抜き書き典籍紹介・「暴」引断簡零墨(1-2)
- 2016年 1月 31日
- カルチャー
- 山川哲
『歴史のための弁明―歴史家の仕事―』マルク・ブロック著 讃井鉄男訳(岩波書店1965)
歴史家の仕事とはどんなことであろうか?ふとこういう疑問が浮かんでくることがある。一般的に考えるなら、それは発掘調査されたもの(原資料=過去の遺物、遺跡)や、古文書(これもある意味では、同じく過去の遺物である)に対して、いかなる先入見や主観的な偏見などをも加えることなく、忠実にそれらを精査解読すること、このことに尽きるように思われる。このことは換言すれば、対象の「客観」を正確に模写することこそが歴史家の仕事である、ということになる。しかし本当にそうなのか?対象の正確な模写は可能か、と言い換えてもいい。
簡略化するために、ここでは遺跡も古文書の類もすべてひっくるめて「原資料」と呼ぶことにする。確かにそれらは当該の歴史家にとっては目の前に「客観的に存在」しているものである。だが、同時にそれらは今、「主観的にも在る」のである。なぜなら、その「原資料」がその人にとっての研究対象として現前する限りにおいて、その原資料は、「彼の対象」に他ならないからであり、その「原資料」の中に歴史家が、何らかの意味を見出すということは、その時点で、彼はこの原資料をただ眺めているだけではなく、いかようにか「解釈」しているのであるが、この「解釈=意味づけ」には、当然のことながら彼の「主観」や、これまでの研究成果(学問的経験・知識)などが、一種の先入見として前提されていることを意味する。第一、「模写」に主観が入っていないとは誰も言いえない。
一見簡単明瞭に思える事柄も、実際に考察すればヤヌスコップ(Januskopf)であることがわかる。こうした難問にブロックは、またアナール派はどう答えているのであろうか。かかる妄想を期待感を伴って膨らませるのも読書の楽しみである。
5.「暴」引・断簡零墨-歴史対象と観察
少々長い引用をしたい。〈「暴」引〉と銘打っている所以である。
「第一の性格としては、過去における一切の人間的事実の、また現在におけるそれの大部分の認識は、フランソア・シミアンの巧妙な表現によれば、「痕跡」による認識である。シリアの城砦の壁の中の骸骨にせよ、その形式や用法が一つの習慣を明らかにする言葉にせよ、古いまたは新しい史実の目撃者の書いた叙述にせよ、何が問題であろうとも、我々は「記録」(documents)を一つの「痕跡」(traces)、言い換えれば、一つの現象がそれ自身では把握できぬままに放置していた印(感覚には知覚しうる)と解するほかはない。その起動が、クルックス管の中で見えるようになった原子のように、原物がその性質上感覚によって解しがたい状態にあるということは問題ではなく、あるいはまた、その痕跡が石炭塊の上に残っているだけで幾千年来腐敗してしまったままの羊歯や、ないしはエジプトの神殿の壁に描かれ、説明されているが、久しく廃れてしまったままの儀式のように、原物がただ時間の経過した結果今日そうなったということも、どうでもよいことである。二つの場合とも再構成の方法は同じであり、すべての科学はその多くの実例を提供する。」(p.37)
「過去は、これを定義するならば、何物も将来これに修正を加ええないような一つの与件である。けれども過去の認識は、絶えず変形し完成する、進歩的なものである。これを疑う人は約一世紀以来、我々の眼前に起こったことを思い起こせば十分であろう。人類史の膨大な領域が明るみに出された。エジプトやカルデアがその経帷子を脱ぎ捨てた。中央アジアの滅び去った諸都市が、今日誰も語りえない言語と、久しく消滅していた宗教を暴露した。インダス河の岸では、全く未知の文明が今しがた墓の中から出現したところである。それだけではない。書庫をもっとくまなく探り、古い遺跡を新しく発掘する研究者たちの巧妙さは、単独に作業を進めるのでなく、またおそらく過去の観念を豊かにする最も有効な方法だというのでもない。今まで知られなかった研究の方法もまた出現した。我々は風習を調べるために言語を、労働する人を調べるために道具を吟味することを、先人たちよりもいっそうよく知っている。ことに我々は、社会的な事実の分析をさらに深く進めることを学んだ。庶民的な信仰と儀礼の研究は、ようやくその最初の展望を繰り広げたところである。かつてクールノーがその歴史的研究の色々の局面を枚挙して、まだ考えも及ばなかった経済史は、ようやく建設の緒についたところである。これらのことは皆確かなことであり、我々に最も広大な希望を与えるが、それは無限の希望ではない。自分自身が対象にしている物質までも創り出しえる化学のような科学の持っている、真に無限の進歩感は、我々には拒否されている。それは過去の探究者が完全に自由な人間ではないからである。過去は彼らの暴君である。過去は過去自身が意識して、あるいは意識せずに、彼らに与えないようなものは、何事も彼らが知ることを不可能にしている。われわれはメロヴィンガ時代の物価の統計を-何らの文書もこの物価を十分に記録していないので-決して作れないだろう。また例えば、パスカルやヴォルテールの同時代者についてなしうると同じ程度に、ヨーロッパの11世紀の人々の精神状態を洞察することはできないだろう。なぜなら、彼らについては、私的な書翰も告白録もなく、彼らのあるものに関する月並みな文体の拙い伝記しかないからである。このような欠陥のために、我々の歴史の一部分は、ことごとく必然的に個人のない世界の、やや貧血の様相を呈している。…過去の現象を探求するのに、その使用上必要とされるあらゆる研究の共通の運命は、かくの如きものである。そして思うに、その骨だけが残っている蛇頭竜の内分泌線を、古生物学者が再構成するのが不可能である以上に、先史学者は書かれたものがないために、石器時代の儀礼の再構成が不可能なのではない。「私は知らない」「私は知ることができない」と言うことは、常に不愉快である。精力的に必死に研究して後、初めてそう言うべきである。だが、すべてを試みて後、無知に忍従し、それを正直に告白することが、学者のやむに已まれぬ義務であることもあるのである。」(pp.40-41)
「西紀前数千年前に建てられたシリアのある城砦の中に、現今の考古学者たちは、密閉した土器に小児の骨がいっぱい詰まっているのを発見した。この骨が偶然そこにもってこられたとは合理的に想像されないので、我々は明らかにこの城砦建設の際に行われた、あるいはこれと関係ある犠牲の遺物に出くわしたことになる。この儀式によって表現される信仰については、我々は、この時代の証拠によるか、あるいは他の証拠に基づく類推に頼るほかはない。我々が共にしない信仰を、他人の報告によらないで、どうして我々は知ることができようか。…すべての意識現象が、いったんわれわれとは無関係になった場合が皆そうである。ところが逆に、犠牲の事実そのものに関しては、我々の立場は全く違う。…本当に確認された対象から、この対象がその証明を提供するような事実へと我々を進ませることのできる極めて単純な推理、―…この初歩的な解釈作業―の中には、事物と我々との間に他の観察者の介在を要求する何物も存しない。…さて他の多くの過去の痕跡も、同様に我々に無造作な接近を許す。文字に書かれていない多数の証拠物のほとんどの場合がそうである。カルデアのウルの王墓の中にアマゾニットで作られた頸飾りの玉が発見された。この石に最も近い鉱脈がインドの真ん中やバイカル湖の付近にあるので、世紀前3世紀以来、ユーフラテス下流の諸都市が非常に遠隔の土地と交易関係にあったという結論を下さざるを得ないように見える。この結論は正しくもありまた危かしいようにも見えるだろう。この結論に人がどんな判断を下そうとも、それはたしかに最も典型的なタイプの結論である。それは事実の確認に基づいており、そこには他人の言葉はいささかも介入していない。だが物質的な記録は、このように直接に理解されうるという、この特権を持っている唯一ものでは、さらさらない。かつて石器時代の工人によってつくられた燧石と同じように、言語の特徴、明文化された法律の規則、儀式書で定められ、あるいは墓碑に表されている儀礼などは、我々が厳密に個人的な知性の努力によって、我々自らが把握し活用するところの事実である。そこには他のいかなる人間の頭脳も、仲介として呼ばれる必要はない。…歴史家は彼の実験室の中で起こることを、他人の報告によってのみ知ることを必然的に余儀なくされるというのは、本当ではない。彼は実験が終わって初めてやってくる。けれども、もしも事情に恵まれるならば、実験は、彼が自らの目で認識することのできる残り物を、後に残すだろう。」(pp.35-36)
ゴシック体はすべて評者のものである。
この長文の引用から、少なくともわれわれは次の点で歴史学者の自賛とその苦悩とを読み取ることができる。
自賛の方は、一見無機的なもののように思える過去の遺物(あるいは解読不可能に思える古代の言語で書かれた古文書)を読み解き、古の文明社会を現代に再現できたという自負である。このことは、例えば古代エジプトの「ヒエログリフ=聖なる刻字」解読によるエジプト学の飛躍的な進歩や、トロイア遺跡の発見・発掘などという事例を考えればお分かりになるであろう。そのために払われた並大抵ではない労苦がしのばれる。
しかし評者としては、歴史家の苦悩の方にもっと大きな関心がある。というのは、先に膨らませた「妄想」との関連からだ。ブロックが上において「他人の報告」とか「他人の言葉(頭脳)」と述べているのは、主に過去の文献による報告や解釈、他の学説などを指しているようである。つまり、歴史家の扱うもの、またその方法はあくまで「客観」に徹すべきだということが強調されている。なるほど、彼の学問的矜持は、こういう先入見や権威に左右されたくないし、されていないというものであろう。しかし実際にはどうであろうか。彼の見地(立脚点)そのものが、すでに他者の上に成立しているとは言えないであろうか。われわれはどこまでも他者である。個人の存在は社会的諸関係のアンサンブルの上にしかない、からだ。「教養」は自己のものであるとともに、そお圧倒的な部分は他者によって形成されたもの(遺産)に負っている(相続)。
ブロックはこのことに気がつかなかったのか?否、以下の文章に見られるように、彼はこのことを十分自覚していたようである。おそらく、彼の不幸はこの課題を十分検討するだけの時間が持てないまま、闘いのうちに斃れたことではないだろうか。ブロックの学問的な誠実さには首を垂れるしかない。
「老いた中世学者である私は、寺院などの法典類集(カルチュレール)ほどの魅力ある読み物を知らないことを告白する。それに何を求めるべきであるかをまさしく私が知っているからである。その代りローマの碑銘の蒐集は私にほとんど何も語らない。私はそれらをどうにか読むことができるが、それを問い詰めることを知らない。言い換えれば、すべての歴史研究は、その第一歩からして、探求がすでに一つの方向を持つことを予想する。初めに精神ありである。いかなる学問においても、受け身の観察は―もちろんこのようなものが可能であると仮定して―決してなんら豊かなものをあたえなかった。…探究者が出発にあたって立てた旅程に、彼は一つ一つ従うのではないということを、あらかじめ彼はよく心得ている。とはいえ、旅程がなければ、彼は当てもなく、さまよう危険を冒すだろう。」(pp.40-41)
6.「暴」引・断簡零墨-批判的精神
「誤謬はほとんど常に前もって方向が定められている。ことにそれは、世論の偏見と一致して初めて広がり、活気を帯びる。その時この誤謬は、集団的意識がその中に自分自身の特徴が移っているのを眺める、一つの鏡のようなものとなる。ベルギーの家屋の多くには、その正面に左官たちが足場を設けやすくする目的で作られた狭い隙間がある。1914年、ドイツの兵士たちは、もしも彼らの想像力が、ずっと以前からゲリラの心配という錯覚にとらわれていなかったなら、この罪のない石工の考案を、狙撃兵のために用意された多くの銃眼だとは、決して考えようとしなかっただろう。雲は中世以来ちっとも形を変えてはいないけれども、我々はもはやそこに奇蹟の十字架や剣を見出すことはない。あの偉大なアンブロワーズ・パレ(16世紀フランスの外科医)が観察した彗星の尾は、我々の空を時々飛び去る彗星の尾とたしかに全く違ったものではない。けれども彼はそこに不思議な甲冑の一揃いの出現を、発見したと考えたのであった。一般的な偏見に従うことが、彼の凝視の日ごろの正確さを打ち負かしたわけである。そして彼の証言は、他の多くの証言と同じく、彼が実際に見たものについてではなく、彼の時代に人々が見るのが当然と考えたものについて、報告しているわけである。
しかしながら、一人の証人の誤謬が多くの人々の誤謬となるためには、また不正確な観察が間違ったうわさに変化するためには、社会の状態がその流布をうながすことも必要である。まだまだすべてのタイプの社会がこの流布に好都合であるわけではない。我々の世代が経験した集団生活の異常な動揺は、この点において多くの注目すべき経験を含んでいる。実のところ現在の動揺はわれわれに余り近すぎるので、まだ正確な分析はできないが、1914年から1918年にわたる大戦は、もっと広い鑑賞距離を可能にする。この四年間には、特に戦闘員の間に、どれほど多くの虚報が生じたかは、誰でも知っている。研究して最も面白く思われるのは、塹壕という特殊の社会におけるこの虚報の成立である。…或るユーモア作家が適切に言っているように、「印刷許可になったもの以外は、すべてが真実でありうるという意見が、塹壕の中で流行した」と。人々は新聞を信じなかった。手紙はなおさらのことである。手紙は不規則に到着し、厳重に検閲を受けていると考えられたからである。そこから生まれたのは、伝説や神話の古い源である口碑の驚くべき復活である。どんな大胆な実験家も夢想さえしなかったような思い切ったやり方で、各国政府は過ぎ去った幾世紀の年月を無視して、戦線の兵士を新聞以前の、ニュース新聞以前の、書物以前の昔の情報手段や精神状態に立ち返らせたのである。」(pp.84-85)
ここには当時、ナチスドイツに抵抗するレジスタンス運動に挺身したマルク・ブロックならではの非常に鋭い観察と思索が働いているように思う。ある状況下の中におかれて、人は容易くその考えを変え、世情に流される。このことは、今日のわれわれの周囲を眺めてみてもよくわかる。テレビをはじめ、新聞も週刊誌もアベノミクスを讃美し、景気は必ず良くなると讃える。アメリカの景気も同様に上昇傾向にあると伝えられる。悪材料は報道されない。まさに「塹壕の中」と同じ事態が起きている。真実(真相)の剔抉はいかにして可能であろうか。ブロックが提唱したのは「歴史的分析」ということであったようだが、残念ながら十分には展開されていないと思う。しかし、ここではこれ以上の冗語をさしはさむことを禁欲し、再び長い引用のみで済ませたい。
「例えばここに「法律史」というものがある。硬化症の感嘆すべき道具である教育や教科書は、この法律史という名称を普及した。しかしながらこの名称は何を意味するのであろうか。法規は、明らかに強制的な、かつ強制と刑罰との明確な体系によって尊敬の念を起させうる権威に基づいて神聖化された社会的規範である。実際において、このような掟は種々様々の行動を支配することはできるが、それを制御する唯一のものではない。我々は日常生活において、法律上の法典とはしばしば異なってやむをえない道徳上の、職業上の、社交上の掟に絶えず従っている。なおまた、法律の法典の境界は絶えず動揺する。しかるに社会的に承認された義務は、法典から多少の力と明晰さとを獲得するとしても、この法典に挿入されるといなとにかかわらず、明らかに性質を変えることはない。それ故、言葉の厳密な意味における法は、それ自身あまりにも変化に富む現実の形式的な被いであるので、単独の研究の対象を有効に提供することはできない。法は現実の何ものをも極めつくすことはない。家族というものを考えてみよう-絶えず収縮と拡張の状態にある今日の夫婦財産制の小さな家族が問題であるにせよ、あるいはまた、感情と利害との極めて強靭な網目によって接合された集団である中世の大家系が問題であるにせよ-この家族の生活を深く究めるためには、いずれかの家族法の条項を次々に列挙することで十分であろうか。往々そう考えた人もいるようである。だがその結果がどんなに人々の希望を裏切るものであるかは、今日もなお我々がフランスの家族の内面的発展をさかのぼって調べることが不可能なことがそれを十分に証明している。」(pp.122-123)
「これらの分類の枠を供給するために、多くの用語辞典がすでに我々に提供されており、その大部分は、どんな特殊の時代の語の意味する含蓄よりも優れたものとなろうと努めている。あらかじめ定められて計画なしに、数世代の歴史家たちの次々の訂正によって仕上げられたこの辞典は、きわめて雑多な日付や出所を持つ要素を蒐集した。「封建的」や「封建制」という語は、18世紀以来ブーランヴィリエ(18世紀フランスの歴史家)により次にモンテスキューによって、裁判所から借りてこられた法曹用語であって、それ自身としては極めて拙い定義を下された社会構造の一類型の不細工きわまるレッテルとなった。「資本」という語も経済学者たちが、早くからその意味を大いに拡張した高利貸しや出納官吏の言葉であり、「資本家」(capitaliste)という語は初期のヨーロッパの取引所における投機業者たちの方言のはるかな名残である。けれども今日われわれの古典においてもっと注目すべき位置を占める「資本主義」(capitalisme)という語は非常に新しいものであり、その語尾は起源の一特徴を示している。「革命」という語は、その昔の占星術的連想を、きわめて人間的な意味と取り換えたものである。天空ではそれは絶えず反復される規則的な運動であったし、また今もなおそうである。地上では今後は真っ直ぐに前方を目指す急激な危機である。プロレタリアという語はルソーに従って産をなした1789年の人々のように、古代風な装いをした言葉である。だが、バブーフに次いでマルクスは、そこに永久に彼の極印を捺している。アメリカ自身も「トーテム」という語を、大洋州は「タブー」という語を我々に提供した。これは人類学者たちの借用物であり、これに対してある種の歴史家たちの古典主義は、今なおためらいがちである。起源のこの多様性も、意味のこの逸脱も、不都合なものではない。一つの言葉は、その語源によってではなく、その用途によって、価値をもつものである。」(pp.141-142)
この「資本主義」という用語に関して、ほんの少し脱線する。先に(前回1-1で)触れたフェルナン・ブローデルの『歴史入門』(金塚貞文訳 太田出版)に次のような面白い記述があるからだ。
「資本主義という言葉を…使ったのは、市場経済とは明らかに異なった活動を指すため…である。…まず第一に、15世紀から18世紀にかけて進行したあるプロセスに独自の名称を与える必要があった。」(p.70)
「資本主義という言葉が広い意味で使われ始めたのは、20世紀初頭になってから…いささか恣意的ではあれ、そうした使い方は、1902年に出版されたヴェルナー・ゾンバルト(Werner Sombart 1863-1941)の有名な『近代資本主義』に始まる、と私はみなしている。この言葉は、マルクスでさえ、知らなかったはずだ。」(pp.71-72)
このブローデルの指摘と、上に引用した(pp.141-142) ブロックを見比べながら、大いに考えさせられたのであるが、それについてはまた改めてのことにして、この稿のまとめを急ぎたいと思う。続いて彼が考察するのは、歴史年代(「世紀」という数え方)についてである。これはのちに、ブローデルの提唱する「長期持続」「中期持続」「短期持続」という考え方の基礎に通じているように思われる。
年代学的分類に関するブロックの考え方は、おおむね上に書かれた「一つの言葉は、その語源によってではなく、その用途によって、価値をもつものである。」という考えに沿ったものだろうと思う。
「我々の年代学的な分類の混乱の中へ、ごく最近のものと思われるが、合理的でないだけになおさら油断のならない一つの流行が忍び込んできた。我々は好んで世紀によって数える。年代を正確に数え上げることとは久しく無関係であった世紀という言葉もまた、もともとその神秘的な響きを、すなわち、ヴェルギリウスの第四田園詩あるいはDies Irae(怒りの日、最後の審判の二語で始まるラテン語の讃美歌)の口調を持っている。おそらくこの神秘的な響きは、数学的な精確さにさほど関心をもたずに、歴史が好んで「ペリクレスの世紀」「ルイ十四世の世紀」などに低回していた間も、全く衰えることはなかった。だが我々の言葉はもっと厳密に数学的となった。我々はもはや世紀をその英雄に従って名づけはしない。我々は西暦の第一年ときっぱり定められたスタートから出発して極めて慎重に百年ごとに順次に世紀を数える。13世紀の芸術、18世紀の哲学、「愚かな19世紀」等々、幾何学的仮面をかぶったこれらの顔が我々の書物の頁に絶えず付きまとう。その外見上の便利さの持つ魅力をいつもまぬかれたと、我々のうちのだれが自慢するだろうか。その年代が一という数字で終わる年が人類発展の界点と一致するということを、不幸にして、いかなる歴史法則も強制しない。ここから意味のゆがみが生じる。「18世紀は、1715年に始まり1789年に終わる、ということは明らかなことである。」この文句を最近私は学生の答案で読んだ。それが無邪気であるか、それとも悪意であるかを私は知らない。とにかくそれは、慣用語法の持つある種の奇妙さを十分に暴露するものであった。けれども哲学的な18世紀が問題である場合は、この世紀は1701年よりもずっと前に始まったという方が確かにましだろう。すなわち、フォントネルの『神話の歴史』は1687年に、ベイルの『辞書』は1697年に刊行されたのである。最も悪いことは、名称というものは、いつものことながら思想を伴うので、これらの間違ったレッテルは、遂には、商品をごまかすことになる。中世研究者は「12世紀のルネサンス」を語る。確かに、それは偉大な知的運動であった。けれどもこの運動をこのような標題のもとに記すと、この運動が実は1060年に始まったということを、人々はあまりにも容易に忘れがちであり、ある種の根本的な関連が逸せられる。要するに、勝手気ままに選ばれた振り子のような厳格なリズムに従って、この規則正しさとは実はまったく関係のないような現実を、我々は区分するという態度をとるのである。これは一つの賭金であり、もちろん、それを我々は非常にまずく賭けるのである。我々はもっと良いものを探さねばならない。」(pp.152-153)
遺稿の最終章たる「第5章 歴史における因果関係」を駆け足で追いかけたい。第4章、5章(とりわけ5章)は、ほとんどこれを成稿とする余裕すらないままに残されている。きわめて恣意的な深読みにすぎるかもしれないが、この5章で彼が言いたかったことは、歴史における必然性の問題ではないかと思われる。つまり、「因果関係」によるのではなく、「必然性」こそが歴史学を成すということだったのではないだろうか。このことは彼が別の個所で「歴史家たちはまず歴史を「さかさま」に読むことによってしばしば大きな利益を得ている」(p.27)と書いていることとも照応しているように思える。
「一人の人間が山の小道を歩いていると仮定しよう。彼は躓いて絶壁の中に落ちる。この事故が起るためには、事を決定する多くの要素の集合が必要であった。それはなかんずく、例えば、重力の存在、それ自身地質学的な変動の結果生ずる土地の起伏の存在、また例えば、一つの村をその夏の放牧場と結びつける目的の道路図などである。それ故、もしも天体力学の法則が違っていて、地球の発展が違った風であり、高山の経済が季節の牧畜移動に基礎をおいていなければ、墜落は起こらなかったろうということは、全く正当な言い分であろう。にもかかわらず、墜落の原因はなんであったかと問うならば、足の躓きであると、誰しも答えるだろう。このことは、この先立つ事件が出来事にとって一層必要であったという意味ではなく、他の多くのことも、同じ程度に必要だったのである。けれどもこの先立つ事件は、次のような幾つかの極めて著しい特徴によって他と区別される。すなわち、それは最後に起こったということ、この世の一般的秩序において最も恒常的でなく、最も例外的であったということ、最後に、この最も普遍的でないということそれ自身によって、その干渉はもっとも容易に避け得られた種類のものであるように見えるということである。これらの理由で、それはもっと直接的な影響力を持って結果と結びついているように見え、それのみがほんとにこの結果を生み出したのであるという感じを抱くことを、我々は免れない。原因を云々しながら、ある種の神人同形説から脱却することにつねに苦慮している常識の目から見れば、この最後の瞬間の構成分子、この特殊の意外な構成分子は、すでに準備の出来ている可塑性の物質に形を与える芸術家とやや似ている。」(pp.160-161)
この真摯な歴史家に改めて心からの哀悼と尊敬をささげたいと思う。
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0200:160131〕
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