異論なマルクス ブルマンはかく語りき
- 2015年 11月 6日
- スタディルーム
- 青山雫
内田さんから打ち切り宣言ありましたので、それに従います。私ももう潮時であろうと薄々感じていたところで、折りよいご提案と感謝いたします。理由についてはすぐ後で述べますが、その前にお詫びを申し上げておく件がございます。
まず、ブルマン!だよねという筆名を使い続けた点。ブルマン=ブルーマウンテンで青山雫でございますが、これはちきゅう座の住人には公知の事実であると勝手に思い込んでいた私の落ち度です。それ以外の他意はございません。
それから、「前言を翻したごとく」云々のくだりですが、引用が不適切であり申し訳ございませんでした。ただ内田さんのその直後に続く記述をいま読み返してみても、第二形態から第三形態の移行が理論的可能性を説いたもの、というある意味当然の指摘にとどまり、「誤解」の指摘であるとは読み取れなかったし今も読み取れない。それゆえ、「ごとく」すらも成り立っていないというこちらの見解として「ごとく」をとっても差異はないと判断して問題とされる引用の形にした次第です。いずれにせよ御不快の念を呼び起こしたのは私の不徳の致すところ。その点についてはお詫び申し上げます。
さてなぜ私が潮時と見ているかというと、まず第一に依然として内田さんとの価値形態論の一次的理解の懸隔が簡単に埋まりそうもないこと。取り分け「誤解」だとか「誤りを犯している」などという点については強く反論したい気持ちは山々ですが、それでは議論がエンドレスになりかねない。二人だけの間であればエンドレスにやってもかまわないかもしれないが、ちきゅう座という開かれた空間でこれを際限なくやると、というかすでに、部外者からは「やっぱり資本論は難しいから手を出すのをやめよう」と見られているのではないかと懸念するからです。資本論に対してそのような形で距離を置いてしまわれるのは私の本意ではない。
最近構想してきたことですが、資本論は変動相場制のもとにある現代資本主義の分析ツールとしては全く不適ですが、しかしマルクスという19世紀にコミュニスト革命理論家として生きた一人の人間が様々な論敵-俗流経済学は無論のこと、プルードン、リカード派社会主義者、などなど-との論争、資本主義の矛盾と崩壊それの帰結としての革命の必然性の論証を課題として背負って半生をかけて世に問うた、そのドキュメンタリーとして資本論を読むことは、資本主義世界体制が危うい隘路に入りつつある現今においてこそ意義があるように思い、なにかそうした線に沿った読解に注力し、微力ながらも、ちきゅう座にその成果を継続的に発信するべきではないかと。ですので価値形態論についてもその指向性の下で別途論稿を用意する所存ではあります。
ただ結論めいたことを先取りすれば、商品の価値表現の発展の中から貨幣が発生するというプロジェクトは成功する見込みは極めて低いと見ています。
ここに、価値形態論という論理エンジンがあるとします。そのなかには弁証法でもシンメトリーでも逆転でも、カントでも、お望みならアリストテレスでもなんでも強力な処理プロセッサが組み込まれている。そうして片方の入り口に無数の商品を放り込むと出口から金貨幣が出力される。しかし、そうした形態変換論理はどうひねくりまわしても変動相場制という現実からはその有効性に対して厳しい否定的な検証結果を下されているのではないのか。
それがゆえに価値形態論の論理を徹底的に検証することが要請され、そこに新たな貨幣論への道筋が自ずと開かれるであろう、というのが現時点での展望となります。
マルクスの理論的な闘争のドキュメンタリーとして、そうして現代資本主義への接近という視角から資本論を読解をする、という二重のレポートを継続して行きます。
そのなかでもしかすると機が熟してまた内田さんと議論を交わすときが来るやもしれません。その時を楽しみにしたいと思っております。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study672:151106〕
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