失格駐在員帰途につく-はみ出し駐在記(88)
- 2016年 3月 25日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
年末には支社長から当面ニューヨークにいるかという話まで頂戴していたし、まさか病気で突然駐在員生活が終わるなど思いもよらなかった。このままいたところで、どうなる訳でもなかったが、できればニューヨークにいた方がいい。駐在員生活は大変だけど、帰るのはいつでも帰れるし、日本に帰ったらどうにもならないのが分かっていた。
フィールドサービスに要求される能力は技術というより技能と呼ぶものでしかない。今まで動いていた機械が何らかの不具合で動かなくなってしまった。それを動くように、元に戻すだけの技量があれば事足りる。新しい物を開発したり設計する能力、それを作る技術と出来上がった物を修理する技能。この能力と技術と技能の三者の専門性には超えがたい、レベルではない種類に大きな違いがある。
技術研究所で機械設計の見習いとして始まったのが、日本を所払いになって、アメリカでフィールドサービスにも使い物にならないとなれば、もう技術屋としての道は、たとえそれが技能のレベルでしかないにしても、完全に閉ざされたと考えるしかない。
薬で症状を抑えて帰国できるようになるまで三ヶ月以上かかった。その間、医者に言われたように家でゴロゴロしているわけにもゆかない。事務所で新聞でも読んでいられるような性質でもない。軽度な作業でも何かしなければ気がもたない。それまでは毎週のように出張に行っていたから気がつかなかったが、事務所にいてもやることが、やった方がいいということが山のようにあった。
出張日程の入っていない応援者の力も借りてショールームの整備をしていったが、そんなことをしていれば出張にでる駐在員の日常から外れてゆく。駐在員との関わり合いを必要最低限に抑えてきたのが、それすらなくなって、彼らの日常からすっぽり外れたところに身をおくことになった。そんななか、がむしゃらに動いて、病気で戦列を外れた半人前の駐在員に、同僚としての暖かさを失わずに接してくれたのは事務所と倉庫で働いていたアメリカ人だった。
帰国の日程が決まってから、上司から慰めともつかないことを言われた「お前ほど、滅私奉公のようにがんばった駐在員はいない。あまりに経験のない状態で現場に放り出した会社側の責任の方が大きい」そんなことは言われなくても分かっている。もともと駐在に出して潰れれば潰れたでいい人材でしかない。それでも本心で「トラブルばかりで、ご迷惑をおかけして申し訳ないです」と言った。上司の責任ではないし、誰の責任という話でもない。この先どうしてゆくかは個人の問題でしかない。どのみち何週間もしないうちに、過ぎたことでしかなくなる。事務所に思い残すことは何もなかった。
ただ帰国するとなると、ローラやルイ、マスターとも一席設けなければならない。帰国の日が決まってからは、なんだかんだで忙しい毎日だった。あれこれ買い込んだのと、これが最後だと思う気持ちからちょっと使いすぎた。銀行口座を閉めようとしたら、四千ドル以上足りなかった。慌ててお袋に電話して「金がなくて帰れない、百万円送ってくれ」と頼んだ。「なにやってんの?」「いいから、できるだけ早く送ってくれ、ないと帰れない」しょうもない不肖の息子だった。
マリワナもどうしようか考えた。日本に帰って寂しい思いをするのは目に見えていた。マスターに一握り用意してもらって、最後の楽しみと毎晩やっていた。ちょっと危険を冒してでも持って帰るかと、最後の最後にタバコの葉っぱをつつき出して、マリワナと種を詰め込んだ。スーツの左右のポケット、レインコートのポケット、ポケットというポケットにマリワナ入りのタバコを入れて持ち帰ろうとした。
明日は帰国、下宿で日通が引越しの荷物を取りに来るのを待っていた。午前中に来るはずなのに昼をまわっても来ない。荷物の整理は終わっていて何もやることがない。ベッドに寝転がって最後の一服を何回もしていた。そこに日通がきた。部屋に入るなり、「荷物に変なもの入ってないですよね?」「入ってっこないでしょう。荷物は大丈夫、最後の一服を楽しんでるだけですよ」
赴任したときは直行便だったのに、帰りのフライトはアンカレッジ経由だった。赴任したときは金曜の夜だったこともあってか、社長も含め駐在員全員が出迎えにきてくれた。こんな人間に正直もったいないと恐縮した。いざ帰国となったら、木曜の昼ごろのフライトだからなのか、誰も見送りにきてくれなかった。五分の寂しさはあったが、誰もいないことに清々した。しがらみのない人生の再門出にはちょうどいい。みんなそれぞれの生活がある。人間最後は一人。自分の人生、自分で切り開くしかない。
アンカレッジ空港について、うそ臭い日本メシ屋で上手くもないソバを食べて、一服とタバコに火をつけたつもりが、間違えてマリワナを詰めたタバコに火をつけてしまった。つけたとたんに、なんともいえない香りがただよった。やばい、ばれちゃう。慌ててトイレにいって、折角詰めたマリワナタバコをトイレに流してしまった。惜しいことをしたという気持ちと、これで成田で捕まることはなくなったと、それまであった緊張感から解放された。
それでも成田の税関でひっかかってしまうのではないかと心配していた。まだまだうるさい時代、本来であれば持ち込めない類のものも持っていた。こわごわ申告しなければならない、申告できるものは申告してだった。係官が「お酒は二本ですねって」「えっ、いえ六本ですよ」二本と言われて焦った。四本どこかになくしてしまったかと数えたが、ちゃんと六本あった。「いえ、二本ですよ」って係官が微笑んでいた。一週間の出張でも二本、三年十年の駐在帰りでも同じ二本じゃかわいそうという人情だった。
成田について驚いた。渡米したのは羽田からだった。三里塚の騒ぎはアメリカでもニュースになっていたので知っていた。あれほどの騒ぎをして、こんな田舎に、こんなちゃちな空港。アメリカの空港を知っている者の目には、遠くて不便なうえに、箱庭のような空港にしか見えなかった。
当時、日本でもアメリカでも長髪が流行だった。職工さんならいざしらず、堅い仕事をしている人たちにパーマはなかった。堅い仕事をしてはいたが、職工さんに混じって、たまにパーマをかけていた。アメリカでも大家にヘアサロンを紹介してもらってパーマをかけた。ボディーカールで気に入っていたのに、出社したら、社長になんだその頭、即切って来いと言われて、泣く泣く短くしたことがあった。
長髪では税関の受けもよくないだろうと思って、一見真面目サラリーマンに見えるように刈り上げてきた。金曜日に帰国して、土日休んで月曜には出社しなければならない。土曜の朝、小銭を持って銀行に行って日本円に替えた。その足で行きつけだった床屋に行って、パーマをかけてくれと頼んだ。かなり短くしてきたから、散髪はいらない。パーマだけでいい。「えっ、この髪にパーマ?」パーマをかけるには短かすぎて、これを巻くのかと思ったのだろう。「そう、短いけどなんとかかけてくれる?」
細いロッドを使って、無理やりかけてくれた。薬も強かったのだろう、期せずして茶髪になってしまった。髪の毛も痛んで、ブラシをかけると折れてポロポロ落ちてきた。
月曜の朝、輸出子会社に出社した。ここでまた飼い殺しかと思いながら、帰任の挨拶に総務課に行った。「帰ってきました」って言ったら、総務の課長が「あれ、xxx君、天然パーマだったっけ」訳ないだろう。駐在員として使い物にならないのが病気して帰ってきた。歳もとって、多少はおとなしくなって帰ってくるものとでも思っていたのかもしれない。数ヵ月後には、それが大きな間違いだったことを思い知らされるとは予想もしていなかったろう。帰ってこない方がいいのが帰ってきた。
駐在して仕事の面で何を得たかと自問すれば、日本にいては経験できない、それも一人で切羽詰まった体験をさせて頂いたぐらいしかない。一人であきらめずに何でもなんとかしてやろう、しなくちゃという自覚というのか責任感というのか、たいしたものではないにしても培えたと思う。
仕事の面では取るに足らないものしか得られなかったが、将来人として社会なり、物事を見てゆくときに活きるであろう知見を得るということでは、かけがえのない駐在員生活だった。生まれて育ったところでは、周囲は当たり前の景色のようになって、特別何を感じることもない。ニューヨークに赴任して、何もかもが当たり前の風景ではない状況に放り込まれた。知識もなければ準備もない。それでも見えるものが見える。そこから見てやろうと思えば見えるものを見に行った。多少なりとも見えてくれば、ちょっとやそっとでは見えないかもしれないものまで見てやろうという気になる。特別なものはなにもいらない。見ようとする好奇心と見えたものを説明しようとする気持ちがあればよかった。
ただ何をどうしたところで、二十代後半の言葉の不自由な日本人、見えるものまでが見えたのもの、理解も表面的なものでしかない。それも自分の全てをなげうってのものでもない。あくまでも身分保障のある日本企業の駐在員としての保険の範囲で見えたものまでだった。それでもそれは駐在員社会から意識的にアメリカ社会に、たとえ一部ででしかないにしても身を乗り出して、はじめて知ることができたことだと思う。二十半ば過ぎのはみ出し者の遅い青春だった。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion5990:160325〕
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