スピノザ民主制論とマルクス価値形態論 ― マルクスの『神学・政治論』研究の理論射程 ―
- 2016年 1月 15日
- スタディルーム
- スピノザマルクス価値形態論内田弘
マルクスは1841年の学位論文「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」執筆のころ、スピノザの『神学・政治論』(1670年、アムステルダム)の再版本(1802~03年、イエナに所収)を読み、『神学・政治論』を自然哲学的な観点から批判的に再編成したノートを作成した。その詳細な内容については拙稿「スピノザの大衆像とマルクス」を参照されたい。[1] 今回のこの論文は、[1]『神学・政治論』におけるスピノザの民主制論とマルクスの価値形態論との論理的同型性を確認し、[2] 無限集合概念で価値諸形態が連鎖することを解明する。
[1] スピノザの大衆と民主制の生成
[『神学・政治論』の大衆像] スピノザは『神学・政治論』で、人間の本性に最も適合的な政治制度は民主制であることを論証する。しかし他方で、人間の大多数を占める大衆については厳しい見方をいだく。最も自由な政体は民主制であるといいながら、その実現者、その担い手である大衆は、迷信に惑わされやすく、自然的光明を導きの糸として理性を磨くことによって洞察できる民主制の適合性が分からないという。
スピノザは『神学・政治論』の緒論でつぎのように言明する。「大衆は迷信に囚われ、また旧時代の遺物を永遠そのもの以上に愛する」(上52)・「大衆から迷信を取り去ることは恐怖を取り去ることと同じように不可能である」(上55‐56)・「大衆はものごとを賞賛したり批難したりするのに理性ではなく衝動によっておこなうものである」・「大衆を強く支配するには迷信がもっともよい」(上43)。[2] したがって、哲学的にものを考える少数の読者、知的エリート以外の、大衆という「残りの者」にはこの本[『神学・政治論』]を勧めようとは思わない」(上55‐56)と断じる。せっかく論証した民主制の実現者と担い手を欠いたまま、『神学・政治論』を閉じているといっていい。『神学・政治論』のスピノザのアポリアである。
[ソクラテスと大衆] スピノザのこのような大衆像は内外のスピノザ研究者の注目を集めてきた。マルクスもスピノザの大衆像に未決問題をみているのである。マルクスは学位論文で、実践の世界の担い手(大衆)と知的的世界の担い手との分裂を、「大衆とソクラテス」の分裂で代表=表象させた。マルクスはこの分裂問題をスピノザにも見ていたのである。マルクスのスピノザ『神学・政治論』研究の目的は民主制の問題にあった。しかし、民主制の実現者・担い手が可能的に民衆であるにしても、彼らが如何にして民主制の担い手になるのかは自明ではなく、解明すべき課題である。この課題を確認するように、のちの『経済学批判要綱』「貨幣章」で、「貨幣諸関係、即ち発展した交換制度の仮象は民主主義を誤った方向に導く」と指摘する(MEGA,II/1.1,S.96)。[3]
[自由・平等・所有] マルクスはこの問題を短期的に政治的な課題だけに限定していない。民主制の問題は政治の領域だけで把握できるのか、政治を条件づけている経済の領域で民主制の問題は一層深く規定されていないか。
フランス第一次市民革命の「人権宣言」のスローガンは「自由・平等・所有」である。しばしば誤解されているように、「人権宣言」のスローガンは「自由・平等・友愛」ではない。「自由・平等・友愛」は1848年の二月革命後のフランス第二共和国憲法の前書が公式の初出である。「自由・平等・所有」こそ、フランス資本主義原蓄国家の歴史的使命の表明である。経済の世界でも、形式的に自由で平等な所有の経済制度が貨幣関係として実現し運動する。では、貨幣は、自由・平等をそのまま維持発展するのか、それともその反対の不自由・不平等に転回するのか。その問題は、まず貨幣生成の論証問題であり、さらに資本蓄積論で領有法則転回論として論証される。
民主制の政治哲学的な論証はスピノザが行った。マルクスはホッブズやロックではなくて、まずスピノザからその論証を学んだ。さらに、スピノザのつぎにみるような共和制民主主義の論証に対応する論証を、マルクスは経済の世界で貨幣の発生史でおこなう。
[一者への結合]『神学・政治論』におけるスピノザの民主制生成の論証は基本的につぎにみるとおりである。すなわち、人間が能力の及ぶかぎり行為することが許されるという「自然権」を各人が行使すると、どうなるか。その結果、憎しみ・怒り・びくびくした生活に陥る。したがって、各人はそのような事態をできるだけ避けようとする。「理性の命令」(下168)にしたがって、人間は行動する。マルクスはつぎの文に注目し抜粋する(MEGA,IV/1,S.240)。
「人間は、安全にかつ立派に生活するために、必然的に一者に(necessario in unum)結合しなければならなかった。しかもその結合によって人間たちは、各人が万物にたいして自然から与えられた権利を共同して所有する(collectives habeo)ようになった。またその権利がもはや各人の能力と欲望によってではなく、万人の力と意志によって決定されるようになったのである」(下168、ボールド体は引用者)。
スピノザは、万人のそれぞれの力=自然権を《一者》に結合したという。このスピノザの言明は、『資本論』交換過程論におけるヨハネ黙示論からの引用「この者どもは心を《一つ》にした。・・…この刻印のある物でなければ、誰も物を買うことができないようになった」(Das Kapital, Erster Band, Dietz Verlag Berlin 1962, S.101)を想起させる。マルクスは、このことに関連する、つぎの文を全文抜粋する(ibid.:S.240)。
「各人が有するすべての力を社会に(in societatem)委譲すればよいのである。こうした社会のみが万事に対する最高の統治権を保持し、各人はこれに対して自由意志によって、あるいは重罰への恐れによって従うべく拘束されることになる。このような社会の利害関係を民主制(Democratia)と名づける。それゆえ、民主制とは、行いうる一切の事柄に対して最高の権利を共同して(collegiartur)もつ人間の総合的結合(coetus universes hominum)であると定義される」(下173)。
こうして創られた制度をスピノザは「民主制」と命名する。マルクスはつぎの【 】内の文章も抜粋する(MEGA,IV/1:241)。
「わたしがこの政治形態[民主制]をあらゆる政治形態に優先して論じた理由は、この政治形態が【わたしのみるところ、最も自然であり、また自然が各人に許容する自由に最も近いからである】。実際、この政治形態にあっては、誰もが自己の自然権を他人に委譲したままで、それ以後自分はなんの相談にもあずからないようになるのではなく、むしろ各人は自分自身が全社会の一部であるけれども、その全社会の多数者に(in majorem totius Societatis)自然権を委譲するのである」(下177)。
スピノザにとって民主制とは、各人がもつ力=自然権を共同して《一つ》の力、「人間の総合的結合」に結集した制度である。ではマルクスは、民主制が人間の本性にとって最も自然な政治形態であるというスピノザの見解を基本的に承認していたのであろうか。
学位論文の主題が「神および貨幣に対する批判」であったこと [4] を考慮すると、その二重批判の観点を確証することに『神学・政治論』ノートの目的があったと判断される。本源的蓄積が完了した後に勤労者も参政権をもつようになる「第二次市民革命」(自由・平等・友愛)以後の民主制と「自由な賃労働者」を基礎におく資本主義的商品世界とは基本的に同じ原理によって構成されているのではないか。これがマルクスの問題意識である。それを論証したのが、後年の『経済学批判要綱』以後の貨幣生成論、とりわけ、価値形態=交換過程論である。その延長上に相対的剰余価値論がある。
[民主制と貨幣制度の同型性] 注目すべきことに、マルクスの貨幣の発生史の論証の仕方はスピノザの論法と同じである。各人が生存するために自然権を共同の《一つ》の力に委譲し、それを体現する代表者・《一者》を選ぶというスピノザ的過程と、多種多様な商品の世界から代表・《貨幣》が生まれてくるマルクス的過程とは、アナロガスである。
貨幣の論理学的生成の核心は、商品所持者の間の商品の価値表現をめぐる対抗関係=第二形態から、第三形態の一般的等価形態=《一者》が何故に如何に生まれて来るのかという問題にある。第2形態とは、或る商品Aの価値が他のすべての商品(B、C…など)の使用価値で表現される形態である。それぞれの商品所持者は自分の商品の価値表現を優先させようと競いあう。そのさい商品世界の各々の商品[5](商品所持者ではない)が知るのは、個々の商品交換関係で取引相手についてのミクロ的個別的情報のみである。商品の間には第三形態への移行上の優劣順序は存在せず無差別で同格なので、第三形態への移行は一挙同時である。商品世界にn種類の商品種類があるとすると、n個の第2形態が発生する。マルクスはこの競争関係を次のようにとらえる。
「これらの諸形態は、もし商品Aが一方の形態規定[相対的価値形態]にあれば、[他のすべての]商品B,Cなどは商品Aに対立して他方の形態規定[等価形態]をとるというように、ただ対立的に(gegensätzlich)のみ、いずれの商品にも属している」(MEGA,IV/5,S.80;『資本論』第1部、初版:77、[]は引用者補足)。
ここでマルクスが分析している《1者・対・多者[n-1]》という関係は、先の「『神学・政治論』抜粋ノート」からの引用にあるように、スピノザ民主制論における代表選出法と同型である。スピノザは、実践の世界では「各人」(1)は「多数の残りの者たち」(n-1)に従属するように契約しているので、そこでは全員同意というフィクションは現実になるという。商品関係でも、各々の商品は自立的主体であるから、《1・対・[n-1])》という関係に存立する。その関係から一般的等価形態=貨幣が生成する。では、如何なるメカニズムがその生成を媒介するのであろうか。
民主制の場合、各人は、全体(n人)の代表者になる可能性をもつ者として、自己(1)を除く全ての者(n-1)に相対する。全体でn人が存在するから、各人の《1:[n-1]》の対立関係はnだけ存在し、全体では《n(1:[n-1])》だけ存在する。では、この対立関係は何に帰着するのであろうか。スピノザは結局、各人は力=権利を共同の力(民主制)に結集し、全体を体現=代表する《一者》を統治者として選出するほかない。こうして彼らは《一者》になる、一つの共和制を制定する。
貨幣生成の論証問題は,スピノザの民主制的共和制と同型である。貨幣制度の場合も、《1・対・[n-1]》の対立の構図は《一つ》に、一つの独自な商品種類=貨幣商品に代表される。それぞれの商品は商品世界で相互依存する存在であり、諸商品は意図しないで貨幣を生成させる。
諸商品は自己の利害を最優先する私的存在である《自立性》をもつ。同時に、諸商品は相互に依存しあう《共同性》をもつ。諸商品は「自立性と共同性との二重性格」・「非対称的な対称性」をもつ。私的存在として、それらは自己の利害に合致するかぎり《共同行動》をとる。潜在的には相互に対立しながら、利害が一致するかぎり共同する。
マルクス自身は『資本論』交換過程論で、貨幣の実践的生成に関する核心問題に、「商品の本性(Warennatur)の諸法則は、商品所持者たちの自然本能(Naturinstinkt)において確認された」(ibid. S.101)とだけ指摘する。この言明だけでは、商品所持者はなぜ・いかにして貨幣を生成するにいたるのかは分からない。彼らは無我夢中で貨幣を生み出すにすぎないようにみえる。その生成過程を『資本論』の基礎概念に依拠して、つぎのように論証する。
[2] 対立関係《1:[n-1]》と価値形態の相互反転可能性
拙稿「マルクスの《モナド》概念批判と価値形態 ― 『資本論』に潜むライプニッツはラッセルに連結する ―」(「ちきゅう座」「スタディルーム」)でみたように、マルクスは価値形態を無限集合概念で把握する。それを明示すると次のようになる。
[ア] 価値形態の第一形態は、或る商品(相対的価値形態)の価値をその他の一つの(有限の)商品(等価形態)の使用価値で表現する。第一形態は即自的には無限集合ではない。しかし、相対的価値形態の価値は、交換関係を結ぶ諸商品の使用価値の相違を捨象する「無限遠点(infinite point)」に存立する無限態であるから、それを表現する等価形態をより多く無限に拡大する潜勢力をもつ。第一形態は、対自的には、無限集合である第二形態へ無限に接近する極限形態である。
[イ] 第二形態は、或る商品(相対的価値形態)の価値を、それ自身を除くその他の全ての商品(n-1=等価形態)の使用価値で表現する。第二形態は第一形態の対自的極限形態がその極点を超えた形態である。第二形態は第一形態の集合である。第一形態が単なる偶然の価値形態であるのに対して、第二形態は等価形態が「価値表現の無限の系列(verschiedne endlose Reihe von Wertausdrüken)」(ibid. S.78. ボールド体は引用者)をなす集合であるので、第二形態は無限集合である。しかも、第二形態は第三形態に無限に接近する極限形態である。[6] 第二形態は、相対的価値形態としての自己を要素(E)として含まない、等価形態の無限集合(S)である。即ち、E∉S.
[ウ] 『資本論』初版のいう第四形態は、無限に多くの商品種類の第二形態を要素とする集合であるから、無限集合である。E[E∉S]∈S. すなわち、第四形態は、つぎのような無限集合である。
【《自己を要素として含まない無限集合[第二形態ES]》を要素として含む無限集合(E[ES]∈S)】
[エ] 代議制民主主義の代表選出様式と同じように、第三形態は、第二形態の無限の連鎖[第四形態(無限集合)]が、そのうちの或る個別商品(有限態)を除き、相対的価値形態に反転し、その個別商品が一般的等価形態・「一者」になる価値形態である。個別商品は相対的価値形態の価値を自己の使用価値(自然物質・金)に鏡映する価値鏡(Wertspiegel)である。即ち、E[E∈S]. 第三形態は、
【《自己を要素として含む無限集合[第四形態E∈S]》を要素として含まない無限集合E[E∈S]∉S】
である(以上の説明について、別掲図「無限集合としての価値形態」を参照)。第四形態および第三形態における要素と集合は、つぎのように反転する。
第四形態:E[E∉S]∈S
第三形態:E[E∈S]∉S
第四形態と第三形態では、記号「含む(∈)」と記号「含まない(∉)」とが、対称的に入れ替わる。
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[集合・要素としての二面的存在] 上記のうち、第一形態は第二形態に含まれるから、第二形態・第四形態・第三形態の「含まない(∉)・含む(∈)」の関連を要素Eと集合Sの記号で記すと、つぎのようになる。
E2∉S2・E4∈S4・E3∉S4
上記の式を左から説明すると、こうである。要素E2は集合S2には含まれない(E2∉S2)。その集合S2は要素E4でもある二面的存在である(S2・E4)。その要素E4は集合S4に含まれる(E4∈S4)。その集合S4は要素E3でもある二面的存在である(S4・E3)。その要素E3は集合S3には含まれない(E3∉S4)。
[第四形態の両義性] そこで、二面性をもつ集合・要素(S2・E4;S4・E3)に媒介される、第二形態・第四形態・第三形態の関連が如何なる存在特性をもつか、如何に関連し合うかを検証する。その検証のため、第四形態と第三形態が、
M=「自己を要素として含む集合[E∈S]」なのか、
nM=「自己を要素として含まない集合[E∉S]」なのか、
いいかえれば、第四形態と第三形態に「ラッセルのパラドックス」が貫徹するかどうかを検討する。
[a] まず第四形態をみよう。第四形態の集合の形態はつぎのように規定できる。
【《自己を要素として含まない無限集合[第二形態E∉S]》=自己を要素として含む無限集合(E4[E ∉S2]∈S4)】
もし第四形態がM「自己を要素として含む集合[E∈S]」であるなら、その包含関係は、第四形態の
要素E4が集合S4に含まれる関係(E4∈S4)である。その要素E4は集合S2でもある二面的存在(E4・S2)である。ところが、集合S2は要素E2を含まない集合(E2∉S2)nMである。つまり、第四形態をMであると仮定すると、そのMはnMに反転する。これは矛盾である。この矛盾は二面的存在(E4・S2)が、いいかえればカントが『純粋理性批判』でいう「下向する系列(die absteigende Reihe)」(B388)が媒介する。
[b] 逆に、もし第四形態がnM「自己を要素として含まない集合[E∉S]」であるなら、その集合は第二形態(E2 ∉S2)に他ならない。集合S2は第四形態の要素E4でもある二面的存在(S2・E4)である。要素E4は集合S4に包含される(E4∈S4)。即ち、nM集合である第二形態はM集合である第四形態に含まれる。第四形態をnMであると仮定すると、そのnMはMに反転する。これも矛盾である。この矛盾も[a]とは順逆の二面的存在(S2・E4)が、いいかればカントのいう「上向する系列(die aufsteigende Reihe)」(B388)が、媒介する。
[a]と[b]ではともに、順序が逆の二面的存在(E4・S2;S2・E4)が媒介するから、帰結が反対になる。カントのいう「媒辞概念の誤謬(sophisma figurae dictionis)」(A402:B411)がここに貫徹する。第四形態は二重に両義的である。第四形態であると仮定すると第二形態に反転し、第二形態であると仮定すると第四形態に反転する。この両義性は、単純商品の両義性、即ち「含まない=非対称性=使用価値」と「含む=対称性=価値」の両義性、商品の「非対称的対称性」の展開形態である。「ラッセルのパラドックス」は第四形態で成立する。
[第三形態の両義性] 第三形態の集合の形態はつぎのようである。
【《自己を要素として含む無限集合[第四形態E∈S]》=自己を要素として含まない無限集合E3[E4∈S4]∉S3】
[c] もし第三形態がM「自己を要素として含む集合」であると仮定すると、その集合は第四形態(E4∈S4)に他ならない。集合S4は要素E3でもある二面的存在(S4・E3)であるから、集合S3は要素E3を含まない集合nM(E3∉S3)である。第三形態をMと仮定すると、それはnMに反転する。これは矛盾である。この矛盾は二面的存在(S4・E3)の前進し「上向する系列」が媒介する。
[d] もし第三形態をnM「自己を要素として含まない集合」であると仮定すると、要素E3はS4でもある二面的存在(E3・S4)であるから、集合S4はM「自己を要素として含む集合」である(E4∈S4)。第三形態をnMと仮定すると、それはM(第四形態)に反転する。これも矛盾である。この矛盾は、二面的存在(E3・S4)の「下向する系列」が媒介する。第三形態でも「ラッセルのパラドックス」は成立する。
[c]と[d]でも、順序が逆の二面的存在(S4・E3;E3・S4)に媒介されているから、反対の帰結になる。カントのいう「媒辞概念の虚偽」がここでも貫徹する。もし第四形態と仮定すれば、それは第三形態に反転し、逆にもし第三形態と仮定すれば、それは第四形態に反転する。価値形態論の論争史上注目すべき点は、まさにこの「無限集合としての価値形態の逆関連可能性」にある。
[a]と[b]、[c]と[d]の間の逆関連可能性は、「《自己》の二重の主客反転」に根拠づけられている。[1]対象・要素としての自己を《含まない・含む》主体・集合としての自己は、[2] (順逆の)《含む・含まない》の対象・要素としての自己に転化し、かつその自己を「対象・要素とする主体」・「集合としての自己」でもある。即ち、【《要素・客体→集合・主体》=要素・客体→集合・主体】。この「自己の客-主の二重の逆関連」こそ、「ラッセルのパラドックス」を発生させる根拠である。価値形態は、この非対称的対称性に媒介され、存立する。[7]
[逆関連可能態としての価値形態の連鎖] 以上の[a][b][c][d]の検証で、価値形態論にとってあきらかになったことは、つぎのことである。
第二形態と第四形態との間には相互反転可能性が存在する。もし第二形態と仮定すれば、その仮定は第四形態に反転し、もし第四形態と仮定すれば、その仮定は第三形態に反転する。さらに、第二形態は第一形態の束であるから、第一形態は第二形態に包摂され、第二形態は第一形態に分解する。
つぎに、第四形態と第三形態も、相互に反転する両義的な形態=関係にある。第三形態を仮定すると、それは第四形態に反転し、第四形態を仮定すると、それは第三形態に反転する。マルクスが第三形態末尾で「第二形態は第三形態という逆の関連を含む」(ibid.S.79)と言明したとき、この第二形態(の連鎖としての第四形態)と第三形態との相互反転可能性を念頭においていたと判断される。
つまり、価値形態は、
《第一形態⇔第二形態⇔第四形態⇔第三形態》
E1S1・E2∉S2・E4∈S4・E3∉S3
という逆関連可能態の連鎖なのである。その連鎖を前提に、価値という無限態の自己展開をあとづけるために、論理学的に発生史的な「上向する系列」(B388)をたどるのが価値形態論である。問題の「第二形態(の集合としての第四形態)から第三形態への移行」の論証で、マルクスの念頭に存在したのは、第二形態(の集合としての第四形態)から第三形態への相互反転可能性である。その可能性を現実に実現するためには、現実の特殊な諸条件を媒介するから、その実現は実践的な場である交換過程論で論じられる。理論場と実践場のマルクスによる区別と関連は、カントの『純粋理性批判』を継承するものである。[8] 以上のような意味で、価値形態は無限集合概念でこそ、理解可能なのである。(以上)
[1] 注1の拙稿を参照。
[2] スピノザ『神学・政治論』の引用では、その原典は、Carl Gebhardt編のSpinoza Operaにより、日本語訳は畠中尚志訳『神学・政治論』岩波文庫、上下、1944年による。
[3] むろん、スピノザや学位論文のころのマルクスが抱いた大衆像は、現代日本に無条件に妥当するものではない。
[4] 内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」『専修経済学論集』2012年3月、通巻111号参照。
[5] 価値形態論の主語は「商品」という「物象(Sache)」であって「商品所持者」ではない。商品所持者という「人格(Person)」が登場するのは交換過程論以後である。
[6] 商品販売の結果である貨幣(W―G)は、続く購買の出発点(G―W)でもありうる。終点は始点の可能態である。無限遠点に存立する有限態は、相互転化の二面性をもつ可能態である。『純粋理性批判』(BXIX)の同一対象に対する複眼的視座を継承して、『資本論』の経済学のカテゴリーは現実存在を「二面的存在」として規定する。注8の拙稿を参照。
[7] 商品の「非対称的対称性」に根拠づけられた価値形態の逆関連可能態は2次元曲面「クラインの面(壺)」をなす。内田弘『《資本論》のシンメトリー』を参照。「自己意識-意識-対象」も同じ構造である。「意識」は「対象かつ主体」である。つぎの注8の論文を参照。
[8] 内田弘「『資本論』と『純粋理性批判』」『(専修大学)社会科学年報』2016年3月を参照。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study696:160115〕
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