ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(10)沖縄全戦没者追悼式
- 2016年 7月 25日
- カルチャー
- 内野光子:歌人
6月23日も、朝から暑い。県庁北口からは、追悼式会場の糸満市摩文仁まで直行のピストンバスで出る。まだ9時前の早めのためか、空席を残しての出発である。途中の渋滞もなく、かなり早くに着いた。「平和の礎」には、お参りの方々やそれを取材する人たちで、かなりにぎわっていた。
まだ誰もいない式典会場
平和の火ともる
左手前の平和の礎の向こうは、右手、朱の屋根の沖縄県平和祈念資料館、左の白い塔、平和祈念堂である
琉 球放送の取材班にが囲まれているので、手を休めたカメラマンに、「どういう方ですか」と質問すると、「いや私たちも知らないけどいいお話をされているの で」とのこと。ツアーの若いガイドさんと思たのだが、別の場所で二人連れで歩いていたので、質問すると、琉球大学の学生さんで夏休み明けに、生協関係の学 生が全国から集まるそうで、その時のガイドのリハーサルだったそうだ。
三線を弾いて、慰霊するお年寄りとお孫さんか、ここにもカメラが。
摩文仁の丘に一帯に広がる各都道府県はじめ地域、様々な職業・業界ごとに建てられた慰霊塔が散在しているが、今回は、追悼式会場を離れないことにして、平 和祈念資料館に入館、なかは涼しい。やはり早めの到着の翁長知事や国会議員らが、控室でもあるのだろうか、足早に通り過ぎてゆく。
企画展「沖縄の戦争孤児」が開催中であった
開会まで1時 間半はあったが、入口の列も動き出したので、入場する。物々しいボディチェックを受けて、プログラムをもらって、テント下に着席。しばらくは涼しいと思っ ていたが、下の芝生からも熱気があがってくる。席の周りは、年配の方が多い。隣の方も斜め後ろの方も、肉親を沖縄戦で亡くされているという。報道陣の動き があわただしくなってきた。SPの眼付も険しくなってくる。平和行進の方々が到着、前の方に着席する。テント下は満席、周辺に立つ人も多くなってきた
再入場の札をもらって、会場外のお茶を買いに
平和行進入場
11時50分開会、来賓らが入場、県議会議長の式辞、12時 黙とう、献花。翁長知事の熱のこもった「平和宣言」、小学生の仲間里咲さんの詩「平和ぬ世界どぅ大切」の朗読に続いて安倍総理のあいさつだった。何せ席か らは遠いもので中央での式の進行が分かりにくい。安倍総理の挨拶は、こんかいの米軍軍属の「犯人憎し、犯罪抑止」を強調しても、基本的な解決にはならない だろうにと、予想通りの発言の終わりを機に会場を抜け出した。太陽の照り付けは、半端でない暑さの上、私たちは、ピストン輸送のバスを乗り間違え、30分ほどのロスをした。摩文仁を離れる頃に、要人も移動し始めたのだろうか。警備もご覧の通りの過剰さであった。
翁長知事登場、望遠があったらなあ
警備の青い制服がどこまで続く
那覇への帰り道は、相当の渋滞で、那覇空港の離陸時刻に間に合うか、かなり気をもんだが、結果的に航空機の到着・整備の遅れで、私たちの便は20分遅れの離陸となった。どっと疲れが出たなかで、沖縄の旅も終わった。
翌日の報道によれば、式典への参加者は4700人という。また、『琉球新報』によれば、沖縄各地での慰霊の集い学習会などが開催されていたこと、参院選での伊波・島尻対決が本格化したことが報道されていた。
そして、いま、沖縄では、参院選でも民意が示されたのにもかかわらず、本島北部の東村高江のヘリパットの工事再開が強行され、辺野古の国と県の訴訟におい て、和解後には「協議続行」の裁定があったにもかかわらず、国は、県を訴え、「陸上」工事再開するという。この現実を、私たちはどう受け止めるべきか、他 人事ではないはずである。
すでに、あの日、6月23日から1か月も過ぎてしまっていた。世界でも、日本でもいろいろなことがありすぎた。この沖縄訪問の記録も、ようやく最後の10回 目になる。こんな駄文を書きつらねて何になるのかと思い、むなしさが募るばかりの日々であった。それでも、続けてこられるのは、お訪ねくださる読者いらっ しゃること、さらに自分が知らなかったことの多さが分かり、少しでも、ものを知ることの確かさが得られるからでもあるのだが。
初出:「内野光子のブログ」2016.07.24より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html
記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0292:160724]
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