「仮象」をめぐるカント・ヘーゲル・マルクス
- 2015年 11月 23日
- スタディルーム
- 内田弘
筆者は、新著『《資本論》のシンメトリー』(社会評論社、2015年9月)の本文と注で言及している「マルクスとカントの関係」を論文にしておく必要があると考え、拙稿「『資本論』と『純粋理性批判』」(専修大学社会科学研究所『社会科学年報』2016年3月刊行予定)を執筆した。その基本的な内容を或る研究会で、つぎのような「マルクスとカント」の四つの対応関係に限定して報告した。より本格的でより多面的な論証は、その拙稿にゆだねる。
[4つの確認] まず、この報告の冒頭でつぎのことを確認したい。
(1) 初期のマルクスの学位論文の主題は「カント批判」である(内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」『専修経済学論集』通巻第111号参照)。そこにはカントの名前があり彼の認識論・アンチノミー論が批判されている。
(2) 後期のマルクスは数学草稿で「フィヒテもシェリングもヘーゲルもカントの観念論一般の基礎づけの枠から出ることはなかった」とカントの名前をあげて指摘している。彼の学問生涯の端緒と後半にはカントが存在する。
(3) 『資本論』ではカントの名前は出てこないけれども、カント用語は商品物神性論における「感性的かつ超感性的」などのように頻発する。
(4) マルクスはエンゲルスなどへの1860年前後の書簡で、経済学批判の内容は「圧縮し、かつ隠蔽する」と繰り返し指摘している。
したがって、カントの名が『資本論』にないからといって、『資本論』はカントと無関係であると断定できない。報告者は『資本論』に『純粋理性批判』が批判的に摂取されていることをつぎの四つの対応関係で解明する。
[1]「要素=集合の関数」(マルクスとカント[1])
[『純粋理性批判』の要素=集合] カントは『純粋理性批判』をⅠ超越論的原理論とⅡ超越論的方法論に分け、前者のⅠ原理論を超越論的感性論と超越論的論理学に分ける。後者の論理学を超越論的分析論と超越論的弁証論に分ける。弁証論が「仮象の論理学」であるのに対し、感性が受容した経験的データを分析する基準である分析論は、一切の経験的なものを排除し「統一性・真理性・総体性」(B114) [1] を貫徹する自立的な「真理の論理学」である。「超越論的分析論は、我々のアプリオリな認識全体を純粋な知性認識の諸要素(Elemente)へと分解する」(B87)。分析論の諸要素は純粋知性概念(カテゴリー)である。「カテゴリーの表」は純粋知性の全領域を完全に満たす。カントは、カテゴリーが「要素」として如何に組織されるか、つぎのようにのべる。
「[外的触発で感性がとらえた]多様なものの総合がまず一つの認識をもたらす。その認識は、はじめのうちはまだ生のままで混乱していることがありうるため、分析を必要である。しかし、認識するために諸要素を集合し(die Elemente zu Erkenntnissen sammelt)、或る内容にまとめることは本来、総合[の役割]である」(B103。[]・ボールド体は引用者、以下同じ)。
カントは、名詞Sammlungの動詞形「集める=集合をつくる (sammeln)」で、諸要素(諸概念)の集合(論理学)を規定する。「要素=集合」は連繋し「関数(Funktion)」(B93)を成す。分析論は「要素=集合の関数(理性推論)」で編成される。知性は個別的経験を判断し、理性は知性の判断を推論で結合(総合)する。
[『資本論』冒頭文節の要素=集合] マルクスは『資本論』冒頭文節でカントにならって「要素=集合」を『資本論』の編成原理とする。
「資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、《巨魔的な商品集合(Warensammlung)》として現象し、個々の商品はその富の要素形態(elementar Form)と現象する。それゆえ、我々の研究は商品の分析から始まる」(S.49:訳59)。[2]
商品は、資本主義的生産様式を編成する要素(Element)かつ集合(Sammlung, Aggregat)である。すでに『要綱』に「要素形態」語がある(HeftⅣ,S.384)。或る商品は要素としてより高次の集合としての商品に包摂され、集合としての商品は要素として、より高次の集合としての商品に包摂される。商品の「要素=集合」は、或る商品(Wa)の他の諸商品(Wb,Wc,Wd,・・・)への関連(集合Wa=その要素Wb,Wc,Wd,・・・)、即ち価値形態の第一形態・第二形態を含意する。同時に、諸商品(Wb,Wc,Wd,・・・)の或る商品(Wa)への関連(諸要素Wb,Wc,Wd,・・・=その集合Wa)、即ち第三形態も含意する。[3] 価値形態と交換過程を媒介に貨幣が生成し、貨幣は資本に転化する。「商品→貨幣→資本→剰余価値→蓄積」の諸カテゴリーは「要素=集合の関数」を成す。
[2] 同一対象への複眼と観点の旋回(マルクスとカント[2])
[コペルニクス革命の哲学的意義] 感覚(視覚)的経験を天動説として誤解するのは感覚ではなく、観測データを判断する知性(悟性)である。近代科学革命は哲学に、天体の運動を天動説として誤解する知性を批判し、感覚的経験を超えた新しい形而上学=自然哲学を樹立し、精密な経験的データを整合的に配列する能力を求める。D.ヒュームの経験論は、経験論の内部で堂々巡りの懐疑論に陥り、その課題に到達できなかった。カントこそ、人間の認識能力の根本的再検討に正面から取り組み、同一対象を経験的側面と超経験的側面の二側面に区分し、分析論と弁証論からなる超越論的論理学を探求し、コペルニクス革命が提起した課題に哲学で応えたのである。
[カントの複眼] カントは『純粋理性批判』「第2版序文」で指摘する。
「我々は同一対象を、一方では経験にとっての感覚および知性の対象として考察できるとともに、他方では我々が単に考えるだけの対象として(als Gegenstände, die man bloß denkt)、とにかく経験の限界を超え出ようと努める孤立した理性にとっての対象として、したがって、二つの異なった側面から(von zwei verchiedenen Seiten)考察することができる」(BXIX)。
感覚が受容したデータを知性が分析する。知性は真偽を弁別する批判基準でなければならない。批判基準は「超経験的・形而上学的(=自然哲学的)」という次元で「統一性・真理性・総体性」(B114)をもつ超越論的分析論である。その分析論に経験的データが媒介され一貫して配列されるとき、「超越論的演繹」となる。カントが『純粋理性批判』の分析論で遂行したのは、この課題である。
[観点の旋回] カントは上の引用文の近くで、コペルニクスの名前をあげ、事物をみる観点を「旋回すること」が決定的な意味をもつと指摘する。
「コペルニクスは、全天の星が[地上にいる]観測者の周囲を旋回している(drehe sich)と想定すると、天体の運動をどうしても明確に説明できなかった。そこでコペルニクスは、試しに、観測者を旋回させ(sich drehen・・・ließ)、それに対応して星を静止させてみたのである」(BXVI-XVII)。
地上にいる観測者を固定し、彼を中心軸に天体が旋回するとみるのは天動説である。天動説の説明では、精密な天体観測データが一貫した形に連結しない。反対に、地上にいる観測者自身が観測対象(天体)の周囲を旋回するように観点を変換したらと想定すると、観測データは見事に一貫した形に連結する。その想定は、観測者が立つ地球が天体の周囲を旋回することを意味するから、その観点の変換は地動説を潜在する。同じ対象を「感覚・知性の対象」と「論理学の対象」の二つの側面に区分し、一貫した論理学に観測データを媒介し整合する形に位置づける。その結果を、コペルニクスは『天体の回転について』で「世界の形とその部分が不変の対称性をなす」と言明する。或る旋回を反転させると対称性になる[(天動悦)地球→太陽→地球(地動説)]。カントのいう「同一対象の二側面考察」と「観点の旋回」は、超越論的演繹で媒介される。
[マルクスの複眼と旋回] 同一対象を二側面から分析し相互に媒介すると、認識は根本的に旋回する。コペルニクス=カントの「観点の変換」をマルクスは『資本論』に継承する。『資本論』第1部第1章第2節冒頭には、こうある。
「商品は最初に二面的なものとして(als ein Zwieschlächtiges)、すなわち、使用価値および交換価値として我々の前に現象した。・・・商品に含まれる労働のこの二面的性質[具体的有用労働および抽象的人間労働]は、私によって[『経済学批判』(1859年)で]初めて批判的に(kritisch)指摘されたことがらである。この点は経済学の理解が旋回する飛躍点であるから(Da dieser Punkt der Springpunkt ist, um den sich das Verständnis der politischen Ökonomie dreht)、ここで立ち入って解明しよう」(S.56:訳70-71。[]引用者挿入。訳文大幅変更)。
マルクスは、「二面的」・「批判的」・「旋回する」と書き『純粋理性批判』の認識様式を継承する。商品を使用価値と交換価値の二つの属性に分析し、交換価値が異なる使用価値の交換比率であり、その交換比率の根拠が価値であることをつきとめる。さらに、使用価値の根拠としての「具体的有用労働」と価値の根拠としての「抽象的人間労働」の二面に分析する。価値はすぐれて抽象的な存在であり、カントのいう「単に考えうるだけの対象」である。すでにマルクスはカントに従って『経済学批判要綱』で、商品の交換関係が自立し、商品の属性となった価値を「単に思惟されうるもの(nur gedacht werden kõnnen)」と規定している(MEGA,II/1.1,S.78)。
カントはカテゴリーが経験を整合的に媒介すると「真理の論理学」になると規定したけれども、マルクスは、カテゴリーとしての「価値」が経験的「使用価値」を媒介する近代資本主義では、「仮象の論理学」になると批判した。
[3]「仮象」語の規則的使用(マルクスとカント[3])
[『純粋理性批判』の「仮象」語] 『純粋理性批判』第2版(1787年刊行、B版)では、「仮象(Schein)」語は目次での使用の重複を除き、全部で97回も用いられている。超越論的論理学の前半の超越論的分析論での使用回数6回に比べて、その後半の超越論的弁証論で使用回数が51回と圧倒的に多いのは、「仮象(Schein)の論理学」としての弁証論こそ『純粋理性批判』の本題であるから、当然である。「仮象」語が弁証論より前で使用されている回数22回は、論理学の前半の分析論の論証に、後半の弁証論を媒介するカントの複眼的論証法による。
[『資本論』の「仮象」語] 注目すべきことに、『資本論』(第1部)を貫徹する哲学的な基本概念は「物象化(Versachlichung)」語ではない。「物象化」は『資本論』第1部でただ1回、貨幣論で用いられているだけである(Dietz Verlag Berlin 1962, S.128)。「物象化」1語だけで『資本論』全巻が「支持」されていると断定できるか。『資本論』の哲学的な基本概念は「仮象(Schein)」語である。『資本論』に「仮象(Schein)」は頻発する。第1部では全部で26回である。『純粋理性批判』以外に『資本論』のように「仮象」語が全巻を通じ体系的・規則的に使用されている著書はあるだろうか。「仮象」語の使用頻度をみても、『純粋理性批判』から『資本論』への継承関係は高い蓋然性をもっているのである。
[4] 理論と実践(マルクスとカント[4])
[カントにとっての理論と実践] カントは理論的可能性と実践的実現を区別し、かつ媒介する。区別をマルクスはすでに『要綱』で、「理論において(in der Theorie)」と「実践(歴史)において(in der Praxis [Geschichte])」と継承する(MEGA,II/1.1,S.174-175)。カントは両者を次のように区別し関連づける。
「思索における理性の[理論的な]使用が本来意図しているのは、具体的に一致するものが与えられることであるから、或る概念にどれほど接近しようとしても、その概念には絶対に到達することはできない。・・・実践理性の理念は、つねに現実的に与えられる。・・・したがって、実践的な理念はいつでもきわめて実り豊かなものであり、実際に行為するさいにも必然的なものになることは避けられない。しかも[理論的な]純粋な理性は、この実践的な理念のうちで純粋な理性の概念に含まれていたものを現実に生み出す因果関係を含んでいる」(B384-385、ボールド体は引用者)。
理念は抽象的であるから、多くの具体例がありうる。しかし理念そのものは理論的に思弁可能な抽象的な存在であるから、個別具体的には実現できない。理念の具体例は「典型」にあるだけである。理念は或る「究極的なもの(Beharrliche)」(BXXIX)である。理性の「理論的な使用」と「実践的な使用」は区別しなければならないけれども、両者は関連づけられる。実践的な理性の使用では、課題の解決の条件も目的も具体的・現実的である。実践がもたらす結果も具体的・現実的である。しかも、理性の実践的目的の実現は、理性の理論的な使用を根拠とする。その根拠こそが、理性の実践的な使用の理論的経路を開示する。両者は区別され、かつ媒介しあうのである。
[マルクスにとっての理論と実践] 『資本論』研究史での論点の一つに、価値形態論の第二形態から第三形態への移行は如何に論証できるかという問題がある。第二形態は、或る商品の価値が、その他のすべての商品=等価形態の使用価値の「無限の系列」で表現され、終わることなく新しい使用価値の登場が要請する。第三形態では、一般的等価形態としての或る1つの商品の使用価値で、相対的価値形態であるその他のすべての商品の価値が表現される。第三形態は、等価形態の1つの商品とそれを除くその他のすべての相対的価値形態とが編成する有限な閉鎖系である。第二形態は無限に開いた形態であり、第三形態は有限な閉じた形態である。[4] 第二形態と第三形態とは非対称的・非共役的(a-symmetrical)である。価値形態論という理論的な次元では、第二形態は第三形態を理論的な可能態としては「逆の関連」=第三形態を含むけれど、その可能性は価値形態論という理論的な次元では現実に実現しない。
その可能性が実践的に実現する場が交換過程である。そこではすべての商品が一般的等価形態になろうとして抗争する。「価値の実現」および「使用価値の実現」を同時に求めて、すべての商品が競い合う場である。商品世界にn種類の商品が現存するとき、n種類の第二形態(初版のいう第四形態)が存在する。第二形態の各々の等価形態は理論的理念的存在であるから、同格である。各々の第二形態が一般的等価形態になる可能性は同等に1/nある。商品世界全体でその可能性は(1/n)×n=1ある。したがって、商品世界に一般的等価形態が生まれる可能性は1であるから、必然的である。交換過程は現実的経験的場であるから現存する諸条件によって実現する。価値形態論と交換過程論のこの区別と関連は、『純粋理性批判』における区別と関連を継承している。
[《マルクス―カント関係》は他の関係を排除しない] 以上が、「マルクスとカントの関係」についての筆者の報告の要点である。特に指摘したいのは、次の点である。すなわち、「マルクスとカントの対応諸関係」の[1]「要素=集合」は『資本論』第1部第1章第1節の冒頭商品に対応し、[2]の「同一対象への複眼と観点の旋回」は同第2節冒頭文節に対応し、[3]の「仮象」は同4節の商品物神性論に対応し、[4]の「理論と実践」は同第3節の価値形態論と第2章の交換過程論に対応する。筆者が挙げた「マルクスとカント」の4つの対応関係は『資本論』の基礎理論(第1章および第2章)で一貫して連結するのである。
この報告に対して、当該研究会で或るマルクス研究者からコメントをいただいた。「マルクスとカント」という問題提起は、柄谷行人氏の道徳哲学からの『トランスクリチィーク ― カントとマルクス ― 』くらいあるだけで、マルクス研究では極めて稀である。《『資本論』と『純粋理性批判』の対応関係》という、筆者のまったく新しい問題提起にコメントの労を担ってくれた同氏に感謝する。
しかし、まったく新しい問題提起のためか、同氏のコメントは、筆者の論証そのものの内部には入らず、その外部からの個別的で分散したコメントであった。そのなかで、印象にのこったのは、筆者のいう「仮象」語をめぐる「マルクスとカント」の関係とは、実際はその語をめぐる「マルクスのヘーゲル」の関係のことではないか、という同氏のコメントである。その指摘は、上記の[3]の「仮象」語に関する筆者の主張に対して行われたものである。
この論点で、まず注意しなければならないのは、筆者は、マルクスが使用する「仮象」語はヘーゲルと全く無関係であるとは主張してはいない点である。筆者は、マルクスの「仮象」語の使用が、カントだけでなく、ヘーゲルとも関係することは、すでに論文「『経済学批判要綱』とフランス革命」(『千葉大学経済研究』第23巻第3号、2008年)で指摘している。マルクスが『要綱』領有法則転回論で、等価交換が不等価交換に論理必然的に転回すると論証するとき、ヘーゲル『法の哲学』の詐欺=仮象規定(§302)に対する批判を含意している。資本主義では「合法的詐欺」が可能である。それだけでない。マルクスは、「等価交換と不等価交換」という全く相対立するアンチノミーが資本主義では両立し止揚されることを論証し、カントのアンチノミーに対する批判も展開している。このことを当該論文で指摘している。マルクスは『要綱』の「仮象」語を使用するヘーゲル=カント批判(MEGA,II/1.2,S.367)を『資本論』の資本蓄積論に継承している(Das Kapital,S.610:仮象語を2回使用)。
このように、[1]「マルクスとカントは「仮象」語使用で対応している」という私の主張は、[2]「マルクスとヘーゲルは「仮象」語使用で対応している」ということを何ら排除しないのである。『要綱』での「仮象」語使用では、[1]と[2]とは相互排他的ではなく相互容認的である。[2]を指摘することは、自動的に[1]が否認できることにはならない。コメンテイターは[1]の《否認できる》を前提し、『資本論』における「仮象」語使用の源泉をヘーゲルに限定していると判断される。同氏のこの限定は、論理形式的にも、『要綱』=『資本論』の文献史上の事実の理論的分析でも反証される。
[カント的な「仮象」語使用] しかも、『資本論』における「仮象」語の使用は、すぐれてカント的なのである。カントが「仮象」語を『純粋理性批判』全巻を通じて使用する。これに対しヘーゲルは、論理学で本質論冒頭および概念論冒頭に集中し「仮象」語を使用する。ヘーゲルは『エンチュクロペディー』で、経験的な諸契機を自然哲学・精神哲学にゆだね、その論理学では抽象的概念規定に集中する。その本質論の冒頭§112には、つぎの「仮象」の規定がある。
「本質はまず単純な自己関係としての存在(Sein)である。しかし他方で存在は直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、すなわち仮象(Schein)へ引き下げられている」。
[ヘーゲルの《二重仮象》] この本質論冒頭の仮象論を受けて、『大論理学』概念論冒頭で、ヘーゲルは、一般性概念は「二重仮象(der Doppelschein)」であると指摘する(Suhrkamp, Hegel Werke Bd.6,S.278,296)。「二重仮象」とは、(a)「外部の他者に向かう仮象」と(b)「内部の自己へ向かう仮象」である。ヘーゲルの「二重仮象」は、カントの「同一対象を二面から考察する複眼」および「仮象論」に淵源する。マルクスにとっては、(a)規定が商品の「使用価値」に、(b)規定が「価値」にそれぞれ対応し、商品という資本主義の一般的概念は「二重仮象」である。商品物神性論でこの「二重仮象」を「対象的仮象」(Das Kapital, ibid., S.88)と表現する。ここに「カント→ヘーゲル→マルクス」関連が貫徹する。
なお、筆者(内田弘)はヘーゲルの「仮象」語の『経済学批判要綱』との関係について、すでに30年前に、『中期マルクスの経済学批判』(有斐閣、1985年、特に216-7頁)で解明し、それを英文著書に拡張している(Marx’s Grundrisse and Hegel’s Logic, Routledge 1988)。
[《仮象の論理学》としての『資本論』] カントは、理性が経験的データ無しに、知性の活動を推論形式で結合する活動は「仮象の論理学」に陥るとして批判する。対するマルクスは、いやそうではなく、経験的データを整合的に分析する場合でも、カントのいう「真理の論理学」にはならない場合がある。資本主義社会の富が商品形態をとる場合である。資本主義では、カントのいうように、経験的データ(→使用価値)を超越論的分析論(→価値)が整合的に媒介する「真理の論理学」の条件を形式的に満たす場合でも、「虚偽=仮象の論理学」に転回する。これがマルクスの『資本論』「仮象」語使用の戦略的意図である。『要綱』で、労働力商品の使用価値が価値=剰余価値をもたらすように、使用価値が経済的諸形態を規定する関係に注目している(MEGA,II/1.1,S.190)。この言明はカント批判を含意する。使用価値は普遍的な富に限定されないのである。
マルクスだけでなくヘーゲルの「仮象」語も、カントの「仮象」語の批判的継承である。しかし『資本論』の「仮象」語の使用は、ヘーゲルよりも、カントに親近性がある。ヘーゲルが論理学で本質論に限定して「仮象」語を使用し、カント的な虚偽の意味を『法哲学』で使用する。論理学と法哲学で異なる意味で別個に使用する。対するマルクスは「合法的詐欺」=「虚偽」の意味で「仮象」語を『資本論』全巻貫通して使用する点でカント(批判)的である。
マルクスは、ヘーゲルの「仮象」語使用の分裂をカントの一貫性に復元しつつ、カントの「真理の論理学」を「仮象の論理学」に転回する。「ヘーゲル批判」と「カント批判」の二重の批判を「仮象」語の使用で論証している。筆者の「マルクスとカント」問題の背後には、このようなマルクスのヘーゲル=カント批判という二重の批判が控えている。
[反証可能性は何処にあるのか] 『資本論』と『純粋理性批判』が重層的に一貫して対応することが文献上の諸事実の理論的分析で論証されているとき、その対応諸関係の個々の項目に、『純粋理性批判』以外の別の対応可能性(例えば、ヘーゲル)を対置しても、その対置は何ら反証にならない。これは一般的に自明なことであり、なにもマルクス=カント関係に限定されない。筆者は「啄木歌と秋瑾詩詞の関係」で、同じ指摘をしたことがある(内田弘『啄木と秋瑾』社会評論社、2010年、230頁以下を参照)。有意味に一貫して連結する対応諸関係の論証の前にして、批判者が対置する個々の事例が相互に連結せずバラバラな場合は、その批判は何やら意味不明な発語をしていることになる。非-通常的なこの言明は反証にはならない。反証可能性は、その対応諸関係に内在する批判だけに存在する。今回の場合は、『資本論』および『純粋理性批判』のテキストへの内在を前提諸条件にする、その対応諸関係の批判的追思惟のみが、反証可能性を開くのである。カントのいう認識可能性と同じように、反証は無制約ではない。制約諸条件のもとでのみ、反証は可能なのである。(以上)
[1] 『純粋理性批判』第2版(B版)からの引用頁は慣例に従い、(B114)のように記す。
[2] 『資本論』からの引用は、Das Kapital, Erster Band, Dietz Verlag Berlin 1962:『資本論』翻訳委員会訳『資本論』13分冊、新日本出版社、1982~89年から行い、その頁数は本文でのように略記する。
[3] 価値形態論におけるつぎの文を参照。「或る一つの商品、たとえばリンネルの価値はいまでは商品世界の無数の他の商品の要素で表現されている」(S.77:訳107)。「要素=集合」は『資本論』冒頭だけの問題ではない。
[4] 第三形態の相対的価値形態の最後についている「等々の商品」(S.79:訳111)はその価値表現の必須の条件ではなく、「その他は省略する」の意味である。第四形態では「等々の商品」はない(S.84:訳119)。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study676:20151123〕
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