VW-顛末考
- 2015年 11月 24日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
ばれるのは時間の問題でしかないだろうし、もしばれたら、とんでもないことになることぐらい分かっているはずなのに、経営トップがなぜ排ガス規制逃れをやったのか?どうにも説明がつかずに落ち着かない。
マスコミやご高名な評論家諸氏もインチキにかかわった当事者でもなし、調査や取材をしたところで分かったところまでが分かったまでで、本当のところはインチキをしてきたご本人(たち)しか知らないのではないかと思う。本当のところをご本人たちが事実として洗いざらい公表するとも思えない。
事実を確認する術もない一市井のもの、何を知っての話ではないが、見聞きしたことから「なぜ?」を想像してみた。と言ったところで、知ったことから自分の常識を頼りになぜ?を想像するだけのことでしかない。そんな想像でしかないが、まんざら意味のないことでもないだろう。
インチキをした理由(動機?)は、一つではなく、いくつもの重い軽い理由があって、それが相互に関係しあってのことではないかと思う。思いつく理由を考えていったら、特異なことは何もない、程度の差でしかないようにみえる。それは、どこにでもある、それこそ日常の多くの問題と根っこのところでは全く同じだったというありきたりの結論に、ちょっとした戸惑いがある。大きな見落としをしているかもしれないという不安もある。それでも自分の常識で考えれば、この程度のことだったとしか思えない。
日本でもアメリカでも、中国でもロシアでも、世界中で同じようなことが毎日のように起きている。フォルクスワーゲン社のインチキとの違いは、気がつかないか、気がつかないふりをしているか、気がつく能力がないだけだろう。あえてフォルクスワーゲン社の特異性はなにかと問えば、さすがにドイツらくし徹底してやった、度が過ぎたということだけとしか思えない。
ここまでくると、なぜ?と思って、説明できないのは、自省が足りないからなのかと恥ずかしくなる。ことのついでといっては語弊があるが、結末はこんなところかと想像もしてみた。
1)詭弁
ここまで勘定に入れなければならないとも思わないのだが、頭の隅に入れておいた方がいい。もし、詭弁にならずに、ちょっとした行き過ぎで、程度の問題でしかない、インチキにやましいところは何もないと言い出したら、他の理由などどうでもよくなってしまう。
フツーに考えれば常識の範疇を大きく超えすぎている。常識から判断しようとするとき、ついつい全ての人が共有する一つの常識があるように思ってしまう。常識でことが収まらないときになって、常識は人の数だけあるもので、それぞれの常識には似たような主要要素が共有されているに過ぎないことに気付く。
平和を掲げながらの戦争や防衛と言いながらの侵略が常態化している社会では、試験をパスすればいいじゃないか、それが試験というものだという考えがあってもおかしくない。ある意味では実に合理的な主張だろう。それを正当化する主張を詭弁と一蹴しえるのか。多少の不安がある。
試験というものは、ある規定の条件下で、規定の測定方法である特定の性能や特徴を測定することに過ぎない。それは、あらゆる環境下であらゆる性能をあらゆる方法で検査することではない。入学試験であろうが安全性の試験であろうが、試験であるかぎり、この試験の本質的な限界からは逃れられない。その視点でみれば、フォルクスワーゲン社は排出基準「検査」に最適合しようとしたと言えないこともない。
巷に漏れ聞こえてくる燃費の試験は、車体の空気抵抗を最低減にする処置に始まって、エンジンオイルからタイヤの選択や調整。。。最もよい数字を打ち出す状態での試験に過ぎない。最適な試験検体を用意するという-故意の操作ということでは今回の不正と本質的には何も変わらない。違いは程度の差にすぎない。それでも度が過ぎれば、課された試験に最適な試験体を提供しただけだと主張するのは難しい。
ところがその主張が間違っているとは思わない常識もあるかもしれない。ただ、思わないという主張を多くの人たちは詭弁と呼ぶだろうが。
2)社会背景
西欧の国々、日本人が思っているほど民主的でもなければ、情報公開が進んでいるわけでもない。フランスなど中央集権の極みで、どこも絵に描いたような階層社会と思った方がいい。新旧含めた王侯貴族(富裕層)に、その王侯貴族に奉仕しすることで存在価値のある中間社会層(テクノクラートやカードル層)、身分保障のある労働者、身分保障のない労働者、失業者に移民。。。それは、ある特定の社会層、たとえそれが複数だったとしても、のために社会がある社会でしかない。
特定の社会層とは何か?それは現時点における既得権益層のことで、それを伝統的な富裕層=資本家と考えると見間違う。確かに富裕層に違いはないが、それが資本主義だからというわけではない。それは、いつの時代にもどこにもあったし、今でもあり続けている。共産主義国家だったソ連にもあったし、崩壊してロシアになっても、その周辺国にもエリート層や支配階級-ノーメンクラトゥーラがある。ノーメンクラトゥーラは既得権益層に他ならない。
企業経営が一般大衆のためにある訳ではない。社会民主主義の装いものと、社会に調和した企業の姿に見えるが、慈善事業でもあるまいし(あったとしても?)、誰も利益のでない事業に投資はしない。社会との調和は、既得権益層の利益を今まで通りか、それ以上に保障することによって成り立つもので、非既得権益層を重視した経営など、既得権益層外からの何らかの圧力でも働かなければ、ありえようがない。
フォルクスワーゲンの経営目的は一般大衆の利益でもそこで働く労働者のためでもない。そんなものは付帯にすぎない。会社の所有者と経営者層というエリート集団の利益のために経営がある。そこには大衆の目が届かなければ-限られた、あるいはある特定の集団に都合のいい情報公開のもとでは、問題や不正があっても、ばれない限り、あるいはばれても合法的に言いくるめられるのであれば、ないのと同じことという考えが生まれる。
2)個人と集団の思いあがり
批判を受けない立場になると、なんでも自分の思うようになると思ってしまう。個人としては自制の念のある人がいても、集団の思い上がりは抑制できない。本来営利団体ではないFIFA(国際サッカー連盟)の腐敗、その腐敗を作り、采配したブラッターと取り巻きはそのいい例だし、国際オリンピック委員会が例外とも思えない。
社会の目にさらされ易い、多少なりとも公の顔をした非営利団体をして思い上がりを避けられなければ、営利団体である「私」企業において、思い上がりのない方が珍しいだろう。今も昔も変わらない、どこにでもある。健全な批判がなければ組織も人も堕落する。人は思いあがりを抑制する手段を持ち得ないのかもしれない。
3)プレッシャーと集団心理
絶対権力を握っていても株主や社会からの業績評価から完全に自由なわけではない。強い権力者として振舞おうとすればするほど、弱みを見せるのが難しい。外面的に見える成果を上げ続ける必要に迫られる。CEOは利益率を軽視してでも売上げと生産台数を誇示することで絶対権力の正当性を証明し続ける必要があった。順当な想像だろう。
似たようなことは日本の原子力発電にも見える。余程のバカでもなければ原発が安全などと誰も思っちゃいない。でも、原発がなければ活きられない、立場のない人たちは、安全性について疑問を発しようとはしないし、できない。個人ではヤバイと思っても、集団になると誰もヤバイとは言い出せない。その人たちには、なんのしがらみもなく原発反対を言える人たちが羨ましく見えるかもしれない。
今問題を解決できないのがはっきりしてしまえば、業績を上げられないと判断されれば、「即」立場を失う。インチキしてでも格好だけも辻褄を合わせられれば、当面は立場を保ち続けられるし、上手くゆけば任期満了まで、さらにもっと先までごまかし続けられるかもしれない。二択のどっちを選ぶ人が多いか?訊くまでもない。
4)結末
高度成長期頃までは「企業は社会の公器である」がかたちながらにしても日本の良識だった。今では極端に振れて、新自由主義の旗印のもと「企業は株主のものである」が正論のように言われている。地域共同体意識の強いドイツでは、今でも(大)企業は「社会の公器」が一般的な感情だろう。州政府もフォルクスワーゲン社の株主だというだけではない。業績が低迷して大量解雇にでもなれば、フォルクスワーゲン社の問題に留まらず(州)政府の問題になる。
Webで高名な評論家諸氏の発言を見ていったら、今回のリコールには一台当たり千ドルくらいの費用がかかると書かれていた。千ドルかけて本当に機能や性能、燃費や加速性が今まで通りかわからないが、変わらないとすれば、あとはコストの問題だけになる。為替の計算を簡単にするために一ドル=百円とすれば、千ドルは十万円。仮にVW車が二百万円で利益率二パーセントとすると利益は四万円。十万円かけて今回のリコールをしたとして、次に売る車の製造コストはどのくらい上がるのか?現状でも二パーセントの利益率しかなのに、上がったコストを吸収して市場での価格競争力を維持できるのか?フォルクスワーゲンの神話?が崩壊して、不審の目にさらされて市場で戦えるのか?
フォルクスワーゲン社、一民間企業として成り立たないところまで行きかねないのではないか?もしそうなったら、何が起きるか?大きすぎて潰せないということで、公的資金による救済以外に方法はないだろう。救済したとして、そのような企業を税金でいつまで支援し続けるのか?支援どころか行政の一部として経営しなければならないことになりかねない。
ドイツ発の「新自由主義」の教義への反旗が起きるかもしれない。ただ、その反旗、公平な競争を阻害する。公平な社会を掲げながらも、いざとなれば背に腹は代えられないと自分たちための「公平」-違う常識を主張しだすのか?
一民間企業のインチキの後始末に、まさか行政がインチキ(不公平)?そんな解決ありなのか?少なくとも日本の良識ある人たちの常識に照らし合わせれば、そりゃないだろうとしか思えない。
フォルクスワーゲン社(とドイツ社会)がどのような解決案を持ち出してくるのか?全く違う常識が、それも詭弁ともつかないものが出てくるかもしれない。楽しみだ。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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