抜き書き典籍紹介・「暴」引断簡零墨(2-2)
- 2016年 2月 14日
- カルチャー
- 山川哲
『大地動乱の時代―地震学者は警告する』石橋克彦著(岩波新書1994)
5.地震は天罰(「天譴論」)という精神主義的「迷言」
今村明恒は今後も東京は大地震に見舞われる可能性が大きいとみて、「遷都」をも提唱したというが、前東京市長で内相の後藤新平の反対にあい、その考えは一掃された。その一方で、いつの時代にも「天譴論」なる珍奇な世迷いごとを無責任にのたまう手合いがいるものである。
元都知事の要職にあった作家が、2011年の「東日本大地震」の後に、同じようなアナクロニズムな「迷言」を吐いていたことは記憶に新しい。注意すべきは、こうした天災を政治的に利用し、国民大衆の不安を逆手にとって、さまざまな反動的な政策を押し付けてくる歴史上のケースが多いということである。「関東大震災」のときには、さまざまな流言飛語が流れとび、なかでも朝鮮人が暴動を起こすとのデマで、6000余名の命を奪う大量虐殺が起きた。また亀戸事件(労働組合弾圧、白色テロ)、憲兵大尉・甘粕正彦による大杉栄夫妻の虐殺などが引き起こされた。山本権兵衛内閣は、東京と神奈川に戒厳令を敷き、混乱の鎮圧を図ったが、成功せず、震災恐慌が発生した。ある意味でこれは、1932年の中休みまで引き続く「昭和恐慌」の走りだったとも言いうる。つまり、恐慌は1931年9月18日の柳条湖事件(関東軍による満鉄線路爆破の謀略)と、翌年の傀儡国家・満州国でっち上げへ向けた軍需特需によって一応終息したとみなされたからだ。
「震災後、これを天罰だとする『天譴論』が広く唱えられた。大戦景気で贅沢三昧の成金、暴利をむさぼる悪徳商人、戦争に明け暮れる政治家などに鉄槌が下ったというものもいたが、相次ぐ戦勝で日本人全体が傲慢になっていたからだとするものや、大正デモクラシーの中で花開いた芸術や思潮も槍玉に挙げて、人々が奢侈淫逸に脱したためだと説く者もいた。11月には、贅沢や危険思想を戒め質実剛健の気風を発揮せよという『国民精神作興ニ関スル詔書』が発せられ、精神主義が強調された。」(p.79)
「戦後恐慌に追い打ちをかけた莫大な経済的打撃は、その後の財政を圧迫するもとになった。また、地震直後のモラトリアム(支払い猶予)の発令や、日本銀行による市中銀行救済策は、通貨膨張や大量の手形未決済を生じ、1927年(昭和2)の金融恐慌の直接原因となった。そして、1929年10月にアメリカで始まった世界恐慌の大波をかぶることになる。一方、震災による社会的混乱は支配層と反対勢力の双方に危機感を与え、震災翌年の第二次護憲運動以降、『普通選挙法』の成立、政党政治の展開を迎えるが、同時に『治安維持法』も成立して反政治的言動の弾圧に道を開いた。また政党政治が、慢性不況の中で経済支配を強めた財閥と癒着していったために、農村の疲弊と相まって国家主義的な運動を呼び起こし、暗い時代への歩みを速めた。こうして、地上の日本の社会は、関東大震災を重大な節目としてさらなる激動の時代に入り、アジア太平洋戦争と、敗戦による『第二の開国』に向かって突き進むことになる。」(pp.79-80)
6.地震の構造
「P波=縦波、岩石の伸び縮みの変化が伝わるもの。S波=横波、岩石のずれ変形が伝わるもの。大きな地震が発生すると、先ずガタガタという縦揺れ、しばらくしてユサユサという横揺れ、その後ユラユラというゆっくりした揺れ(『表面波』)を感ずることが多い。」(p.88)
「陸上や海底に存在する断層のうち、第4紀(約170万年前から現在まで)またはその後期に何度かずれ動いた証拠があるものを『活断層』という。これは、過去に震源断層運動を繰り返した地下の弱面の現れだから、将来もそこで大地震が起こると考えられ、地震発生予測のために非常に重要である。ただし、活断層と震源断層面がいつも完全に対応しているとは限らないので、『活断層が地震を起こす』というような言い方は適切ではない。地震の発生源はあくまでも地下の震源断層面である。地表地震断層が現れなくても、震源断層運動が浅い部分まで達すると、地表の広範な領域が横(水平)に動いたり、上下に動いて隆起・沈降したりする。これを『(地震時の)地殻変動』という。…地震時地殻変動は震源断層面に近いほど大きいことがうかがえるだろう。海底のすぐ下で大規模な震源断層運動が起こって広範囲の海底が隆起・沈降すると、その上の海水も上下に動かされ、海面の変動が波となって周囲に広がる。これが『津波』である。一般に、縦ずれ成分が大きくて震源域が広いほど、広範囲に大津波を生ずる。ただし、陸へ上がった最終的な津波の高さは、沖合の海底の地形、海岸線の形、陸上の地形などに強く影響され、狭い地域の中でも場所によってずいぶん違う。津波の伝わり方は海が深いほど速く、水深2000メートルで秒速140メートル(時速110キロ)である。これは震源からP波がやってくる早さ(秒速6~8キロ)に比べれば格段に遅いので、地震動を感じてすぐに用心すれば不意打ちされることはない。しかし、震源域に近ければ地震後2,3分で襲ってくるし、海岸に近付いてからも自動車並みの速さだから、一瞬の行動の遅れが死を招く。」(pp.95-96)
7. 「関東大震災」から70年、1995年の「阪神・淡路大震災」、2011年「東日本大震災」が勃発、そして再び・・・?
「南関東一帯の地震活動は、本震後数年間は余震的なものが活発だった。これは破局的にエネルギーを解放した後の調整作用の様なものである。1924年1月15日の明け方には、丹沢山地の地下でM7.3の大地震が起こり、…26年(大正15)8月3日には東京湾中部でM6.3の地震が発生し、…28年(昭和3)5月21日には千葉付近の下で、M6.2の地震が…29年7月27日には丹沢山中でM6.3の地震が発生…しかし、これを最後に、東京で震度5以上を記録する地震は全く発生しなくなった。…このようにして、1853年嘉永小田原地震で始まった関東地方の「大地動乱の時代」は、70余年間続いたのち、1923年関東大震災とその余震活動によってようやく幕を閉じ、『大地の平和の時代』に入ったのである。」(pp.80-81)
「我が国は地球上で最も地震が密集する場所の一つである。先進経済大国で国の輪郭が見えないほど地震に覆い尽くされているところは他にない。これは日本列島が4つのプレートが関係する収束境界帯の真っただ中に位置しているからである。東北日本が『オホーツク海プレート』、日本海の海底と西南日本が『アムールプレート』に属するというのはまだ学説の段階で、北米プレートとユーラシアプレートとする説もある。…いずれにしても両ブロックは、ほぼ東西方向に年間1センチ程度の割合で収束していると考えられる。このプレート運動は日本海沿岸~西南日本の大地震を考えるのに重要で、…『東海地震』の長期予測のためにも無視できない。
日本列島の構造発達と変動の基本になっているのは、『太平洋プレート』の沈み込みである。…太平洋プレートの長い沈み込み帯のほぼ中間に日本列島があり、沖合には深さ8000~9800メートルに達する千島海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝が連なる。これらの海溝では、約4000万年も昔から西北西向きの沈み込みが続いており、そのために海溝全体の大きな水平移動も含むような幾多の変動を経ながら、日本列島が今日の姿になった。グローバルなプレート運動モデルでは、東北日本に対する太平洋プレートの沈み込み速度は年間約8センチだが、VLBIの観測によれば、1985~91年にハワイと茨城県鹿島の間が年間6.3センチの割合で縮まっている。」(pp.114-116)
1600年以降、東京で震度5以上を記録した地震 (p.149)
1615.6.26(元和1.6.1)震度6
1628.8.10(寛永5.7.11)震度5
1630.8.1(寛永7.6.23)震度5
1647.6.16(正保4.5.14)震度5
1647.9.3(正保4.8.5)震度5
1649.7.30(慶安2.6.21)震度6 M7強 (慶安武蔵地震)
1703.12.31(元禄16.11.23)震度6 M約8 (元禄関東地震)
1706.10.21(宝永3.9.15)震度5
1782.8.23(天明2.7.15)震度5 M7.3 (天明小田原地震)
1812.12.7(文化9.11.4)震度5
1854.12.23(嘉永7.11.4)震度5 M8.4 (安政東海地震)
1884.10.15(明治17)震度5
1889.2.18(明治22)震度5 M約6
1892.6.3(明治25)震度5 M6強
1894.6.20(明治27)震度5~6 M7弱 (明治東京地震)
1895.1.18(明治28)震度5 M7.2
1906.2.24(明治39)震度5 M6.4
1922.4.26(大正11)震度5 M6.8
1923.9.1(大正12)震度6 M7.9 (大正関東地震)
1924.1.15(大正13)震度5 M7.3 丹沢山地方面
1926.8.3(大正15)震度5 M6.3
1928.5.21 (昭和3) 震度5 M6.2
1929.7.27(昭和4)震度5 M6.3 丹沢山地方面
1985.10.4(昭和60)震度5 M6.1
1992.2.2(平成4)震度5 M5.9
「首都圏の地盤の悪さは、地震活動の激しさと同じように世界有数である。国際都市として東京が比較したがるニューヨークでは、約5億年前にできたコチコチの岩石がセントラルパークに露出しており、マンハッタンの超高層ビル群はそういう堅固な岩盤の上に建てられている。それに対して、東京を含む関東平野の半分近くの地盤は、約2万年前以降に海や川に堆積した砂や泥で、まだズブズブといってよい。東京圏の超高層ビルのほとんどは地下の古い地層を支えにしているが、それすら2,30万年前に堆積した『東京礫層』や、俗に『土丹』と呼ばれる数10~100万年前の軟岩で、ニューヨークとは比較にならないほど若くて柔らかい。
そもそも海底だったところに関東平野ができたのは、200万年くらい前から続いている「関東造盆地運動」という大規模な地殻変動(中央部の沈降、南縁・東縁の隆起)と、沈降を上回る堆積のおかげである。この造盆地運動はフィリピン海・太平洋両プレートの沈み込みに起因し、大量の堆積物は、伊豆内弧の衝突による関東・丹沢山地の隆起や、風上に位置する火山フロント沿いの火山(那須・赤城・榛名・浅間・八ヶ岳・富士・箱根など)の活動で供給された。従って、日本最大の関東平野が存在すること、その直下と周辺で大地震と火山噴火が起こること、地盤が悪いことは、三位一体で決して切り離せないのである。これは首都圏の一番基本的な自然条件である。」(p.202-203)
「そもそも工学技術は、者を作ろうとする意欲や必要性を原動力として、その時点での限られた人知で無限の大自然に挑むものである。従って、技術の適用範囲が広がるにつれて未知の自然が姿を現し、人知の限界が露呈するのは宿命的なことで、それを克服することを繰り返しながら技術は進歩する。問題なのは、現代日本社会が、このような技術の限界をわきまえず、大自然に対する畏怖を喪失して、経済至上主義で節度のない大規模開発を推し進めていることであろう。いずれにしても、『関東大震災にも耐えられる』という言葉の蔭で耐震技術はまだ多くの問題を抱えている。超高層ビルや先端的な都市基盤施設が密集する東京圏は、決して大地震に万全だから建設されているわけではない。むしろ、無数の市民を否応なく巻き込んで大地震による耐震テストを待っている、壮大な実験場というべきである。」(pp.206-207)
このような大地震の経験、また地震学者からの警告をわれわれはどれだけ生かし切れているのだろうか?言うまでもなく、現在、日本地震列島の周囲にはぐるっと原発が取り巻いている。しかも2011年の大地震と、それに伴う福島原発事故の処理すら目途が立たないうちに、再び各地での原発再稼働が強行されてきている。「原子力規制委員会」という名前の委員会もあるにはあるが、相変わらず名目上の「規制」にすぎず、実質上は政・財・官の言いなりに動く「木偶人形」にすぎない。
一方で地震学者は、「南海トラフ」による大地震が、近未来に確実に日本列島を襲うであろうと予測警告している。今、われわれは確実に危険と隣り合わせにおかれている。われわれの死活の運命を、他人事のように政・財・官に任せられるのであろうか。この書を繙きながらつくづく考えさせられた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0204:160214〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。