TPP謀略前夜戦史『超高齢化狂人国家たらしめた資本主義の顛末。打倒!安倍政治を生涯絶対許さない!夏参議院選挙の陣に備えて』(日本革命への衝撃 その2)
- 2015年 12月 11日
- 交流の広場
- 武田明
怒りの声を上げ続けよ。
もはや、まともな主張を展開しているのは、ちきゅう座、阿修羅掲示板、植草一秀ブログばかりとなっている。
それへ、続くものはいないのか?
報道ステーションとニュース23は、揺らいでいるが、まだ良心の残留が感じられてもいるのだが‥。
当方の主張としては、
①ゲバラに習うべき医療的革命戦争は、既に、開始されている。
②超高齢化狂人ゾンビー化国家は、避けられたのであるが、資本主義とは国民の無知化に基づく社会である故に、見殺し使い殺しされてきたのである。
③安倍政治は、万死に値する。平安地獄化を許すな。
序
小さい頃、「人は、一人で閉じ込められると気が狂ってしまうんだよ」と何故か唐突に教えられた。鮮烈でもあったので今でも思い起こす。
人間は、社会的動物だ。一人では生きられないと言う事を伝えようとしたのかも知れない。
または、悪い事をすると独房に入れられるから、してはいけないよの意味であったのかも知れない。
昭和の時代は、犯罪が横行していたのでむしろ後者の意味であった様にも回想される。
牢獄や刑罰はそれ程、怖いものであるから正しく生きなくてはならないと言うのが、子供に言い聞かせたかった最初の教育だったのだろう。
しかし、資本主義詐称収奪社会は、老人たちを無知という独房へと閉じ込める結果となった。
その結末が、大量認知症社会という社会的病理である。
その超高齢化の闇は、国家の恥として、昭和年間は、封印されて情報的には廃棄されてきたものであるのかも知れない。
しかし、いよいよ平成年間も四半世紀越えとなり隠し通せるものでもなく、壊滅的段階となり連日、その情報が、介護疲れ自殺事件として、高速道路逆走事件、行方不明者事件として報道せざる負えない段階に来ていると言う顛末である。
これは、長寿社会となり初めて生じた問題点ではないと考えている。
資本主義のゴミ商品を売るには、国民の無知を基調とする、教育さえ階級商品化を進めた上で、老人たちや国民弱者を生贄的にカルト宗教、オレオレ詐欺へと進んで差し出したる社会を作った商品制資本主義の国民的結果であり、無知化から狂人地獄社会へと平安地獄時代を再現したる政府へと糾弾すべき問題であり、とてもではないが、社会保障問題として、血税問題へとすり替えられない、国家的収奪システムとしての金融資本主義そのものの構造であると広く、理解されるべきであるということである。
財政赤字と金融の関係を別紙展開を必要としているだろう。
ロシアのプーチン大統領ではないが、「なんて事をしてくれたんだ」と叫びたい。
若者はブラックバイトと非正規労働にて使い捨て、そして、老人は、カルト宗教地獄、オレオレ詐欺地獄へと差し出されたる社会的本質が、そのまま資本主義的詐称収奪社会そのものであると言う告発を必要としているのだ。
アメリカは、更に、不安を煽る銃社会武器利権そのものによって、見向きもされない超資本主義、軍需利権国家そのもの。
ロシア、中国の途上国的模索の方が、まだ、救いがある。
東京都杉並区にあっても生活出来ないお年寄りが、区役所に自殺しますと連絡をした後に、新幹線にて告発的焼身自殺を遂げた事件は、まだ記憶に新しいものであるだろう。
これらの問題の根本的問題点は、どこにあるのだろうか?
黒澤明監督が、『生きる』にて描いた官僚支配の機械主義的隠蔽体質、実践性も改革意識もないサラリーマン化する池上彰氏が、「世界を変えた本、資本論」で述べている弊害そのものであり、ソビエト連邦におけるサラリーマン化する労働者=官僚組織と言う事である。
政治家、官僚組織、指導者に求められるものは、創造的人間性指導そのものであり、さらに、怠惰となった権力、腐敗を戒める意味で、第四権力巨大メディア、ジャーナリズムの場が存在する、その構造が、民主主義であり、生涯教育体制としての社会に他ならないのであるが、そのものと離反してく構造こそが、『金融資本主義』である事が、繰り返し、訴えられてきたと言うのが、20世紀の歴史的な段階であり、こちらは、「歴史的総論」としての問題意識となっているが、更に、具体的なる日本的資本主義の具体的なる各論へと迫っていかねばならない時ではないだろうか?
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医療知識が、キューバの様に、国民に解放されてている社会であるなら避けられた危機であったと言うのが、これまで繰り返してきた主張の根幹にあるのであるが、
資本主義社会とは、国民の無知、労働者の無知に基づく社会である故に、《知の共産化》を敵対視している独占、占有から商品化としての囲い込みを基本としている事を更に、広報していかねばならないだろう。
しかし、辿り着く結論から開始するのは、帰納法的手法であり、高みから低みへと言う構造を持つのであるから一般的ではないだろう。
時間的制約もあり、結論と論旨をわかりやすくもしたのであるが、織り混ぜつつ、原初より、繰り返し、誰からも理解の届くものとして行きたい欲求は、あるのだ。
これは、個人的なものであるのか?
共同主観的テキスト化されるものであるのか?
それが、常に、カント哲学以来の問題意識であり、マルクスと言うテキスト化広報と宣言の手法は、哲学的唯物論の地平、更には、科学的社会主義と言う共同性としての場を展開するに至っているので、それを、日本的個人である僕としても歴史的継承を持って、合流するあり方を明確にしながら未来としてのそして、「現実」としての
序にて、書き出したる社会病理としての人間破壊行為としての認知症化する社会のあり方に、再び、ベトナム戦争時代を戦ったヤング ブラックジャック的回想を持って、現代、平成年間にメスを入れていきたい。
平安地獄年間の再来に対しての宣戦布告を!
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TPP、堤未果氏から学ばれるものの展開を加味して。
次回に続く。
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