映画『ワルシャワ蜂起』とルーズヴェルト主義
- 2015年 11月 23日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
ポーランド映画『ワルシャワ蜂起』を二度観た。去年7月ワルシャワで、今年新宿の映画館で開催された「ポーランド映画祭2015」で。
1944年8月1日、ロンドン亡命政府のポーランド国内軍は、ソ連軍の手によってではなく、自分達ポーランド人の手によって首都ワルシャワをドイツ軍から解放せんとして、蜂起した。ワルシャワを貫流するヴィスワ河に迫っていたソ連赤軍は、対岸のワルシャワ蜂起を見殺しにした。かくて、10月2日、国内軍はドイツ軍に降伏し、壊滅した。
同じ映画祭で上映されたアンジェイ・ワイダの『地下水道』も周知のようにワルシャワを舞台にしている。『地下水道』は劇映画であるが、『ワルシャワ蜂起』は蜂起当時の実写記録映画を編集したものである。はるかに生々しい。ところで、『地下水道』の日本語解説に、「西側のポーランド援護はイギリスのチャーチルによって推進されたが、スターリンの圧力のおかげでアメリカのルーズヴェルトはポーランドの援護を切り詰めた。」とある。この説明は、今日の常識であり、スターリンのイニシアチブにルーズヴェルトが従ったとする。スターリンの政治目的は良くわかる。それでは、ルーズヴェルトは何故にチャーチルではなく、スターリンに耳を傾けたのか。この疑問が残る。
2014年7月、ワルシャワの書店でヴィトルド・キェジュン著『転換の病理』(2013年、Poltext)を入手した。キェジュンは、欧州、北米の諸大学で講義し、国連のアフリカ・プロジェクト責任者をつとめて来た経営学者である。しかし、単なる学者ではない。ワルシャワ蜂起国内軍の将校であり、1944年8月23日にドイツ軍警察本部を占拠した時の若きキェジュンの軍装姿がほこらしく本書22ページにのっている。1968年の3月事件にも参加、1989年の体制転換時の下院議員。正真正銘のアンチコムニストであるが、同時にポーランドの体制転換戦略をきびしく弾劾し、それは西側大コンツェルンのポーランド工業競争力廃絶戦略であって、それを持ち込むアメリカ人サックスやそれを見抜けないポーランド人バルツェロヴィチ(ショック療法的体制転換の英雄として高く評価されている)を批判している
以下に『転換の病理』95-97ページにキェジュンが開陳するルーズヴェルト批判を紹介する。
20世紀は、脱植民地化と共産主義化の時代、すなわちイギリス植民地帝国の解体とソ連による社会主義化の時代ある。アメリカ大統領ルーズヴェルトにとって、世界の脱植民地化が長期グローバル戦略であり、彼のイデオロギー的強迫観念だ。こう見ると、第二次大戦中のルーズヴェルトによる不可解な親ソ政策・反ポ政策が理解できる。ルーズヴェルトは、スターリンをシンパシーを込めて、Uncle Joe「ジョーおじさん」と呼んだ。
かかる見方は、ニューヨークのFordham大学の学長、イエズス会神父James C.Finlayから1976年にキェジュンに語られた。James C.Finlayは、アメリカ・カトリック教会首席司教、アメリカの教皇と呼ばれたFrancis Spellmanから伝えられた。ルーズヴェルト没後25年間は世に知らせないと約束された情報が伝えられたのである。ルーズヴェルト思想、ルーズヴェルト主義と私=岩田が呼びたくなる情報。
大統領ルーズヴェルトは、心おだやかならぬ司教に、対独戦争における対ソ友好協力、Lend-Lease計画、赤軍への武器補給の諸理由を打ち明けた。ドイツ・ヒトラー体制の排除と並んで、時間的に遅れてしまったとは言え、1775年アメリカ反植民地革命の理想を実現する理念的論理的義務としてイギリス植民地主義を廃絶する行動において戦後ソ連と共同する見通しがある。ソ連の戦後民主化に関してスターリンの保証があり、ロシア正教会解禁プランの情報もあり、現在従軍僧の養成計画の情報もある。このようにルーズヴェルトは、首席司教に説明し、対独勝利後にソ連が大強国になる事に同意したと語った。
キェジュンによれば、かかる情報の正しさは、大戦中のルーズヴェルトによる多くの親ソ的決定によって実証されている。この情報がポーランドではあまり知られていない。しかし、ポーランドの敗北、東西冷戦、1960年代の世界的脱植民地化の諸源泉の一つであるが故に、今想起すべきである。
北アフリカにおいて連合軍がロンメル将軍のドイツ軍を撃破した後、チャーチルは、ギリシャを占領し、北上攻勢をかける構想を主張した。しかるにルーズヴェルトは断固反対した。チャーチルの構想は合理的だった。
キェジュンが積極的に参加していたワルシャワの地下大討論では、南からの連合軍攻勢の結果、自由が獲得できると確信していた。ギリシャではドイツ占領軍は弱く、民族解放戦線と人民解放軍が存在していた。ユーゴスラヴィアの大部分はチトーのパルチザン軍がおさえていた。ハンガリーでは民衆の対独憎悪が拡まっていた。スロヴァキアでも1944年反独人民蜂起が可能となっていた。そして、中欧のポーランドでは40万の地下国内軍が健在であった。勿論、これはソ連にとって不利な計画だった。すでに解放された中欧を戦後に獲得できないからだ。
ここで、私=岩田の感想を述べる。
ルーズヴェルトとスターリンの関係について、日本では、スターリンのスパイやエージェントがルーズヴェルト政権の要所要所に送り込まれており、それによってルーズヴェルトの対外政策がソ連寄りにされたという説が強いようだ。対日関係でいえば、ハルノートの素案を書いたアメリカ財務省高官ハリー・デクスター・ホワイトさえソ連のエージェントであって、日米戦争はソ連の仕掛けと語る人もいる。真相は、あるソ連のスパイが1941年5月にたった一回ワシントンでホワイトと昼食を共にし、対日関係の提言をしただけであった(真藤真志『ハルノートを書いた男』文春新書 平成11年、1999年)。
スターリンがソ連や国際共産主義革命のためにアメリカに色々工作し、アメリカを利用したとする諸論説とは異なって、キェジュンの見方とキェジュンが得た情報は、ルーズヴェルトがアメリカ革命の世界史的意義、すなわち世界の脱植民地化と民主化のためにスターリンさえ利用したと説く。21世紀の現在、世界各地の混乱と無秩序は、アメリカによる民主主義・自由主義革命の輸出の結果であるように見える。アメリカのNGO・NPOは、日本のそれらとは異なって、純なる人道支援団体ではなく、諸有色革命に見られる如く、「アメリカ党」とでも呼称すべき革命党の細胞でもあるようだ。チャーチルの大英帝国植民地をソ連の協力を得て弱体解体し、それに成功するや、ソ連の解体を冷戦という方略で実現する。ここまでは、ルーズヴェルト主義の成功物語かも知れない。しかしながら、21世紀今日のISの出現等の混沌は、トロツキー主義の世界革命論に細胞融合されたルーズヴェルト主義の責任かも知れない。
平成27年11月23日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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