日本における『ドイツ・イデオロギー』の翻訳普及史
- 2011年 2月 13日
- スタディルーム
- ドイツ・イデオロギーマルクス廣松渉日本語訳渋谷 正
本HPの「催し物案内」に掲載している、2月19,20日開催の「国際学術研究集会:東アジアにおけるマルクス研究の到達点と課題」
(詳細:http://chikyuza.net/archives/6448)の第2日目(2011年2月20日)午後の報告から、「日本における『ドイツ・イデオロギー』の翻訳普及史」原稿を講演者の渋谷 正鹿児島大学教授から頂戴しましたので、ここに掲載します。内容にご関心、ご興味のある方は研究集会にお越し下さい。
「ちきゅう座」編集委員会
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国際学術研究集会:東アジアにおけるマルクス研究の到達点と課題
2011年2月20日
日本における『ドイツ・イデオロギー』の翻訳普及史
渋谷 正(鹿児島大学)
はじめに
『ドイツ・イデオロギー』の「フォイエルバッハ」章が原語のドイツ語ではじめて公表されたのは、1926年に刊行された『マルクス・エンゲルス・アルヒーフ』の第1巻においてである[1]。編集者の名を取ってリャザーノフ版と呼ばれるこの版本は、戦前の日本で直ちに翻訳されることになった。日本における『ドイツ・イデオロギー』の翻訳普及史は、ここに始まる。この翻訳普及史を今日の時点で洗い直すことは、日本の『ドイツ・イデオロギー』研究史、とりわけ今なお誤った評価をともなって普及する廣松版(岩波文庫版を含む)を正確に位置付けるために不可欠の課題であろう。
1. リャザーノフ版の翻訳
a) 櫛田・森戸訳
リャザーノフ版の刊行年と言われる同じ1926年の5月・6月に、その翻訳が、櫛田民蔵と森戸辰男の訳文で、「マルクス・エンゲルス遺稿『獨逸的観念形態(ドイチエ・イデオロギー)』の第一篇=フォイエルバッハ論」として雑誌『我等』(長谷川如是閑、大山郁夫、河上肇の刊行)の第8巻第5・6号に公表されたのであり、これが、「フォイエルバッハ」章の日本初の翻訳である。
この翻訳は、訳稿に改訂を施して、『マルクス・エンゲルス遺稿/ドイッチェ・イデオロギー』という書名で、1930年5月に我等社の『我等叢書』の第4冊として上梓された。
雑誌『我等』に掲載された翻訳では、リャザーノフ版における「編集者序言(Einführung des Herausgebers)」、脚注、いわゆる「清書稿」の前半部は、省略された。この省略の理由について、後続の『我等叢書』の「編者例言」では、「或る事情から極めて急速に仕事を運んだために」[2]と述べられている。「或る事情」が何を意味しているのは不明であるが、初訳が、底本が刊行された同じ年に公表されたことを考えれば、全文を訳出する暇がなかったことも一因であろう。
『我等叢書』第4冊の翻訳は、雑誌『我等』で省略された「編集者序言」と脚注も含むリャザーノフ版の全訳である。『我等叢書』では、『マルクス・エンゲルス・アルヒーフ』
第1巻のなかに「1844年-1847年のマルクスの手帳」から直接掲載された「フォイエルバッハ・テーゼ」も河上肇によって訳されるとともに、『アルヒーフ』で公表された「テーゼ」のファクシミリも転載された。
櫛田・森戸による二つの翻訳について特筆すべきは、ここでリャザーノフ版で復元された草稿の抹消部分も訳出されていることである。
たとえば、「フォイエルバッハ」章の草稿10ページ(マルクスのページ付け)の冒頭部について、リャザーノフ版は、抹消箇所を本文のなかに次のように組み入れる。
so <kommt er nicht dazu, die Mens[chen] > die <wirklichen, individuellen, leibhaftigen> Menschen nicht in ihrem gegebenen <[ge]schitlichen> gesellschaftlichen Zusammenhange, nicht unter <seinen> ihren vorliegenden Lebensbedingungen, die <ihn> sie zu dem gemacht haben, was sie sind, auffaßt,[3]
アングル・ブラケットの中は抹消箇所である。この文章は、『我等叢書』で、抹消箇所も含めて次のように翻訳された。
「<人類が云々であることに想到しない><現実な、個人的な、肉体を有する>人類は彼らの所与の<歴史的な>社会的関連において、<彼を>彼等を現に見るところのものに作りあげたところの、<彼の>彼等の現在当面の生活諸条件の下において理解せられていない。」[4]
この訳文では、抹消箇所が、リャザーノフ版と同様にアングル・ブラケットに入れられて、底本に忠実に訳されている[5]。
抹消箇所の翻訳の理由として、雑誌『我等』の凡例では、抹消された語句は、「共に編者〔『マルクス・エンゲルス・アルヒーフ』の編者であるリャザーノフ-引用者〕が本文の解釈に一定の関係あるものとして採録したもの」と述べているが、「フォイエルバッハ」章は、日本でのその最初の公表に当って、抹消文の解釈を伴って理解されるべき草稿として翻訳された。『ドイツ・イデオロギー』の執筆過程をめぐる日本の研究史は、ここにその礎石が据えられた。
さらに、『我等叢書』の翻訳は、1930年12月に刊行された改造社版『マルクス=エンゲルス全集』第15巻にそのまま転載された。
b) 由利訳
その後、リャザーノフ版は、踵を接して翻訳されることになった。『我等叢書』の「印刷進行中」[6]に、由利保一訳・竹沼隼人閲『リャザノフ編、マルクス・エンゲルス遺稿、ドイッチェ・イデオロギー、第一篇、フォイエルバッハ論』が1930年2月に永田書店から刊行された。訳者の由利による本書冒頭の「訳者より」で「『ドイッチェ・イデオロギー』に就いては既に我国に於いてもよく知られて居り」[7]と述べられていることから、1926年の初訳以降、「フォイエルバッハ」章がかなり知られるようになったことが分かる。
この翻訳も、「フォイエルバッハ・テーゼ」を含むリャザーノフ版の全訳である。
抹消文は、アングル・ブラケットではなく、パーレン( )に入れられた。また、パーレンで示された抹消語に時間的に先行する抹消語は、二重パーレン(( ))に入れられた。
抹消文について、この翻訳では、リャザーノフ版にはない独自の工夫がなされている。凡例を記した「訳者より」で、翻訳中の「側線」について次のように述べられている。
「抹殺語句の次に続く本文の語句に附した側線は、抹殺語句を本文と併せ読み続ける場合には側線を附した部分だけを除いて読む続くべきであることを示す符号である。言い換えれば側線語句と抹殺語句とは読下する際にいずれか一方のみを読むべきものであることを示す符号である」[8]。
リャザーノフ版では、抹消された語句は示されているが、それに代えて書き加えられた語句がどれなのかは示されていない。由利訳の「側線」は、抹消語がある場合に、抹消の後で加筆された語句を消して、最初の文案を知らしめるという工夫なのである。上掲の草稿10ページの当該個所は、由利訳では次のように訳出されている。
「(現実の、個々の、肉体をもてる)人間をその一定の(〔歴〕史的)社会的関係に於いて、(彼を)彼等を彼等が現にあるが如きものに作り上げた所の(彼の)彼等の現在の生活条件の下に於いて、解釈することをしない」[9]
由利訳では、パーレンに入れられた(彼を)と(彼の)を読んで、下線(由利訳は縦書きなので「側線」)が付けられた「彼等」(正確には「彼等を」)と「彼等の」を除けば、最初の文案が読み取れるというのである。
もちろん、このような試みのためには、改稿に関する解釈が必要になり、複雑な改稿の場合には誤った解釈の可能性も生じるのであるが、これについては、「訳者より」のなかで「思わざる誤解なきを保しがたい」[10]と率直に述べられている[11]。いずれにしても、リャザーノフ版の刊行後4年を経て、これほどに日本の『ドイツ・イデオロギー』研究は進んだのである。
c)三木訳
由利訳にやや遅れて1930年7月に、岩波文庫版の三木清訳『ドイッチェ・イデオロギー』が刊行された。
この翻訳では、リャザーノフの「編集者序言」は訳されたが、抹消文の翻訳は基本的に省略するという方針がとられた。先行の櫛田・森戸訳と由利訳で訳出された抹消文の省略の理由について、「訳者例言」で次のように述べられている。
「これらの抹殺された文字は、多くの場合、マルクス及びエンゲルスによって他の一層適切と思われる文字によって置き換えられているか、若くは完結された文章をなさず、従って今我々にとって意味不明なものであるかであって、一般の読者には必要がないので、この訳書では省いておいた。そうでなくて、置き換えられもせず、繰り返されてもをらず、且つその意味を理解し得る文章をなしている若干の箇所は、特にこれを翻訳して載せた。」[12]
三木訳では、引用文の最後に述べられているように、長文を成している「若干の箇所」は訳されている。しかし、抹消文は、「一般の読者には必要がない」ものとされ、リャザーノフ版で復元された抹消文のほとんどが訳出されなかった。訳者の三木にとって、抹消された語句は、「他の一層適切と思われる文字によって置き換えられている」から、不適切で誤った語句なのであり、「完結した文章」を成さない乱文は、「今我々にとって意味不明なもの」であるから、解釈の余地のないものなのである。ここから、抹消に関する情報は、不要なものとして無視された。
また、リャザーノフ版の脚注も、同様に「普通の読者には不要である」という理由ですべて省かれたのであり、三木訳では、この脚注で示されたマルクス筆跡の語句を一切知ることができない。
三木は、「このような省略は岩波文庫版にとって適当であると考えられたばかりでなく、またかうすることによって、この著作の繙讀が一層便利になり、一層多くの普及性をもつに至るということが何よりも訳者の願いであったのである」[13]と述べて、抹消文の省略の根本的な理由を文庫版の性格に帰している。大衆的な文庫版には執筆過程に関する情報は無用であり、最終文案のみの公表がマルクス主義の普及に役立つと考えられたのである。
「訳者例言」の末尾で、三木は、『ドイツ・イデオロギー』を「唯物史観の形成に関する最も貴重な文書」と呼んでいるが、抹消文の掲載と省略という取り扱いの相違が、「唯物史観の形成」に関する先行の二つの翻訳と三木訳との見識の相違を示している。
2. アドラツキー版の翻訳
1932年に旧MEGA第Ⅰ部第5巻が刊行され、「Ⅰ.フォイエルバッハ」だけでなく「Ⅱ.聖ブルーノ」、「Ⅲ.聖マックス」を含む『ドイツ・イデオロギー』の全編がそこに収録された。このいわゆるアドラツキー版をはじめて翻訳したものが、唯物論研究会訳『アドラツキー版/ドイツ・イデオロギイ』、ナウカ社、3分冊(第1分冊が1935年12月、第2分冊が1936年1月、第3分冊が1936年4月にそれぞれ刊行)である。「フォイエルバッハ」章の訳者は、松原宏、山岸辰蔵、森宏一であり、森宏一が、「フォイエルバッハ」章のみならず『ドイツ・イデオロギー』全体の監訳者である。
この翻訳の刊行の1年前に、唯物論研究会は、その機関誌『唯物論研究』に、リャザーノフ版とアドラツキー版との異同を示す表を載せた[14]。この表そのものは、両版における傍点(草稿では下線)の有無といった類の異同にすぎないが、表の前書で、両版が次のように評価されている。1934年夏以来、唯物論研究会哲学部が、アドラツキー版を検討する特別研究会をもったが(三木清訳の岩波文庫版が使われた)、検討の結果、「この版による編集が、リャザノフ版に比して如何に有機的統一性の脈絡において読解し得るかを、誰かれの別なく納得させられたのである」。これにたいして、マルクスのページ付けに従って草稿を配列したリャザーノフ版の編集は、「一言で言い現はせば、機械的であった」と評されたのである[15]。
アドラツキー版にたいする同様の評価は、アドラツキー版の翻訳の「邦訳者序言」でも繰り返されている。そこでは、この版本の翻訳を刊行する理由が次のように述べられる。「それは単に、アドラツキーによって『ドイツ・イデオロギー』が一の完成体に近き形態をとったというばかりでなく、それは真実のマルクス主義、弁証法的唯物論を我々の眼前に照らし出すごとき、原稿の整理編輯が行われているからである。即ちマルクス・エンゲルスの真意が汲み出せると思惟されたからである」。リャザーノフ版とアドラツキー版の比較検討を踏まえたうえで、アドラツキー版の編集による『ドイツ・イデオロギー』が「一の完成体に近き形態をとった」と称揚され、アドラツキー版が熱狂的に迎えられているのである。「真実のマルクス主義、弁証法的唯物論を我々の眼前に照らし出す如き、原稿の整理編集」と唯物論研究会が信じるアドラツキー版の編集とは、実は、『ドイツ・イデオロギー』の草稿を暴力的に寸断する編集であった。
アドラツキー版にたいする戦前の唯物論研究会のこのような評価によって、日本のその後の『ドイツ・イデオロギー』研究は、大きくその方向を転じたといえる。
3.『ドイツ・イデオロギー』研究史における廣松版の位置付け
ここで、櫛田・森戸訳並びに由利訳との関連で、『ドイツ・イデオロギー』研究史のなかに廣松渉版を位置づけておこう。
1974年に刊行された廣松版は、抹消箇所をアングル・ブラケット(< >)に入れて示している。これは、もとより廣松版の独創ではない。「フォイエルバッハ」章の最初の公表においてリャザーノフが採用した方法であり、櫛田と森戸が、すでに1930年に、リャザーノフ版で復元された抹消箇所のすべてを同じ方式で(雑誌『我等』の翻訳ではかぎ括弧で、由利訳ではパーレンで)翻訳していたのである。抹消文をアングル・ブラケットに入れる方式は、リャザーノフ版の忠実な翻訳という形で、廣松版の刊行の44年前の戦前期に知られていたのであり、けっして廣松版に発するものではないということは、日本の『ドイツ・イデオロギー』研究史を跡付けるうえで銘記されなければならない。
廣松版の独創性と言われているものは何か?これについて、廣松渉編訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫、2002年)の「補訳」者である小林昌人は、廣松版の中国語訳の刊行に際して、次の3点を挙げている。第1は、「手稿の添削過程が一目瞭然となっていること」、すなわち、「抹消された字句は、添削後の最終文型と区別できるように抹消記号を付けた小さな活字で本文中の当該箇所に復元され、また行間や欄外に追補された字句はイタリック体(邦訳と中国語訳では波下線)で印刷されて」いることである。第2は、「エンゲルスとマルクスの筆跡の区別が一目瞭然となっていること」である。第3は、「欄外に追補された章句や註記、覚書等が一目瞭然となっていること」である[16]。
これらの3点が、真に廣松版の独創性であるのかを見てみよう。
第1点として挙げられている、抹消された字句の復元方法は、上述のようにリャザーノフ版がはじめて採用した方法であり、アドラツキー版もこれを踏襲した。そして、戦前の日本の翻訳によって、この方式が知られることになった。
「イタリック体(邦訳と中国語訳では波下線)」というのは、エンゲルスが修正を加えた語句である。エンゲルスが、抹消された語句に代えて行間や欄外に加筆した語句がどれであるのかを、リャザーノフ版は示していない。しかし、アドラツキー版は、巻末の「異文明細(Textvarianten)」で、エンゲルスによる加筆を「e」という記号を用いて報告しているのであり、廣松版のテキストでは、この記号が付けられた語句をイタリック体にしたにすぎない。したがって、アドラツキー版でエンゲルスの加筆であることが見落とされている語句が廣松版でも加筆とみなされないのは、当然のことである[17]。
第2点として挙げられている「エンゲルスとマルクスの筆跡の区別」とは、廣松版の「原文テキスト篇」で、エンゲルスの筆跡とマルクスの筆跡をそれぞれローマン体とボールド体で区別していることを指している。
マルクスの筆跡の語句については、すでにリャザーノフ版の脚注で報告され、そして、この脚注は、『我等叢書』の櫛田・森戸訳並びに由利訳で全文が翻訳された。したがって、マルクスとエンゲルスのいわゆる「持分」問題が存在することは、事実上、1930年の時点でこれらの翻訳の読者の知るところとなっていたのであり、マルクスの記載箇所がどれであるかも、同様にこれらの翻訳によって知られていたのである。廣松版は、マルクスの記載部分をボールド体にし、この書体にすべき部分をアドラツキー版によって補充しただけである。
櫛田・森戸訳並びに由利訳の訳文のなかで、リャザーノフ版の脚注にもとづいてマルクスの筆跡の語句を太字にし、さらに、アドラツキー版の「異文明細」を使ってエンゲルスの加筆部分に波線を付ければ、廣松版が出来上がる。
廣松版の独創性のなかで残るのは、第3点として挙げられている欄外の加筆だけである。
『ドイツ・イデオロギー』の修正は、左欄の行間と右欄とを使って行われた。右欄に記された挿入文は、左右両欄における+という記号によって、左欄への挿入箇所が示されている。あるいは、左欄の修正は、左欄の行末から右欄の数行にわたって連続して書かれる場合もある。草稿におけるこのような記載状態は、極めて複雑であり、草稿を実際に見たものでなければ、けっして知りえないのである[18]。
しかし、リャザーノフ版とアドラツキー版では、右欄における記載に関する情報は、左欄の叙述から独立した長文以外には、あたえられていない。新MEGA試作版は、そのテキスト部分で左右両欄に分ける方式を採ったが、本文の修正を左欄に組み込む原則にもとづいて、右欄に印刷されたものは、左欄の叙述から独立した長文と覚書(たとえば、「フォイエルバッハ。」、「自己疎外」など)に限られた。このため、右欄に印刷されたページは、ごく僅かなものに留まり、ほとんどのページの右欄が、空白になったのである[19]。
草稿を見ずに編集された廣松版では、先行諸版のこの僅かな情報にもとづいて右欄が印刷されたのであり、見開きの右ページ(草稿の右欄を示す)のほとんどが、新MEGA試作版と同様になったのである。新MEGA試作版と異なるのは、清書稿の一部を恣意的に右欄に配列したことだけである。
先に引用した小林論文では、「欄外に追補された章句や註記、覚書等一目瞭然となっていること」が、廣松版の「三つの大きな特長」の一つとして挙げられ、他方で、新MEGA試作版における左右2欄の印刷について、「折角の二欄組も有効に活用されているとはいえません」と批判されているが、この評言は、そのまま廣松版に当てはまるものである。
さらに、廣松版では、新MEGA試作版で右欄に印刷された上記の覚書は、「ここあたりの欄外に」という但し書きを付して各ページの脚注で示されており、見開きの右ページには印刷されなかった。新MEGA試作版と廣松版の「原文テキスト篇」とでは、1行の文字数が異なり、草稿を見たことのない者には、印刷されたテキストのどの行に覚書を配列すればよいのか特定できないからである。
要するに、廣松版の独創性と呼ばれるものは、すべて先行諸版に帰せられなければならない。
このことよりも、『ドイツ・イデオロギー』研究史のなかに廣松版を位置づけるうえで決定的な問題は、この版とアドラツキー版との関係にある。
アドラツキー版は、『ドイツ・イデオロギー』の草稿を暴力的に寸断して配列した版本である。これが、戦前の唯物論研究会によって熱狂的に迎えられ、また、戦後の岩波文庫版(古在由重訳、1956年)や『マルクス=エンゲルス全集』第3巻(大月書店、1963年)の底本となった。
廣松渉は、草稿の暴力的な配列を理由に、アドラツキー版を「偽書」と呼び、廣松版では、リャザーノフ版と同様に、テキストがマルクスのページ付けに従って配列された。しかし、廣松版における修正過程の復元は、全面的にアドラツキー版に依拠したものであり、アドラツキー版の根本的な欠陥をそのまま引き継いだのである。この意味で、 廣松版は、「『ドイツ・イデオロギー』の編集史を1932年の水準に逆行させ」たのである[20]。この事実は、日本で長く知られることがなかった。アドラツキー版を「偽書」と断じた廣松渉自身が、このことにけっして触れなかったからである。
戦後2度目の岩波文庫版である廣松渉編訳、小林昌人補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』は、アドラツキー版の根本的欠陥を踏襲した廣松版を渋谷版にもとづいて改めたものである。この岩波文庫版は、廣松渉編訳と称しながら、1974年に刊行された廣松版と別のものである。
岩波文庫版の「補訳」者である小林昌人は、廣松版がアドラツキー版に依拠した版本であることをひた隠しにしながら、文庫版の「解説」で「河出版の原文テキスト篇は、現在でも国際的水準のトップにある」と述べ[21]、前掲の論文でも「私はこの思いをますます強くしております」と繰り返している[22]。
このような虚言を排し、廣松版を日本の『ドイツ・イデオロギー』研究史のなかに正確に位置づけることなしには、この草稿の研究の進展はありえない。
[1] Marx und Engels über Feuerbach, Der erste Teil der „Deutschen Ideologie“. Herausgegeben von David Rjazanov. In: Marx-Engels-Archiv, Zeitschrift des Marx-Engels-Instituts in Moskau, I. Band, Frankfurt a.M. [1926].
[2] 『我等叢書』第4冊、1930年、2ページ、参照。
[3] Siehe Marx-Engels-Archiv, I. Band, S.244. リャザーノフ版は、抹消語の報告についてかなりの遺漏がある。上掲の引用文で、ihrem gegebenen の前に記されるべき seinem という抹消語が報告されていないし、Mens[chen] の直後のdie は、den をdie に変えたものである。また、文頭のso は、抹消されている。
[4] 『我等叢書』第4冊、90ページ、参照。
[5] 『我等』の初訳では、リャザーノフ版で用いられたアングル・ブラケットが、小かぎ「 」と丸括弧( )に変えられている。上掲の引用文では、「歴史的」と「彼を」が丸括弧に入れられ、他の抹消箇所は小かぎに入れられている。小かぎと丸括弧の区別の理由は、不明である。なお、この引用部分でも、『我等叢書』の訳文は『我等』に比べてかなり改訂されている。
[6] 『我等叢書』の「訳者例言」の末尾で次のように述べられている。「終わりに、本書の印刷進行中由利保一氏訳・竹沼隼人氏閲のよい翻訳が永田書店から出た。なお、三木清氏の翻訳も近々岩波書店から出版されるということである」。『我等叢書』第4冊、4ページ、参照。
[7] 由利保一訳・竹沼隼人閲『ドイッチェ・イデオロギー』、1ページ、参照。
[8] 同上、2ページ、参照。
[9] 同上、58ページ、参照。リャザーノフ版の冒頭の <kommt er nicht dazu, die Mens[chen] > という文章は、由利訳では、本文ではなく脚注で「するが故に彼は人〔間〕を≪………≫するに至っていない」と訳されている。
[10] 同上、2ページ、参照。
[11] 例えば、由利訳の上掲の引用文でも、「社会的」は「歴史的」からの変更であるから、「社会的」に「側線」が付けられなければならない。
[12] 三木清訳『ドイッチェ・イデオロギー』岩波文庫、1930年、2-3ページ、参照。
[13] 同上、3ページ、参照。
[14] 森宏一、山岸辰蔵、中島清之助「ドイッチェ・イデオロギー両版比較―アドラツキー版とリャザノフ版―」、『唯物論研究』第24号、1934年10月、163-178ページ、参照。
[15] 『唯物論研究』第24号、165-166ページ、参照。
[16] 小林昌人「廣松版『ドイツ・イデオロギー』の編集史上の意義」、『情況』8・9月号、2005年、148ページ、参照。この論文は、中国では、2005年に『南京大学の学報』(2005年第5期)に中国語訳が載り、2010年12月にも『社会批判理論紀事』に転載された。この論文では、これら3点が、「廣松版の組版」の「三つの大きな特長」と言われている。
[17] 「フォイエルバッハ」章の草稿17ページ(マルクスのページ付け)で、「狩りをし」、「漁をし」、「家畜を追い」、「狩師、漁夫、<あるいは>牧夫…になることなく」というエンゲルスの記載を加筆とみなしていないという廣松版の重大な誤り(廣松版、「邦訳テキスト篇」、34ページ)は、上記の問題の顕著な一例である。これについては、次を参照。渋谷正・大村泉・平子友長「再び廣松渉の『ドイツ・イデオロギー』編集を論ず――張一兵と小林昌人の空虚な『反批判』を駁す――」、『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』48号、61-63ページ。
[18] 渋谷正編・訳『草稿完全復元版ドイツ・イデオロギー』、新日本出版社、1998年、参照。
[19] 『マルクス・エンゲルス年報2003年』も、同様である。
[20] 「『ドイツ・イデオロギー』はいかに編集されるべきか」、『経済』、新日本出版社、2044年2月、174ページ、参照。
[21] 廣松渉編訳、小林昌人補訳『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』、314ページ、参照。
[22] 小林昌人「廣松版『ドイツ・イデオロギー』の編集史上の意義」、156ページ、参照。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study382:110213〕
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