茅ヶ崎海岸からのクラウゼンの送信について
- 2016年 4月 1日
- スタディルーム
- 渡部富哉
筆者の茅ヶ崎海岸からのクラウゼンの極秘電報の発信について、マーダー、シュフリック、ベーネルト共著『ゾルゲ諜報秘録』(朝日新聞社1967年)によると、「クラウゼンは彼の日本配置の間ボートあるいは船から送信したと主張する人々は滑稽な伝説を広めている。そういう送信機は沿岸防衛がすきまなく行われていたので、十中八九まで最初の試みの際にすぐに装置の位置測定と発信者の逮捕にいたったことであろう」と書かれており、筆者の調査報告が「滑稽な伝説」にすぎないと断定されているようだ。
1964年にゾルゲたちの功績を調査したのはGRU(赤軍情報部)からチスチャコフ大佐が、KGB対外諜報部からコンドラショフ、セルゲイ・アレクサンドロビチ(退役中将)などが合同で行われた調査に基づいてゾルゲに対する「祖国英雄」の称号を贈ることなどを決めたが、そのときコンドラショフによると、東ドイツにいたクラウゼンをモスクワに呼んで詳細に報告を聞き取り、さらにクラウゼンに回想を執筆させたという。クラウゼンの回想録から引こう。
「1937年、警戒を一層つよめる狙いで、私は横浜西部の茅ヶ崎海岸に別荘を借りた。それは庭付きの典型的な日本の夏の家屋で、海水浴場からほぼ300メートルぐらい離れたところにあった。家のそばに杭が立っていて、私は簡単に通信機の隠し場所を作り、砂質土壌を掘って通信機の入った箱を埋めた。夜、私は自分の車で東京から60~80キロ離れたところに行き、別のところから発信してみた。さらに茅ヶ崎にはゾルゲがしばしばやってきた。そこにはたくさんのドイツ人が住んでいたからだ」(コンドラショフ「ゾルゲとその仲間たちの諜報活動をめぐるソ連本国の評価」(『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社、所収)
筆者はドイツシンポジウム(2002年)の開催にあたってその打ち合わせのために、白井久也氏とモスクワを再度訪問したとき、コンドラショフ氏と彼のKGB執務室で懇談したとき、茅ヶ崎海岸での筆者の調査報告をし、懇談した。その録音テープが存在していることも付け加えておこう。
*1月22日、23日掲載の「ゾルゲ事件とヴケリッチの真実」への補足です。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study720:160401〕
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