一人ならなんとでもなるが、何人もいると何かあったときにとっさの行動をとれない。応援者を連れての冒険はそこそこまでで止めて、深入りは避けていた。
応援者が日本に週報のようなものを書いているようにはみえなかった。無事ニューヨーク支社に着きました、これから予定通り帰国しますくらいの連絡はしていただろうが、何か特別なトピックか依頼ごとでもなければレポートのようなものを送っている様子はなかった。週報など定期的な報告を要求するほど、あるいは提出するほど煩い会社ではなかったということなのだろう。
それでも帰国すれば、かたちながらにしても出張報告書の一つも提出させられただろうし、課内かなにかで出張報告もさせられていたと思う。ただ書類の報告も口頭の報告も、報告のための報告から一歩も出ないものだったろう。応援に行っていたときに直接間接に知りえた問題を問題として提起したとしても、マネージメント層がそれを真摯に受け止めていたとは到底思えなかった。報告を受けて、何らかの対策を講じようとするだけの能力も責任感もある人がいたとしても、能力や責任を果たせるような文化も組織もなかった。仕事の面では何があっても、なあなあで済ませているようにしか見えなかった。
業務上の報告は一通の報告書と一回の報告会で終わりだったろうが、個人の体験談や武勇伝は、尾ひれまでついて面白おかしく伝染病のように伝播してゆく。一回だけのちょっとした悪さや冒険もどきが、まことしやかに話されてゆく。多少なりとも現地社会に入り込んだ生活をしたことのある人なら、高々三ヶ月の滞在で経験できることがどの程度のものか想像できるのだが、想像できる程度のことでは話す方も聞く方も面白くない。面白くない話は誰も聞きたくないし、聞いたとしても語り継がれない。そうだろうと想像できる範囲をちょっと超えたあたり、理解しえる範囲の面白さに尾ひれがつく。
応援者ごとに、つまらない話もあれば面白い、そこまで行くとウソじゃないかという話があって、その多くの面白い話に、便利屋として面白い場を用意したはみ出し駐在員がいた。仕事では当てにならないが、仕事以外でなにかあったら、それが口外できることでも、口外するのを憚ることでも、あいつに相談すればなんとでもなるという、ある意味的を射ていたし、買いかぶられていたのが変な共通認識になってしまっていた。
応援に来るのは二十代の平社員で、年齢でみれば、四歳くらいまで上の先輩から一二歳下の後輩で、同年輩という気安さもあって、仲間内でのちょっとした冒険や悪さだった。そこまでは似たもの同士でいいじゃないかと思っていた。
それが、支社の業務やなにやらの視察にきた課長あたりから、同年輩と同じことを命令口調で言われると、この課長、一体何をしに来たのかとあきれてしまう。応援者とは客先や倉庫で一緒に仕事をしていたが、エライさん連中は事務屋で、仕事の上では何の役にも立たないし何の関係もない。公務をだしに、半分以上遊びに来た(役得)としか思えない。遊びなら遊びで結構、自分で勝手に遊んでゆけばいいが、駐在員の誰かの世話にならないと遊べない。誰かの世話といっても、悪遊びの手伝いを相談できる駐在員は一人しかいない。
金曜日の夕方、総務の課長からひっかる話し方で声がかかった。外れた人材で輸出子会社に放り出しただけでは足らずにニューヨークくんだりまで島流しにして、いまさら何なの?今晩だって、会社もちでどこかに食べに行くのは決まっている。あらたまってオレになんの用なのって、つい引き気味になって構えてしまった。へんな猫なで声で「おまえ、今晩つれてけよ、。。。」何を言われているのか見当が付かずに、「えぇって?」反応だったのだろう。「おまえ、日本じゃもっぱらの話しだぞ、なにかあったらお前にきけばいいって。おまえ知ってんだろう」「なんですか、連れてけって、どこへ?」「なに言ってんだ、分かってるだろうが。。。」
おいおいよしくれっての、そりゃ応援者があれほどくれば、色んなのがいて色々あって、色々なところに、堅いのから軟らかいのまで、ちょっとヤバイところまで連れてってるけど、なんで総務の課長が、視察という大仰だった名目できているのが。。。と思いながらも、しょうがない、さわりだけでも連れてってやろうか。。。「ああ、そっちですか、ないことないですけど、結構かかりますよ」「ところで、ご予算は?ご予算次第で、ゆくところも違いますし、。。。」「何にしても、そのスーツにネクタイはだめですよ、そんな格好じゃ危なくて。。。」
エライさんのお忍びのお遊びのお手伝い。若い応援者たちのような、お互い気取らないざっくばらんな話にはならない。ここまでくれば、課長や部長なんてのは関係ない、男と男の裸の付き合いってんならまだいい。わけの分からない値引き交渉?までさせられて、人にそれなりのお世話になるのに、命令口調はないだろう。人の何かを頼むときの口の聞き方からしてなってない。中味にないヤツに限って社名や肩書きを振り回す。外れた駐在員以下のエライさん。うっとうしいだけで、いない方がいい人たちと言っても言いすぎじゃない。
頼まれて、それなりにお手伝いして、それがまた下らん武勇伝になって、ありがたくない評判が広まって、冗談じゃない、よしてくれ。そもそも人にお膳立てしてもらっての武勇伝なんざ、軽トラの助手席に乗って居眠りしてたようなもんで、みっともなくて人に話せないと思うのだが、呆れたことに尾ひれまで付いて広がってゆく。まったく何やってんだろうと思いながら、よろず引き受けの便利屋だった。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5750:151101〕
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