著者への手紙:笠井一成著『不戦死』を読んで
- 2017年 3月 22日
- カルチャー
- 『不戦死』宮野 孝書評
笠井一成様
ごぶさたしています。『不戦死』を読みました。読むほどにずっしりと応えてくる本です。重量を言っているのではありません。
まず「見殺し」から。
各話の各登場人物が、太く細く繋がりながら全体を織り上げています。最終話の〈かすみ〉の話はやりきれない思いを残します。〈愛〉の想いを最後に置いてかすかな希望の光としたということでしょうか。「見殺し」全体の理論編ともいえる第三話のキリスト論は興味深いものがあります。絶対者であり超越者である神について、不完全で限界だらけの人間がそもそもなぜ語ることができるのか。この問いは信仰者を悩ませ続けてきました。だから、ただ信じる、というのが有力な答えです。この信仰を支えるものとして、自分は神の啓示を受けた、という証言があります(ました)。また、だから、神は自らの子を地上に遣わした、とも言われます。牧師となった若い日の、若いといってもすでに妻を亡くしていましたが、竹林良雄は、神とキリスト、神と人間の関係を逆転させざるをえませんでした。神は呼びかけと祈りに応えず、すがる者たちを突き放し見捨てるからです。良雄は言う、神がキリストをそして人類を作ったのではなく、イエスがそして人間が神を創った、と。キリスト教信仰では基本的に神とキリストとは一体です。良雄は、神はいない、と言います。神から切り離されたキリストがいったいどのような運命をたどり、どのような展開を見せるのか、さらに壮大なドラマを予感させます。
「すみれの暴力」は強いメッセージ性を持った小説です。ストーリーの展開は迫力満点ですが単純といえば単純です。巨漢の花谷のいじめに対して、一木決がなんとかしてプライドを守り、自殺することを拒否して、つまり生きるために必死の戦いを強いられていくのです。「そして最後にオレは勝った。」決は花谷を殺す。
いじめはいじめの対象となる人を殺します。人格をズタズタにし、自殺に追い込まれる人も少なくありません。周りの人たちは傍観しています。つまり、いじめられる者には、殺すか殺されるか、という選択しか残されないのです。「オレは勝った」が、これは苦い勝利です。27年後も決は、「あの日」を反芻し続けています。「どう育とうが、イジメは、するやつはするし、しないやつはしない」「クズを生きながらえさせて、己は命を絶つ。無意味な死。加害者へ打撃を一つも与えず、両親に生涯続く苦悩を強制する自殺」……これに反対することは極めて難しいと思います。
「すみれの暴力」の決の場合は、いじめの原形と言っていいでしょうが、加害者を特定できないようなタイプのいじめもあると思います。「見殺し」の最終話〈夕衣ちゃん〉へのいじめ、だれがいじめているのか分からない、あったのかなかったのかさえはっきりしない「いじめ」が描かれています。どのようないじめの場合も、根っこにあるのは日本社会の極端な集団主義志向だと思われます。作者も「自らの異質を恥じ、出る杭は打たれるからと同質化を目指すのが日本人の習い。日本文化の有害な一面」と言っています。このような極端な同調圧力が子どもの集団を無意識のうちに支配していることがあると思います。
さて、最後に「不戦死」です。最初に読んだのはこれでした。読んで大変感心しました。なぜ感心したのか、説明したいと思います。これは戦争文学の枠に入るのですよね。大戦末期のテニアン島で軍医の小松信夫ら日本人たちが敗走し、隠れ住み、捕虜になるという話ですから。中心人物の小松は小説の現在時点でまだ生きています。
作者がどのようにして「小松」をはじめとする人物たちを設定したのか、私には分かりません。小説は「上官たちが撲殺、終戦後に犬死した兵」という新聞の投稿記事から始まっています。この投稿者も小説中に顔を出します。この新聞記事は作者の完全な創作ではなく、類似の記事を踏まえています。また、テニアン嶌やサイパン島での戦闘、戦後の捕虜たちの扱い等についても、作者は調べていると思いますが、この調査が十分か不十分か、私には判断する知識がありません。それにもかかわらずこの小説が極めて優れた小説だと思われるのは、この小説が全体として体現している新しさによるものです。
戦後の日本の戦争文学には、私はたくさん読んでいるとはとても言えないのですが、ある種の構え、「これから大変な世界が開示されていきます」、とでもいうような大げさに振りかぶった構えがありました。じっさい国家的・国民的な悲惨な戦争と敗戦という背景があってみれば、当然ともいえる構えでした。このような構えの帰結として、あるいはこのような構えそのものから、「戦争」のイメージがおそらく暗黙のうちに作られてきました。つまり戦争は、すべてを飲み込み、日常生活を破壊し尽くし、世界全体を非日常世界の中に閉じ込めてしまう、というイメージです。確かに現代の「総力戦」はそのような戦争だと言えるでしょう。戦闘行為そのものは非日常的で異常な世界です。二つの大集団があらゆる手段を用いて殺し合う、これを異常と言わないわけにはいかないでしょう。また、この戦闘行為を実行するという政府の決定は異常な決定と言うしかありません。しかし、それにもかかわらず、このような異常な非日常性は、人々の生活、生活の繰り返しという日常性、これに伴う習慣・思考法を排除することができません。逆に日常性が、日本社会のあり方が、戦場に浸透していくことは避けられないでしょう。ここのことを「不戦死」は教えています。
戦後日本の戦争文学は文学者の戦争体験から発しています。小説である以上、作者の「創作」としての側面は否定できないでしょうが、おそらくそれ以上に、体験したことの意味を追求しないではいられないというところから出発しているだろうと思います。ときにそれは体験していない者に対しては、お前たちに何が分かるものか、という問答無用の高圧的態度にもなっていたでしょう。死と隣り合わせの体験が、いつしか特権的なものに変容していった可能性を否定しきれないと思います。このように指摘することは戦争体験者にとってはあまりに過酷であるかもしれません。しかし、体験の伝承はそれほど簡単ではありえないでしょう。戦争体験が私たち共通の遺産になるためには、体験者の生存と証言だけでは不十分です。記録すること、記録を調べること、想像力を使うこと、これは体験を越えるために、体験を生かすために、しなければならないことです。
笠井さんは、太平洋戦争非経験者にして見事な戦争小説を創りました。非経験者が優れた戦争文学を書きうるのは、歴史小説とか未来小説とかの場合と同じで、不思議ではありません。「夜になると……停泊中の艦船からジャズ音楽が聞こえてくる。」印象的です。
充実した読書をさせていただきました。池田さんがこの本を贈ってくれたことに心から感謝しています。お伝えください。
笠井一成著『不戦死』、風詠社刊、定価:本体2000円+税
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0437:170322〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。