日本のメディア報道の在り方について考える-アメリカの大統領選挙報道を参考にして
- 2016年 10月 7日
- 交流の広場
- 山川哲
メディアの報道姿勢の根幹は、どちらか一方への偏りを持たず、中立な姿勢での報道を心掛けることにあるといわれる。もちろん、この事は傍で考えている以上に難しいことであろう。というのは、いずれにせよ必ず報道者の意識がそこに入らざるを得ないからである。「事実」とは、どこかわれわれの外側にそれ自体で存在するものではなく、ある事象は、それが意識対象として考えられた時に既にそこに起きている分節化(対象と対象意識)の総合としてのみありうるからである。
ともあれ、日本のメディア報道の在り方を反省する素材として、今、試みにアメリカの大統領選挙の予備選挙に関する日本での偏向報道について考えてみる。
言うまでもなくこの選挙戦は、「史上最悪、最低の選挙」と(少なくとも日本を除く)各国メディアによってたたかれている。しかし、不思議なことに日本のメディアは、公共放送も含めて一方の側に対しては罵倒し、これ見よがしに貶すのであるが、他方の側に対しては全く好意的で、少々の過失は大目に見ようとする露骨な傾向を示している。
一方は全くの野蛮人で、無教養で、世間の常識を欠いた粗野な人間であり、世界の情勢や国際感覚を全く持ちえず、国内的にも暴言を吐くばかりでしかないと、全くの非難にさらされている。それに比べて、他方の側は、少し位の過失はあるかもしれないが、先人と全く対極的なインテリで、常識も良識もわきまえた、政治的経験の豊かな文化人という触れ込みである。こんなに正義と悪がはっきり区別されて闘われる選挙はかつてなかったのではないだろうか。
そして、それにもかかわらず、アメリカ国内では両者の支持者の数は全く均衡状態であるという。これは何を意味しているのだろうか?少なくとも私には、実に不思議なことに思える。アメリカ社会が「危険な状況にある」ことの現れか?それなら、インテリの文化人といわれる側にも同様な危険が孕まれていると(日本以外では)暗に指摘されてのではないのか?第一「どういう危険が待ち構えている」というのだろうか?アメリカの既得権力層や日本の為政者にとって「都合が悪い」ということなのか?
良かれ悪しかれ、アメリカ国内で地殻変動が萌しているのではないのか?
ここで日本の偏向報道と比較検討すべく、ドイツの報道(DIE ZEITのonline)を少し覗いてみたい。DIE ZEITはドイツ人の間では、「かなり中立性を保っている」と言われている。そして、この間の「アメリカ予備選挙報道」では、少なくとも両陣営を相互に五分五分の形で取り扱って掲載しているように思われる。例えば、以下のように。
「だからクリントンは負けるのかもしれない
支持者及びコメンテーターたちは、候補者への支持が方向転換したと思っている。しかしながら、クリントンはテレビ討論で勝利したにすぎず、相変わらず多くの問題を引きずっている。」
ここでは第一回目のテレビ討論会で、有利に立ったと浮かれている側への警告である。かと思えば、次のようなクリントン有利、トランプ批判の報道もされている。
「クリントンはリードを拡大している
アンケートはクリントンがテレビ対決で再びはっきり前に出たとみている。だからドナルド・トランプは次の討論の際には醜聞(汚らしい秘密)の覆いを取る(暴露する)と脅しているのだ。」
また、「ドナルド・トランプ:『彼女はむかつく(卑劣だ)が、俺はそうではないだろう』
ドナルド・トランプは彼の競争相手に個人的な攻撃を仕掛けようとしている。彼はヒラリー・クリントンの夫の不貞をテーマにしたがっている。」
「クリントンは恐らく女性で初のアメリカ大統領になるだろう。彼女は2008年にバラク・オバマに敗れて以来二度目の立候補である。2013年まで彼女は外務大臣(国務長官)を務めていた。」
「事業家で億万長者のトランプは政治的な経験は全くなく、ポピュリスティックな発言と方針とで目立っている。」
「真実は敗者のくたびれ(松葉づえ)である
ドナルド・トランプにとって存在しているのは何ら現実ではなくて、ただの現実的な見世物にすぎない。事実はもはや何らの値打もない。結局のところ、あらゆる価値をポストモダン的に再評価することがその目的なのだろうか?」
ここまでは、確かに日本と同じような内容の報道の仕方と思われがちである。しかし、続いて、こういう報道もされる。
「(ドイツ)政府はトランプにどのような心構えをしているのか?
トランプはNATOを廃止しようとしているのか?ドイツにとって彼の選挙はどのくらい高くつくだろうか?あるニュースによれば、ドイツ大使は、トランプの親しい人と規則的に会っている」
「5カ月間、民主党と共和党の間の予備選挙が続けられている。クリントンとトランプはその都度多数派になっている。」
要するに最初からどちらかに軍配をあげた形での報道はなされていないのである。
「ヒラリー・クリントン対ドナルド・トランプ:ホワイトハウスに入るのが誰かは、11月8日に選挙民が決めるだろう。」
こういういわばありきたりな報道こそが「まっとうな報道」なのではないだろうか?報道が、選挙戦の最中に(あるいは序盤戦から)一方的に決め付けた姿勢で臨むのは、どこかの国の「大本営発表」と同じことの繰り返しに過ぎないのではないだろうか?
その上で、次のようなまっとうな「警告」も乗せられていた。
「秘密情報機関(シークレットサービス)は選挙制度へのハッカー攻撃を警告する
米国国土安全保障省によれば、未知の容疑者が電気投票機をこっそり探り出している。彼らの選挙中の操作を阻止するために、当局はあらかじめ備えなければならないだろう。」
以上、ここに一例をあげたことからもおわかりなように、日本の偏向報道は既にあまりにもひどいと言わざるを得ないところまで来ているのである。改憲世論、沖縄基地移転、原発再稼働などへの国民的な賛同をつくりだすために、政府、報道機関(国営放送も民間放送も、一部の良心的なものを除く大多数の新聞も雑誌も)をあげての大宣伝である。このような傾向に大いに警告を発したい。また、自分たちの現実の生活との関係に絶えず目を配り、これらが何を意図してなされているのかに注意して頂きたいと願う次第である。
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