松本竣介とジョージ・グロッス
- 2017年 1月 1日
- カルチャー
- 髭郁彦
神奈川県立近代美術館鎌倉別館で10月8日から12月25日まで開かれていた「松本竣介:創造の原点」と題された展覧会に11月の終わりに行ってきた。絵だけではなく、彼の撮った写真や手紙といった松本竣介についての貴重な資料が数多く展示された、極めて示唆に富んだ優れた展覧会であった。多くの興味深い展示物の中で、とくに私の関心を引いたものは、竣介によるジョージ・グロッス (George Grosz) の人物画に登場した多くの顔の模写であった (二人の名前の表記問題に関しては後述する)。すぐに何かを書きたいと思いながらも雑事に追われた私は、松本竣介の絵画におけるジョージ・グロッスの影響という重要な問題をじっくりと考えることができなかった。展覧会が終わってやっと時間ができた私は、今更このテーマについて書くのは止めて別のテーマについて書こうかと思った。しかし今書かなければ永久にこのテーマについては書けないという強い予感があった。絶対に何かを書くべきだ。そう決意した私はペンを握った。
『新潮日本美術文庫45:松本竣介』に収められた水谷長志によって作られた年表によると、松本竣介がジョージ・グロッスの絵に注目し始めたのは25歳から26歳の頃であったらしい。1937年から1938年のことである。その頃、竣介はグロッスの絵の模写を何度も行った。今回の展覧会にも前述したようにグロッスの絵の中の人物を多数描いた模写が一枚、グロッスの影響が濃い作品が何点か展示され、グロッスの線画も二点展示されていた。また、竣介が愛読した柳瀬正夢編『無産階級の画家:ゲオルゲ・グロッス』も陳列されていた。竣介の模写にはグロッスが描いた様々な階級の、様々な表情をした老若男女の顔が写し取られていた。そこにあった人物の顔と類似した顔が竣介の絵にはっきりとした形で登場しているとは言い難いが、グロッスの描いた人物に対して竣介が強い関心を持っていたことは確かである。
だが、竣介の興味はグロッスの絵の構図やタッチといった技法にのみ係わっていたのではなく、絵画を通して語られる画家の思想とも深く関係していたように私には思われた。グロッスはダダイストであり、強烈な政治意識を持ってドイツの軍国主義体制と対決した。彼の絵にはその思想が如実に表されている。もちろん、竣介の絵が反体制的イデオロギーを強く主張するものであると言うことはまったくできない。グロッスに影響されたと思われる都市空間を描いた作品もグロッスの作品とは異なり、醜い現実を極端にデフォルメして告発するというものでもない。都市の持つ陰鬱さや疎外感が表現されてはいるが、竣介の絵にはどこか淡く、幻想的な側面が提示されている。それゆえ、竣介の絵はグロッスのもののようではあるが、グロッスのものにはない何かが表現されている。しかしながら二人の作品にはやはり多くの類縁性が存在している。では、グロッスの絵の如何なる点を竣介は受け継いだのか。如何なる点で二人の絵は異なるのか。竣介がグロッスの絵をベースとして新たに創造したものがあるとすれば、どのようなものであるか。こうした問いに対して真剣に答える必要があると私は考えた。
グロッスとベルリンダダイズム運動
今述べた問題を考えるために、まずはジョージ・グロッスという人物と彼の描いた作品について語らなければならない。宇佐美幸彦の『ジョージ・グロッス―ベルリン・ダダイストの軌跡―』(以下サブタイトルは省略する) によると、グロッスは本名をゲオルク・グロース (Georg Groß) と言い、1893年にベルリンで生まれた。幼い時分から絵の才能が開花し、早くから当時の権威主義的なドイツを嫌い、自由の国と見なされていたアメリカに憧れを抱いていた。第一次大戦中の1916年、ドイツ嫌いが高じ、アメリカ人風の名前であるジョージ・グロッスに改名した (それゆえ柳瀬正夢のようにゲオルゲと表記するのは間違いである)。彼は第一次世界大戦中からワイマール共和国時代にドイツダダイズム運動の中心人物として多くの風刺画を描いただけではなく、多くの詩も書いた。しかし1933年にヒトラーが率いるナチス党が政権を奪う直前にアメリカに渡り、1938年にアメリカ国籍を取る。1959年ドイツに戻り、その年にベルリンで死去した。アメリカに渡った後、彼は作風を大きく変えたが、竣介が影響を受けたグロッスの作品は第一次大戦期からワイマール共和国期のものであるため、ここではこの時期の作品を中心として彼の絵画について概観していくことにする。
この時期のグロッスにとって最も大きな出来事は先ほども述べたようにドイツダダイズム運動への参加である。『ジョージ・グロッス』を読むと、彼の創作活動がダダイズム運動と連動していたことがよく判る。さらにドイツのダダイズムの目的が政治運動と芸術活動との融合による反体制的プロテスト行動であったことが理解できる。雑誌に掲載するためにその多くは線描によって表現されたグロッスの挿絵は、権力者の暴挙への抵抗、残酷さへの怒り、野蛮さへの告発に満ちていた。暴力の権化である将軍たちは醜くデフォルメされ、悪魔のような残忍な姿で表現されている。だが、ここでグロッスの作品について詳しく語る前にダダイズムについて説明しておく必要がある。
ダダイズムはスイスのチューリッヒの「キャバレー・ヴォルテール (Cabaret Voltaire)」で産声をあげた。スイスのダダイズム運動はこの店を活動拠点として、ドイツの作家・詩人のフーゴー・バル (Hugo Ball)、同じくドイツの詩人・作家であるリヒャルト・ヒュルゼンベック (Richard Huelsenbeck)、ルーマニア出身で後にフランス人となる詩人のトリスタン・ツァラ (Tristan Tzara)、ドイツ生まれで後にフランス人となる彫刻家・詩人のジャン・アルプ (Jean Arp) などによって展開された。この中のヒュルゼンベックがベルリンにダダイズムを導入した。宇佐美が「リヒャルト・ヒュルゼンベックは (…) ダダイズムの初期の発展に重要な役割を果たしたのであるが、(…) 一九一七年一月に戦争末期のベルリンに戻ったのである。フーゴー・バルがダダ運動から離反した後、ツューリヒ・ダダがツァラを中心に遊戯的な要素を強め、まったくのナンセンス芸術としての方向へ進んで行くのにヒュルゼンベックは同調しなかったのである」(『ジョージ・グロッス』) と述べているように、チューリッヒとベルリンでのダダイズム運動は政治イデオロギーの側面で大きく異なる方向へと向かう。
ヒュルゼンベックはグロッス、ジョン・ハートフィールド (John Heartfield)、ラウル・ハウスマン (Raoul Hausmann) などと共にベルリンでダダイズム運動を展開することとなる。1918年にヒュルゼンベックが起草した「ダダイズム宣言」の考察を通して、ダダイズムに先行した表現主義とダダイズムとの差異を分析することによって、ダダイスト (正確にはベルリンのダダイスト) の特徴を的確に提示している宇佐美の考えをまとめると以下のようになる。ダダイストは、①« 芸術と時代とを直接的に結びつける »、②« 積極的に社会活動に参加し、時代的問題に対して正面から取り組む »、③« 現実性の全体を芸術に取り入れ、騒音、色彩、精神的律動の同時進行的混沌を表現する »、④« 同時進行詩やコラージュ、モンタージュのような共同制作によって、個人創作の枠を打ち破ろうとする » という特徴を持っていた。
ジョージ・グロッス:反抗的精神を持った芸術家
中立国スイスにある都市チューリッヒにはヨーロッパ各地から多くの亡命外国人が集まっていたが直接戦場となっていなかったため、反戦運動の高揚、軍人への嫌悪、権力者に対する抵抗といった反軍国主義的雰囲気が高まっているとは言えなかった。それに対してドイツはまさに戦時下であって、国家権力の横暴、下層階級の人々への抑圧、軍人や政治家、大資本家の跋扈などが日常的に行われていた。共産主義者と連帯しながら、そうした悲惨な状況に対する怒りと抵抗の強さを示したベルリンのダダイストの運動の展開は、チューリッヒのダダイズム運動にはないものであり、その中心に立ってベルリンのダダイズム精神を絵画において鮮明に表現した画家がグロッスであった。彼はこの運動精神をどのように表現したか。
まずテーマに関して、前述した本において宇佐美は第一次世界大戦期におけるグロッスの主要テーマを、「①アウトサイダーの世界 (サーカス、寄席、殺人、犯罪) 、②戦争、③大都市の三つである」と述べている。それぞれのテーマの代表作として、①では「アッカー通りの淫楽殺人」(1916年) を、②では「将軍」(1916年頃) を、③「人の道」(1915年) を挙げることができる。ワイマール共和国時代のテーマに関する宇佐美の論述をまとめると、①「軍隊や軍国主義者」、②「教育における秩序、古い道徳観」、③「キリスト教教会」という三つの権力者及び権力システムとの対決が主要テーマであったと理解できる。それぞれのテーマの代表作は、①では「白い将軍」(1922年) を、②では「円舞曲の夢」(1921年) を、③では「精霊の降臨」(1928年) を挙げることができる。この両時期におけるグロッスの絵画テーマはいずれも反権力的で、権力者の残酷さを告発するベルリンダダイズムの精神を明確に表明している。
このテーマに対する表現方法を見てみよう。グロッスの絵の大きな特徴は線描とモンタージュ技法にあるが、宇佐美はグロッスの線描に対して「混沌とした大都会のテーマが、多量のパースペクティブから同時進行的に捉えられ、一方では、線や描写の簡略化によって、極端な強調が設定されるようになったのである」という指摘を行っている。また、モンタージュ技法についてはフォトモンタージュに対する以下の言葉が重要となるだろう。フォトモンタージュという「この方法は演劇における仮面と同様の、あるいは、拡大や切断による空間的自由という意味では、それ以上の変身、転換、対比、ショックという大きな効果を表わし、絵画、印刷の既成の観念を打破するものであった。」最後の言葉でも判るように、このことは絵画におけるモンタージュについても述べ得ることであり、新しい強力な絵画技法としてダダイズムの武器となったものである。線描とモンタージュとの組み合わせによって、グロッスは権力に対する反抗の精神を打ち出す剣を手にすると共に、絵画世界に新風を吹き入れた。時間的に静止している絵画空間が時間性を超越し、偏在的な存在へと跳躍する可能性に開かれる表現方法が、そこにあったのである。
しかし、前のセクションでも触れたように、グロッスのこうした画期的な技術の創出と力強い絵画制作行動はアメリカ移住後に弱体化する。共産主義という政治イデオロギーと絵画制作が直結していたグロッスは、アメリカにおいて権力に対する反抗精神を失い、この国にも内在する様々な社会問題や弱者への抑圧を見ずに、アメリカ社会に迎合しようとしたのだ。そのために彼の絵の魅力は大きく失われてしまう。だがこの問題は松本竣介に影響を与えたグロッスの絵画という問題からは外れるため、ここでは詳しく検討せずに、竣介の絵画の分析に移る。
松本竣介:幻想空間と現実
松本竣介は1912年に東京で佐藤俊介として誕生した。2歳の時に父の仕事の関係で岩手県に移住する。1925年、13歳の時に流行性脳脊髄膜炎によって聴力を失う。1929年に上京し、谷中にあった太平洋画家研究所選科に入学。1935年、二科展 (第22回) に「建物」を出品し、初入選する。1936年に松本禎子と結婚。松本籍に入り、松本俊介となる。この年、雑誌『雑記帳』を創刊する。1940年、銀座の日動画廊で最初の個展を開く。1941年、雑誌『みずゑ』に「生きてゐる画家」を掲載し、軍国主義的絵画観を批判する。1943年、麻生三郎、靉光 (あいみつ)、井上長三郎、寺田政明らと新人画会を創立。1944年以降、署名を松本竣介とするようになる。1948年、気管支喘息による心臓衰弱によって死去。竣介の略歴は以上のようなものであるが、先ほども書いたように、彼がグロッスの絵にとくに強い興味を示したのは1937年から1938年のことであった。それゆえこのセクションでは、この時期の竣介の創作活動を中心として考察していく。
宇佐美承は『求道の画家 松本竣介:ひたむきの三十六年』(以下『求道の画家』と表記) の中で、竣介は「いつも柳瀬正無編著の『無産階級の画家・ゲオルゲ・グロッス』という発禁本をわきにおいて、カヴァーが手垢でよごれるほど熱心にながめ、写しとっていた。その本にはこのドイツ人画家の風刺画がたくさん載っており、線がとても繊細で幾何学図形のようだった」と書いている。竣介はグロッスの絵画において、とくに線の描き方に注目していたことが判る。さらにグロッスと柳瀬、両者の共産主義的思想と絵に対して、「でも竣介は二人の思想に同調していたのではなかった。一生の課題として線を追いつづけている途中でグロースの線に出あったにすぎなかった」という意見を述べている。確かに竣介は共産主義的イデオロギーを持ってはいず、線という問題を生涯に亘って探求し続けていた。その中でグロッスの線画は竣介に強烈に影響を及ぼした。だが、技術面だけが原因でグロッスの絵を何度も模写したという宇佐美の考えには賛成できない。グロッスの描いた大都会の様々な階層の人々の疎外された、抑圧された、弾圧された姿から何かの叫び声を聞き、心を揺り動かされたのは共産主義者だけではない。グロッスのような権力に対する強い反逆精神を持たずとも、竣介もまたそのテーマに共鳴していたのではないだろうか。そうでなければ太平洋戦争直前の軍国主義下、拘束され、投獄される可能性が極めて高いのにも係わらず、雑誌『みずゑ』に載せた「生きてゐる画家」の中で、反軍国主義的な意見を堂々と主張することはなかったであろう。竣介にとってグロッスの線画は技術的な意味での研究対象だっただけではなく、そのテーマも含めて創作の源泉となったものに違いない。
モンタージュというグロッスの得意とした技法について宇佐美は今述べた本の中で何も語っていず、竣介が影響を受けたもう一人の画家、野田英夫のモンタージュについて、「二科展初入選した自分の絵を禎子にみせたくて上野の美術館にいったとき、そこに野田の「帰路」と「夢」があった。竣介はそれまでこのような絵をみたことがなかった。ただの風景画ではなくて、作者の心にのこった人物や風景や静物を組みあわせて、つまりモンタージュして、なにかをかたりかけているようだった」と語っている。しかし、モンタージュ技法はグロッスが最初に発明した技法であり、野田よりもはるかに早く用いていた。竣介がこの技法を用いた作品を初めて見たのが野田の絵であったとしても、グロッスのモンタージュ技法に宇佐美がまったく触れていないのは片手落ちである。竣介のモンタージュを用いた絵は、野田のものと同様に夢の空間を表すようなファンタジー性が存在し、そこに野田の影響を見て取ることは容易であろう。だが、竣介のモンタージュ絵画は野田のものとは違った特色を持っている。それは大都市の群衆の持つ孤立性と疎外感の表出である。この特質は野田のものよりもグロッスのものにはるかに近い。たとえば、1939年に描かれた「都会」は野田的な幻想性を感じさせる作品であるが、向かって右側の中ほどに線描された人物の顔は骸骨のようである。さらに、野田の絵の中の人物はどこかコミックで、楽しささえ感じさせるが、竣介の絵の群衆は決して視線を合わせることがなく、都市の中ですれ違うだけの異邦人の集合体である。確かにグロッスの絵の人物はデフォルメされ、醜く、竣介の描く人物の持つ透明感はない。にもかかわらずモンタージュ技法を用いて描かれた両者の絵、とくに都市を描いた絵の人物像は、どちらの画家の作品も悲劇的で、孤独で、疎外された群衆の姿をよく捉えている。それゆえ、竣介の作品に登場する人々は野田の描いた人々よりもグロッスの描いたものにはるかに隣接していると考えることができる。
このように考察していくと竣介はグロッスから多くのものを学び取ったと述べ得るが、それだけではなく、絵画的方向性を大きく変えられたと述べ得ることもできるだろう。グロッスを知る前の竣介の作品においては対象が太く強い線によって描かれていた。そこにアメデオ・モディリアーニ (Amedeo Modigliani) の影響が色濃く反映されている。その影響を脱却して竣介に新たな方向性を示してくれたのはグロッスと野田の絵であったが、とくにグロッスは前述したように技術的な問題だけではなく、竣介に深く影響を及ぼしたのではないだろうか。1920年にグロッスが描いた「共和主義ロボット」の中にも、1940年に竣介が描いた「N駅近く」の中にも、近代化された大都会の中での人間疎外や群衆の孤独が明確に表現されている。二人のテーマ的な類縁性も少なからず存在しているのである。しかし、グロッスと竣介の絵には、大きな差異も存在する。次のセクションではグロッスの影響によって展開された竣介の絵画世界を開かれたものとして、グロッスの影響から離れて異なる方向性へと向かったものを閉じられたものとして分析することによって、竣介の作品の深化について考えてみたい。
開かれたものと閉じられたもの
私が見た展覧会「松本竣介:創造の原点」のカタログの中には長門佐季によって書かれた「生き続ける画家:松本竣介」というテクストが掲載されていた。そこで長門は、竣介の作品を早くから注目していた美術評論家の土方定一が、松本禎子夫人に送った手紙の中で語った竣介の絵画における二つの方向に言及している以下の言葉を引用している。「その一つは、風景なら風景を主観的心情の秩序に従って近代的に構成して行く方向といま一つは松本竣介のうちに、なにかもっとイデオロギッシュな絵画を描きたいという欲求があって、(…) この二つが矛盾した形で松本竣介のうちにあることが僕には非常に面白かった。」土方はイデオロギッシュな方向性を野田英夫の影響として捉えているが、そこには前述したようにグロッスの影響も強く反映されている。
では、グロッスの影響による竣介の絵画的展開を促した開かれたものとは何であろうか。線描とモンタージュという先ほど強調した技術的な問題も大きいが、土方の語ったイデオロギッシュな側面での影響も重要なものではないだろうか。もちろん竣介の絵画的テーマの背景にあるものはグロッスのように共産主義ではなかった。だが、軍国主義体制に対する反発や暗い時代に対する悲痛な思いがあったことは否まれない事実である。竣介が1941年に描いた「航空兵群」という行方知れずになった、唯一の戦争画がある。この絵に対して宇佐美承は『求道の画家』の中で「竣介は自分を偽れない青年だった。鈴木少佐の考えには反対なのだ。では、いやいや死に追いやられる航空兵の顔を描くことで戦争に抵抗したのだろうか。そうでもなかったろう。大東亜共栄圏には賛成なのだ」(鈴木少佐は竣介が「生きてゐる画家」を書くきっかけとなった戦時下の芸術についての座談会で軍国主義的主張を繰り返した将校) という言葉を語っているが、この考えの根拠はまったく示されていない。積極的に軍国主義に抵抗しなかったかもしれないが、だからと言って大東亜共栄圏を認めていたかどうかは甚だ疑問である。それに航空兵の顔にも「いやいや死に追いやられる」悲痛さなどはまったく感じられない。全員が一方向を見つめ、グロテスクとさえ言い得る表情をしている。それは戦争への肯定ではなく、戦争への怒りを示しているのではないだろうか。グロッスから時代に対する抵抗精神も受け継ぎ、グロッスのような方法ではなく、自らの方法によってそれを表現したのではないだろうか。その精神を端的に表している作品がすっくと立った竣介自身の姿を描いたとされる1942年に描かれ、今回の「松本竣介展」にも展示されていた「立てる像」であろう。しかしこの問題は結論部分で詳しく述べることにする。
グロッスから竣介への絵画的展開で閉じられたものは何であったか。それは先ほど引用した土方の言葉にあった「主観的心情の秩序に従って近代的に構成して行く方向」と関係すると思われる。「主観的心情の秩序」とは何であろうか。それは1941年に描かれた「橋」、1942年作の「議事堂のある風景」、1943年頃作成された「並木道」などに見られる都市風景であろう。これらの絵は人物がたった一人ぽつんと描かれているか、人物が存在せずに建物だけが描かれていて、寂寥感や侘しさを感じさせるものである。そこにはグロッスの持つ社会批判や時代性の影は存在せず、孤独であるが透明な空間が広がっている。また、グロッスの絵の中にある激しい動きを感じさせるダイナミズムも存在せず、静謐で澄んだ広がりが絵全体を覆っている。この透き通ったスタティックな画面はグロッスにはまったく見られないものである。
このセクションでは、グロッスから竣介へと連続する開かれた方向性とグロッスの絵とは断絶した閉じられた方向性とを分析した。だが、この二人の絵画的展開は単に二人の美術的関係性という問題に止まらず、われわれの生きている現代における都市空間の中の孤立性、近代化による疎外とアンガージュマンの可能性、隠された権力システムとそれと対峙する自己の確立などといった問題と繋がっている。それゆえ、次のセクションでは二人の絵画と現代との繋がりについて考察して、このテクストの結論としたい。
ヴァルター・ベンヤミン (Walter Benjamin) は『歴史哲学テーゼ』の中で、「(…) ぼくらがはぐくむ幸福のイメージには、時代の色――この時代のなかへぼくらを追いこんだのは、ぼくら自身の生活の過程である――が、隅から隅までしみついている。ぼくらの羨望をよびさましうる幸福は、ぼくらと語りあう可能性があった人間や、ぼくらに身をゆだねる可能性があった女とともに、ぼくらが呼吸した空気のなかにしかない。いいかえれば、幸福のイメージには、解放のイメージがかたく結びついている」(野村修編訳『ボードレール』) と書いている。この言葉には同時代に共に生きている存在者の重要性と同時代の持つ希望の光が語られている。時代精神を作るのはたとえ面と向かって向き合うことがなくとも、私と共に同一空間である « ここ » にいて、今を生きる人々である。さらには、その中にあって力強い未来への投企を決意した「私」である。こうした存在の強さを表した竣介の絵画ある。それが前のセクションで触れた「立てる像」である。
竣介は確かにグロッスの持つ権力に対する強力な反逆精神や鋭利な刃のような表現形式とは断絶している。だが、グロッスが持ち得なかった未来に対して希望を持ち、未来に自らを投企しようとする意志というものを独自に発展させていったのではないだろうか。一人の大きな人物が中心に位置する絵としては、たとえば二つ前のセクションで述べた1939年制作の「都会」を挙げることもできる。だが、画面の中央にいるこの作品の人物は空間的な存在感はあるが、細く淡い輪郭線によって、あまりにも単純化された表情によって、広大な世界にあっても一人すっくと立っているような自己の力強さをまったく感じさせない。それに対して「立てる像」の人物には確固とした姿勢で正面を向き、世界と対峙しようとする揺るぎない意志が感じられる。それはグロッスが決して所有できなかったが、竣介が元来持っていた強さを絵の世界にも導入し、発展させていった形象だったのではなかったか。
シャルル・ボードレール (Charles Baudelaire) が『パリの憂鬱』に掲載された散文詩「群衆」の中で、「大衆 (ミュルティテュード)、孤独 (ソリテュード) という言葉は活動的で、多産な詩人にとっては等しく、変換可能な言葉である。自らの孤独を満たす術を知ることができない者は、奔走する群衆の中でただ一人である術を知ることもできない者である」と書いていた言葉を思い出そう。モダニズムの怪しい光に包まれた大都会の中を群衆が何処に行くかも判らずに歩いている。群衆の波にのまれるだけの存在であるならば、それは芸術家ではない。群衆の波の中にありながらも、一人でしっかりと立っている者こそが芸術家である。そうした強靭な意志を学び取った竣介は、太平洋戦争後にさらなる飛躍を遂げるはずだったのではないだろうか。しかし彼は戦争が終わって三年後の1948年にこの世を去ってしまう。
竣介がグロッスを超えて、どのように自らの絵画世界を発展させようとしたかを語ることは難しい。しかしグロッスから受け継いだ線描とモンタージュ (もちろん、この二つの技法には野田の影響もある) が、竣介の中で新たな方向に萌芽しようとしていたのは確かである。そして、竣介が開こうとした芸術が自由な精神によって支えられたものであり、間違いなく濁った時代と汚れた都市とに透明な疾風を運んでくるものだったことも確かである。その精神は時代が変わった今もはっきりとここに息づいている。われわれはその精神を決して忘却してはならず、その精神の声にしっかりと耳を傾け続けなければならないのではないだろうか。
初出:「宇波彰現代哲学研究所」2016.12.31より許可を得て転載
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