自省論(自省すべきはちきゅう座・左翼・リベラルではないだろうか?)
- 2016年 8月 3日
- 交流の広場
- 武田明
僭越ながら重要な事だと僕自身は思っていますので以下のように認(したた)めてみます。
醍醐聡先生と紅林進氏の都知事選省察を読んで、自省すべきは、民進党、野党共闘より前に、われらちきゅう座ではないだろうか?
その様に、感じていた。
みな、間接的に、鳥越氏批判、宇都宮氏批判、又は、鳥越批判による宇都宮擁護の論をツイッターなどで展開している訳であるのだが、そこに、真の意味での自己批判が含まれていない事に不満を感じていた。
案の定、醍醐聡先生さえその自省に辿り着いていない。
しかし、選挙当事者関係者そのものではないから評論家的にならざる負えないと醍醐先生も国民、都民も責任逃れをする傾向は、昭和無責任支配論の域を今だに越え出ていない問題点をここに感じるのだ。
「国民が主役である。都民が主役である。聞く耳を持つ知事を。」
この民主主義の反転、独裁者を一人選ぶのではない民主主義的逆説の意味が分かっていない制度上の矛盾を突かねば先に進まないと言う訳である。
(この心は、後ほど述べる)
僕としては、敗因をこの昭和無責任支配に見ているので、鳥越氏自身を擁護したいと考えている。
まとまりのない野党共闘を立候補前にまとめる力を持っていたのは紛れもなく鳥越氏であり、それ以後の「たられば」古賀氏であるなら宇都宮氏一本化ならはあり得ないと言う事だ。
この煮え切らなさが無責任支配そのものの在り方の一つでもある。
しかし、大統領権限にも匹敵する都知事を選択するとしてもわれらは、その独裁システムに対して、民主、共闘、連携として対置しているのだが、再び、裸の王様としてしまったのが、最大の敗因である事に気が付かねばならないのだ。
一人では、天皇陛下でさえ、同じ結末を迎えるであろう。
勿論、都議会もあり、都知事は、独裁者ではないと言うかもしれないが既に、繰り返し、民主制が、ヒトラーを産みだすのではないかその危機を憂いながらあるのは、システムとして、一人を選び出すシステムであるからであり、それに抵抗するのが、「リベラル」「野党共闘」としての連携から真に一人を排する方法論は、無数に存在していたのに、そのメリハリを活用していない事が問題であると言う事である。
では、どうすべきと言うのか?
まずは、小池百合子氏の実相を都民の前に明確に示す事が出来なかった。
これは、鳥越候補の役割ではない。
周辺で充分できる事柄である。
①自民党を離党していない、真に非自民党系候補ではない。
②岩上安身IWJで指摘されている政治資金疑惑について広報が不十分であった。
③今、話題の日本会議との関連性があり、弱者切り捨ての側面がある。
しかし、無党派層へのアプローチは、自民党権力に女性の身でありながら飛び出して戦うヒーロー、小泉劇場としての側面、その虚構を暴いていく情報操作性への対抗が不十分過ぎた。
このシュミレーションは、野党共闘側から暴いて、鳥越氏に舞台を渡すのでなくてはならないはずである。
繰り返す政局、選挙シュミレーションとして、「知名度」もその要素であるのだが、浸透している鳥越氏のイメージに対して何ら後押しして、参議院、そして、都議会の自公支配に対して国民、都民と一体として、「共和制」として、「団体交渉」代表者としていく都知事選としようとしていこうと言う気概がない、「政治学」の基本を知らないと言うのが、万年的最大の敗因であると言う事が気が付かれていないと言う事である。
この政治学の整備基盤、基礎化こそが、「ちきゅう座」または、大学の役割でもあるのだが、何故、今だに分析がすすんでいないのかの自省が必要であるだろう。
更に、「聞く相手のことを考える」「わかり易さ」を尽くしていこう。
鳥越氏は、76歳であり、癌サバイバーと言う弱者を代表している事は、むしろ、プラスの要素であると僕は考えている。
人は、いつ死ぬかわからない。若死にする人も多くいる中でも、76歳と言う年輪を重ねた場合どの様な境地として「世界」「政治」を見るべきかと言う事であり、鳥越氏は、むしろ、社会党左派よろしく、「左翼」的体現を持っていた候補そのものであったが、平成年間の今でさえ「リベラル」「左派」が、曖昧なままであって煮え切らないどちら着かずなままで深化せずあるあり方を示していたちきゅう座知識人文化人そのままの姿であった自省こそ必要であると言う事。
これを問題としたいと言う訳である。
この基盤は、やはり、鳥越氏一人で作るものではない。
むしろ、お膳立ては、学究にあるこちら側ちきゅう座が、率先用意していなくてはならなかったものであり、「リベラル」と言う曖昧な国語概念としても、それは、中国、北朝鮮など社会主義国に囲まれていると言う意味でも、地政学的にも妥当であるのか?
この体系的なる歴史地政学的整理を持って、野党共闘を象徴的に取りまとめられた鳥越氏に援護射撃出来ないのが烏合の衆としての「野合」であり、愚民性、となっている事、非実践的知性、反プラグマティズム、理解に届いていない前近代主義的都政の在り方であった事である。
では、アメリカ大統領選挙によるトランプ旋風から学ぶものとは何であるだろうか?
人工知能が、発達している中にあって、選挙シュミレーションとして理解されていなくてはならないものが理解されていなかった。
まずは、情報戦は、忍者の昔からあった。カムイ伝に戻るべし。
①百合子グリーンに対して、ゴレンジャー的に、鳥越氏は、青だけをただ象徴するのではなく、黄色、赤色、桃色、「野党共闘」一色ではなく集まっているのだと示す、選挙戦対話を展開すべきであったのであり、
鳥越氏自身が、見に行く事が出来ないのだから「野党共闘」連携政治ボラの仕事であっただろう。
しかし、僕自身も体が一つであり、ツイキャスにて、鳥越氏しか追っておらず、ど~でも良い上杉隆氏を時々見ていたり、桜井誠氏ツイキャスにて、同時閲覧2000人近くは何故だろう位にしか眺めていなかった事を自省する。
小池百合子当選確実が出てから、百合子グリーン作戦やガラスの仮面作者が、青林堂よろしく本質を見極める事もなく応援に回っていた策略性に気が付いた事の問題である。
天皇陛下も、鳥越氏もご高齢であり、グリーンに対抗して戦隊シリーズごっこしたくないと思うかもしれないとしても、若い人が、改憲勢力3分の2対抗、盛り上げとして提案する事、「裸の王様」としない、「都民みんなの都知事」「独裁者を選ぶのではない団体交渉権代表者知事」その横への広がりが必要であった。
都知事が激務となるのは、一人に全てを押し付ける無責任都政が続いているからであり、これについては、象徴天皇制、今日ある「生前退位」にも絡めて説明の必要もない事ではないだろうか?
②政策対話について。76歳までの左翼、もしくは、アジア地政学的視点の体系化は、まさに、ヘーゲル論から壊れている問題が、日本の前近代性であり、大いにちきゅう座、責任政治学的自省をしていただきたいと言う事がこれである。
チャンスを潰したのは、無責任都民評論家然とした在り方であり、折角のチャンスを潰したのは、鳥越氏ではなく、今後は、この教訓を持って、再び、高齢者を排除しない象徴憲法護憲で気持ちを改めて頂きたい。
鳥越氏を批判する事は、#ヒトラーの思想襲撃事件と同じ、ヘイトクライムであり、差別主義となる事を理解していただきたい。
全ての人が、癌サバイバー、認知症サバイバーとして、育児介護時代、医学独占、TPPとの戦いを足元化出来ないとしたなら何の為の「リベラル」「野党共闘」「アソシエーション連携」
独裁システムたる疑似民主主義からシン・共和制民主主義、団体交渉議会主義であるのか!?
政治学を早急に、体系的に取りまとめ、再び現出したる都知事選「ビルマの竪琴」情報密室の悲劇を繰り返さないようにして頂きたい。
それ以上に、ちきゅう座には、問題が山積している。
テント日誌7月31日…緊急連絡 最高裁の決定(高裁判決支持)が出た
http://chikyuza.net/archives/65140
訃報 塩川喜信さんのご逝去
http://chikyuza.net/archives/65101
(これまで儀礼に立ち会う事もなく奔放に生きてきた僕自身の報いもあり言葉もありません。これが精一杯の言葉。お許し下さい。)
付録:都知事選哲学ノート、草稿、シュミレーション考察
http://akiratakeda2001.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-1fdd.html
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