ハンガリー社会とユダヤ人
- 2016年 3月 10日
- 評論・紹介・意見
- ハンガリーユダヤ人盛田常夫
ハンガリー社会におけるユダヤ人の存在は、近現代のハンガリー史を特徴づけるもっとも大きな要素の一つである。
ハンガリーの近代史は1867年のオーストリア=ハンガリー二重帝国の発足に始まるが、それは同時に東欧に点在して居住するユダヤ人に大きな可能性を開いた。ハンガリーは新たな独立国家形成のために、積極的にユダヤ人実業家への優遇策をとった。優秀なユダヤ人がハンガリーに流入し、その後のハンガリー社会の発展に大きな役割を果たした。それはまた、中・東欧各地で虐げられた存在のユダヤ人の社会的地位の向上に大きく貢献することになった。こうして、マジャール人とユダヤ人はそれぞれの目的を調和的に実現できる国として、ハンガリーにおける近代の独立国家の樹立をめざしてともに歩みを始めた。
映画「サンシャイン」に見るユダヤ人問題
近代から現代におけるハンガリー社会にユダヤ人が占める役割の大きさに比例して、ハンガリーのユダヤ人問題は常に映画のテーマとなってきた。この問題を身近に感じさせてくれるのが、映画「メフィスト」でオスカー賞(1982年)を受賞したI. サボー監督になる国際合作映画「サンシャイン」(Sonnenschein、Napfény íze、邦画タイトル「太陽の雫」、1999年封切)である。
この映画は19世紀末のハプスブルグ時代からハンガリー動乱後の1960年代までのおよそ70年間のユダヤ人実業家の家に生まれた男子三代の生き様を、時代の変遷とともに描いた大作である。
ブダペストで事業に成功を収めたユダヤ人実業家の長男イグナツは、ハプスブルグ時代のウィーン大学を卒業し、ブダペストに戻って裁判官になろうとする。しかし、Sonnenscheinというユダヤ系の苗字は官吏への道を閉ざすと言われ、Sors(fate、運命)というハンガリー苗字に改姓する。イグナツは政府の高官となり、他方で医師となったイグナツの弟は社会主義運動にかかわり、1918年のハンガリー社会主義革命を迎える。革命の中でイグナツは軟禁される。社会主義政権崩壊後のホルティ政権は社会主義政府を構成していたユダヤ人への迫害を始めたために、イグナツの弟はフランスに亡命するが、ハンガリーに残ったイグナツは不遇の中で死を迎える。
舞台は変わって戦間期のハンガリー。イグナツの長男(アダム)と次男がフェンシングの選手として活躍する。しかし、ここでもナショナルチームへの近道になる軍人クラブへの入部にはユダヤ人は障害になると分かり、兄弟ともキリスト教に改宗する。この辺りまでの社会的雰囲気には、それほどの緊張感は感じられない。
ところが、やがてドイツの政治情勢が怪しくなり、ハンガリーのユダヤ人社会にも影響が出てくる。兄のアダムは1936年のベルリン五輪で団体金メダルを獲得する立役者になり、会場でアメリカの実業家から亡命の誘いを受けるが断る。弟は亡命の道を選び、兄アダムはブダペストに戻る。ハンガリー国家に貢献した自分が迫害を受けることなど、考えもしなかったのだ。しかし、ユダヤ人排斥の政治環境は日増しに強くなり、やがてアダムは逮捕される。ハンガリーの強制収容所で、同じく収容されていた息子(イヴァーン)の目前で、アダムは拷問の末に命を落とす。
時は変わって、第二次世界大戦後のハンガリー。ソ連によるハンガリー解放で、収容所を生き延びたユダヤ系の青年たちが、共産党の活動家になる。冷戦の激化に伴い、共産党内部でのアメリカのスパイ摘発運動が始まり、イヴァーンは有能な取調官になり、スターリンの誕生を祝うオペラハウスの式典で司会を務めるほどになる。
しかし、ここでも歴史が転換し、スターリンの死を境に、共産党の在り方に疑問を抱き始め、1956年動乱では自由化への道を訴える。動乱が鎮圧されたのち、イヴァーンは逮捕・拘禁されるが、米ソの雪解けが始まる1960年代初頭に釈放される。
釈放されたイヴァーンが最初に向かったのが、「苗字改姓」受付事務所だった。Sonnenschein姓に戻ったイヴァーンは、太陽の光をいっぱいに浴びて、再出発の一歩を踏み出す。
近代ハンガリー黄金時代とユダヤ人
1867年の二重帝国成立から第一次世界大戦勃発と社会主義革命にいたるまでのおよそ50年は、ハンガリーの近代黄金時代の到来とその凋落の時代である。世紀の転換期に生を受けた多くのユダヤ人子弟は、豊かな経済力をバックに、ブダペストの名高いギムナジウムに入学し、20世紀を代表する科学者として世界に羽ばたいた。
数学者のJ.ノイマン(プリンストン大学高等研究所)、ノーベル物理学賞を受賞したJ. ヴィグナー(ウィグナー、プリンストン大学)、ジェットエンジンの開発に貢献したT. カルマン(アーヘン大学、アメリカ空軍)などの若いユダヤ人青年は、みな20世紀に入って間もないブダペストのギムナジウムを卒業した。
他方で、ロシア革命に呼応したハンガリーの社会主義政権樹立(1919年)において、多くのユダヤ人が指導者として政府を構成したことが、ユダヤ人迫害を惹き起す口実となった。政権崩壊後のホルティ政権による白色テロで、多くのユダヤ人活動家が虐殺され、難を逃れた活動家はソ連へ向かった。それうちの何人かは、やがて第二次世界大戦後にハンガリーへ戻り、ソ連の共産党の命を受けて、ハンガリー共産党を再建することになる。
戦間期ファシズム時代のユダヤ人
社会主義運動に参加したユダヤ人の多くは亡命の道を選んだ。他方、銀行家であるノイマン家のようなブルジョア階級は、一時的にオーストリアへ避難したが、政権崩壊とともにブダペストに戻った。ナチスドイツの影響がハンガリーに及ぶまで、ユダヤ人実業家の家族は平穏な生活を送った。
ノイマンは1937年にアメリカの市民権を取得した。ハンガリーを最後に訪問したのは再婚のためにブダペストに戻った1938年である。それまで、ノイマンはアメリカとハンガリーを自由に行き来している。しかし、ナチスドイツのソ連侵攻やハンガリーにおけるファシスト党(矢十字党)が勢いを増すなかで、多くのユダヤ人科学者が最終的にハンガリーを離れた。ハンガリーに残った有能な科学者は、映画「サンシャイン」の主人公同様に、強制収容所で命を落とした。
この戦間期から戦後にかけたブダペストを舞台にしたのが、ドイツ・ハンガリーの合作映画「暗い日曜日」(Gloomy Sunday、Szomorú vasárnap、1999年封切)である。1930年代の憂鬱な時代に流行したハンガリーのシャンソン「世界の終わり(暗い日曜日)」を題材にした小説をベースにしているが、ユダヤ人のレストラン所有者の息子が、父を収容所に送り込み、母を騙したナチスの将校に復讐するという筋書きである。戦後になって、年老いた元将校がブダペストの思い出のレストランを訪問するが、父を奪われた息子が仕込んだ毒が心筋梗塞を起こしたように作用して殺される。歴史的時間を媒介とする恋愛とスリラーの物語である。戦間期の社会状況を感じさせる映画である。
2002年のノーベル文学賞を受賞したI. ケルティースの自伝小説「運命ではなく」(Fateless、Sorstalanság)はユダヤ人少年が、突然にブダペストの一時収容所に連行され、そこからブッフェンバルトの強制収容時へ送り込まれ、終戦で収容所が解放されるまでの日々を描いたもの。日常生活が突然に、非日常の世界へ引き込まれるという人生の転換を淡々と叙述したものである。この小説は同名のハンガリー映画(2005年封切)になった。映画ではアウシュヴィッツの残虐性(労働キャンプの非情さ)が原作以上に強調されており、著者の意図を正しく伝えるものではないが、基本的なストーリーは小説に基づいている。
2015年カンヌ映画祭のグランプリ受賞、2016年のゴールデングローヴ賞、2016年オスカー賞(外国映画部門)を受賞したハンガリー映画「サウルの息子」(Son of Saul, Saul fia, 2015年封切)は、アウシュヴィッツを舞台にしているが、この映画もケルイティースの小説と同様に、労働キャンプの残虐性を描いたものではなく、キャンプの死体処理係という特殊任務を遂行するユダヤ人班の主人公が、自らの息子(犠牲になった見知らぬ子供に、主人公の分身を見たものか)の遺体を葬るという内省的な心理状況を描いたものである。新しい視点から強制収容所の生活を描いた映画として、国際的に高い評価を獲得した。
戦後共産党とユダヤ人
第二次世界大戦後に再建されたハンガリー共産党の実権を握ったのは、ソ連帰りの共産党指導者である。いわゆる4人組と呼ばれるM. ラーコシ、M. ファルカシュ、E. ゲルー、J. レーヴァイが指導層を形成した。彼らは皆ユダヤ人で、ファルカシュを除き、1919年のハンガリー社会主義革命やハンガリー共産党の創設にかかわった活動家だった。
戦後ハンガリー共産党(ハンガリー勤労者党、ハンガリー労働者党)の基本政策はこの4人組で事実上決定された。これにたいして、非ユダヤ人で、戦時中も国内に留まった共産党員として知られていたのが、ライク(外務大臣時代に処刑)とカーダール(動乱後に書記長)である。
ソ連帰りの指導者のみならず、国内で新たに共産党に加入したのは、若いユダヤ人青年たちである。彼らはホロコーストの復讐を果たすために、ナチスドイツの支配からハンガリーを解放したソ連と共産党の戦列に加わった。ライク外相逮捕に先立つノエル・H・フィールド拉致事件で取り調べにあたったのは、ドイツ語が堪能なユダヤ人青年であった。M. バウエルとGy. センディはフィールド尋問に続き、ライク取調べ調書の作成を評価され、ライク処刑後に表彰を受けた。M. バウエルは改革派経済学者として知られたT. バウエルの父で、Gy. センディは母方の叔父にあたる。ともにユタヤ人青年として、戦後の共産党に積極的に参加し、保安警察の有能な取調官として抜擢されたのだ。
1998年のFIDESZ政権発足の後、ハンガリー国会(2000年9月国会)でM. バウエルが1950年にリース法務大臣を拷問死させた事件が、政権与党の議員から質問された。M. バウエルが弁護士資格を取得して活動している経緯を明らかにするように求めるものだった。当時、国会議員となっていた息子のT. バウエルは、「父は語学の能力を買われて通訳しただけで、保安警察の取調官であった事実はない」と反論したが、2002年の総選挙でSZDSZの公認を得られず離党した。当時、故ライク外相の一人息子や保安警察から拷問を受けた政治家の子息たちが、保安警察官として取り調べを行った官吏の子弟とともに、SZDSZ幹部を構成していた。バウエルのほかに、元SZDSZ党首I. ペトューの父もまたM. バウエルの同僚取調官だったことが暴露されたが、ペトューは「父は保安警察の倉庫番にすぎなかった」と弁明した。その後、ペトューは政界から引退した。
体制転換を経ても、ハンガリー社会におけるユダヤ人問題は、いろいろな場面で表面化してくる。 (盛田 常夫)
参考文献
マルクス・ジョルジュ『異星人伝説-20世紀を創ったハンガリー人』日本評論社、2001
盛田常夫『ポスト社会主義の政治経済学』日本評論社、2010年
ハンガリー映画評論(http://www.morita-from-hungary.com/japanese/05.htm)
DVD「暗い日曜日」(2002年、kadokawa メディアファクトリー)
DVD「太陽の雫」(2003年、アミューズ・ビデオ)
DVD「運命ではなく」(2015年、 IVC,Ltd.)
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