「第五福竜丸を世界遺産に」の声も - 開館40周年を迎えた展示館 -
- 2016年 6月 20日
- 評論・紹介・意見
- 岩垂 弘第五福竜丸
東京駅からJR京葉線に乗る。数分で四つ目の駅、新木場に着く。駅舎を出ると、北に向かって車道が延びる。明治通りだ。その歩道を数分歩くと、右手の木立の中に、本をやや開いて立てたような形をした、焦げ茶色の建物が見えてくる。都立第五福竜丸展示館である。それが、6月10日で開館40周年を迎えた。
ここに展示されているのは木造船の第五福竜丸。140・86トン、全長28・56メートル、幅5・9メートル。敗戦直後の1947年、和歌山県の古座町(現串本町)で建造された。木造船の寿命は15年から20年とされているが、第五福竜丸は建造から今年で69年。敗戦直後に造られた木造船としては現存する唯一の船とされる。
同船は建造後、数奇な運命をたどる。
建造された時はカツオ漁船だったが、その後、所有権が静岡県焼津市の船主に移り、マグロ漁船に改造される。ところが、1954年3月1日未明、太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁から北東の海上で調査操業中、米国がビキニ環礁で行った水爆実験ブラボー(爆発力は広島原爆の1000倍)に遭遇する。実験によって生じた放射性降下物の「死の灰」が同船に降りかかり、これを浴びた乗組員23人全員が放射能症にかかり、無線長の久保山愛吉さんが死亡した。水爆による世界初めての犠牲者だった。実験場周辺の島々の住民たちも「死の灰」を浴び、同様の被害を受けた。
これが、ビキニ被災事件で、衝撃的なニュースとして世界を駈けめぐった。これを機に日本では、東京都杉並区の主婦たちの間から原水爆禁止署名運動が起こり、それは燎原の火のように全国に波及、署名は3200筆を超えた。こうした国民的規模の盛り上がりを背景に、1955年8月、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。
これに先立つ55年7月には、哲学者バートランド・ラッセル、物理学者A・アインシュタイン、物理学者湯川秀樹ら世界の著名な科学者11人連名で「将来の戦争では核兵器が必ず用いられるから、各国間の紛争は平和的手段によって解決されるべきだ」とする「ラッセル・アインシュタイン宣言」が発表された。これを受けて、核軍縮を目指す科学者の国際的な集まりである「パグウオッシュ会議」が発足する。
こうした経緯でも分かるように、第五福竜丸の被ばくが、グローバルな原水爆禁止運動を引き起こしたわけである。
被災した第五福竜丸はその後、政府に買い上げられ、東京水産大学の練習船となるが、老朽化のため廃船処分となり、東京のゴミ捨て場となっていた東京湾の夢の島に廃棄された。1968年、みじめな福竜丸の姿に心動かされた都内の会社員、武藤宏一さんがつづった、保存を訴える投書が朝日新聞に載ったことから、原水爆禁止運動団体などによる保存運動が起こり、1976年には、公園化された夢の島に都立第五福竜丸展示館が完成、同年6月10日に開館する。東京都が船体を買い上げ、永久保存を図るという形で決着をみたのだった。
展示館の管理は、公益財団法人第五福竜丸平和協会(川﨑昭一郎・代表理事)にゆだねられた。以来、第五福竜丸は、「ビキニ被災事件の生き証人」として、ヒロシマ、ナガサキにつぐ「第3の核被害」の実相を訴え続けてきた。
第五福竜丸平和協会によれば、展示館開館以来の入館者は延べ530万人。年平均で13万余人。入館者は各年代に及ぶが、小・中・高校生の学校単位の見学が多いという。修学旅行や、社会見学、平和教育の訪問先としてここが日程に組み込まれるようだ。外国人の入館者も年々増えているという。
来館者ノートには、入館者の感想がつづられている。例えば――
「ぼくはこのふねをみて、せんそうのかなしみがよくわかった。ぼくがおとなになったときにはせんそうをぜったいにおこさないようにしたいです」(幼稚園年長組)
「福竜丸をひとつひとつ見ていくと戦争はやりたくないと訴えていた。福竜丸のおもいが世界じゅうの人にとどいてくれるといいな」(小学6年、女)
「すいそばくだんをつくった人たちは、ひがいにあった人たちがかわいそうだと思わなかったのですか。わたしはそんなことをしないよのなかにしたい」(大分、小学2年、女)
「過去はもう変えられないものです。福竜丸をおそった悲劇は真実です。しかし、未来は私たちの手で作り出していくものです。私達からはじめて世界中にげんしばくだんや戦争のない平和な世界がひろがってゆけばいいと思います。この大切な命をいつまでも守っていきたいと思います」(岩手、中学3年、男)
「水爆実験をしたこと自体怒りを感じる。それをもみ消そうとした政府(アメリカ・日本も)、そして放射能検査を打ち切ろうとした日本政府の行いは国民として恥ずかしい!」(東京、男)
「小中の社会科で第五福竜丸のことを教わりました。しかしビキニの島の人々も被曝し苦しんでいることは知らされていませんでした。核のきょう威、大国のごうまんを知るためにもビキニの人々のことを児童生徒に教えるべきだ」
「われわれは福竜丸を参観して、いかに核兵器が恐ろしいかを知りました」(アムステルダムから来たオランダ人)
これらは入館者が抱いた感想のほんの一部だが、これらを通じて、展示館内の福竜丸をはじめとする展示物が、多くの人々に「核兵器はつくるべきでないし、使用すべきでない」「戦争は絶対に起こしてはならない」との思い抱かせてきたことが分かる。第五福竜丸展示館が、核兵器廃絶の世論を内外で形成する上で大きな役割を果たしてきたことは確かだろう。
5月29日、東京・神田の学士会館で、第五福竜丸平和協会主催の「展示館開館40周年記念レセプション」があった。
記念レセプションであいさつするトム・キヂナー駐日マーシャル諸島共和国大使
これまで協会の活動を支援してきた各界の人たち約120人が出席したが、来賓のトム・キチナー駐日マーシャル諸島共和国大使は、あいさつの中で「福竜丸は核兵器による悲劇を訴え続けるシンボルである。これからも、世界の人々によって記憶され続けるだろう」「私たちは、今こそ、原水爆の被害はわたしを最後にしてほしい、という久保山愛吉さんの言葉を思い起こしたい」と述べた。
出席者からもさまざまスピーチがあったが、東友会(東京都在住の被爆者によって結成された団体)の役員からは「福竜丸は、人類にとって永久に保存されるべき貴重な遺産。ぜひユネスコの世界遺産に登録されるよう努めようではないか」との発言があり、会場から拍手がわき起こった。
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