『女官たち』・高師直・天皇制
- 2016年 11月 17日
- 交流の広場
- 中野@貴州
お久しぶりです。中野@貴州でございます。
今張一兵さんの『フーコーへ帰れ』の翻訳作業に打ち込んでいます。やや余裕ができたので、それにまつわる三題噺を・・・。
フーコーが『言葉と物』で、ベラスケスの『女官たち』の解説(こじつけ?)をしたのは、みなさんご存知だと思います。
フーコーは、「この絵のテーマは、画面の手前の見えざる空間にいる、見えざる国王夫婦であり、画中のベラスケスが描いているのも国王夫婦である」と述べ、「見えざる権威」がこの絵の空間を支配していると結論付けていますね。
ただ、ベラスケスは、「まったく見えないんじゃ不親切だろう」と、この絵の観衆にちょっとサービスをしています。はい。画面奥の鏡に映る国王夫婦の姿ですね。
このフーコーの解説なるものが、こじつけであるかどうかは、私にとっては、この際どうでもいいことです(実は、張一兵さんは「こじつけ」であると主張しているのです。それは日本語版出版までのヒ・ミ・ツ)。
私はこのフーコーの「こじつけ」に乗ろうと思うんです。三題噺というのは、もともと噺家さんが即席に作った「こじつけ」なんですから。
では、フーコーの「こじつけ」に乗りましょう。そうすると、国家の表象が、画面には不在の「国王」ならば、「鏡の中の国王」は「表象の表象」になるわけですね。
はい。ここからは、私自身の「こじつけ」です。そこで、第二のお題が出て来るわけです。高師直です。「帝や院などというものが必要ならば金で作ればいい。生きた帝や院は島流しにすればいい」。同時に第三のお題も出ましたね。いやはや、この師直の名文句は、丸山 眞男より鋭く天皇制の本質を突いていると思いますよ。
フーコー流にこの名文句を解説すると、「国家の権威は『場の空気』のようなもので直接には見えない。だから、生身の人間である天皇の姿を借りて目に見えるものとして現れる。すなわち、天皇は国家の権威の表象=象徴にすぎない。それならば、あの鏡の中のフェリペ4世のように、『表象の表象』(金でできた像)でもいいじゃないか。よからぬことを考える生身の表象は必要ない」。
表象=象徴を突き詰めると、間違いをおかす生身の人間よりも、金の像のほうがずっといい。「天皇は日本人の心のよりどころだ」とおっしゃるウヨクの方々はここまで考えていらっしゃるのでしょうかね。
いやはやトンデモナイこじつけでございました。
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