「歌会始」を通して考える「天皇制」
- 2017年 3月 26日
- カルチャー
- 内野光子
以下の文章は、昨年の7月下旬に発売された雑誌『ユリイカ』(2016年8月号)に寄稿したものである。以降、天皇をめぐってのさまざまな環境も変化した。私自身の周辺でも、以下の文章をめぐって、いくつかの批判も公にされたし、論争の的にもなった。その一方で、いささかの励ましもいただいた。『ユリイカ』を読む機会が少ない当ブログの読者や歌人の方にも是非お読みいただければと、掲載することにした。「歌会始」は、憲法上規定のある天皇の「国事行為」でもなければ、「私的行為」でもない「公的行為」とされているが、憲法上にも皇室典範上にも規定があるわけではない。
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タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える
今回の特集の企画書によれば、筆者は、まさにアウェイの感を免れない。あえて飛びこんだのは、現代短歌は、歌会始・天皇・天皇制を看過できないはずとの思いからである。
「歌会始」、無関心を標榜する歌人たち
岡野弘彦や岡井隆の世代はもちろんのこと、穂村弘、さらに山田航の世代に至るまで、無関心であろうはずがなく、必ずや少なくとも、歌会始の現況を見極めているはずである。和歌御用掛り、選者、召人となった歌人自身が、そのことを世間にあらわにして、その地位を誇らしげに語るのは、岡野・岡井どまりで、以降、多くの歌人は、選者、召人になったり、陪聴者になったりしたことすらも、身内や仲間内ではともかく、自ら世間には公けにせず、語らないのが流儀のようなのである。「歌壇」を構成する歌人たちといえば、まったく無関心のふりをしながらも、横目で一瞥していることは確かであろう。天皇や天皇制について考えるのは面倒な上、いつか自分が招ばれる日が来るかもしれないと、静かに控えている歌人は多いにちがいない。
①ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下(穂村弘)
(『短歌往来』2010年2月)
②天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく(穂村弘)
(『短歌研究』2006年10月)
穂村弘は、①について「これは、歌会始での天皇陛下の様子なんです。歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが、それに行ったことがあって、わりと近くで天皇がいらして・・・これはわりと、リアルな歌で、現在の天皇のことです」と自作を語り、平成に入って、歌会始の陪聴者になったことをさりげなく明かしている(『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社 二〇一二年、178頁 )。また、同書の山田航の解説によれば、①は、岡井隆、石井辰彦らと朝日カルチャーセンターの朗読会(二〇〇九年九月六日)の「皇居を詠む」のテーマで朗読した作品だったという。続けて、山田は、①について、穂村は、ある時期「天皇であるということは尋常ではないほど厳しい自己規律が必要なのだと気づき、そこに激しい他者性を見て」「時代と自己との関係性を見つめなおすようになった」として、②では、平成の天皇には「昭和天皇に見出している人間くささとはまったく異なっている」ものを見て取る(177p)。
穂村の「歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが」の書きぶりからは、あえて深く考えないポーズをとる。山田は、「他者性」「関係性」といった用語を使用するが、近頃のテレビタレントのキャスターでさえ好んで口にする、一種の流行語にも思え、内容的には何も踏み込んで語っていないことになる。
世代的には確かにバランスをとっている現在の歌会始選者、篠弘から三枝昂之、永田和宏、内藤明、今野寿美の五人に至るまでの曲折や現状について触れる時評や論評は極端に少ない。選者の出自や師系をたどると、篠(まひる野)、三枝(かりん⇒りとむ)、永田(塔)、 今野(まひる野⇒かりん⇒りとむ、三枝の妻)、内藤(まひる野⇒音)ということになり、アララギ系の高安国世創刊の「塔」の永田を除いて他の四人は、すべて窪田空穂・窪田章一郎系にたどり着く。かつては、いいも悪いも偏らない配慮がなされていた。現在にあっては、多くの歌人が、所属結社の主張、師の系統による特色を厳密に受け継いでいるとはいいがたく、薄らいでいるとは言うものの、いかにも偏向のそしりは免れないだろう。
かつて、岡野・上田三四二の戦中派が選者入りした一九七九年、そして、天皇の代替わり後の岡井隆が選者になった一九九三年のときには、歌壇の反応は熱く、持続していた。さらには、敗戦直後の論争にもさかのぼることができる。
戦後短歌史における「歌会始」
戦後短歌史における短歌と天皇制の問題は、具体的には「歌会始」の問題に集約されるだろう。詳細は、拙著『短歌と天皇制』(一九八八年)『現代短歌と天皇制』(二〇〇一年、ともに風媒社)『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 二〇一三年)にゆずるが、ここで、要点をさらっておけば、つぎのようになる。
一九四七年からの“新生”歌会始は、宮内省の御歌所の旧寄人二人と佐佐木信綱、斉藤茂吉、窪田空穂のいわゆる民間歌人三人を選者としてスタートした。御歌所主事を経て、当時は歌詠課課長、その後長い間侍従長を務める入江相政が実務を取り仕切っていたことは『入江相政日記』に詳しい。天皇制自体、天皇の戦争責任論、退位論などが取りざたされる存亡の危機に瀕した激動の時期であり、昭和天皇の歌会始以外の短歌を一般の雑誌や新聞にリークするなど、現在では考えられないほど、その政治的利用も活発であった。
一九五〇年六月に始まった朝鮮戦争による日本は特需景気を経て、一九五二年四月のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約発効により独立することになるが、同時に、沖縄はアメリカの軍政が固定化し、日本の各地での米軍基地は強化されていった。さらに、日本遺族会設立、軍人恩給復活、自衛隊法成立、小学校に「道徳」復活など「逆コース」をたどる。一九五八年皇太子の婚約が決まると、皇室ブームを週刊誌ブームが支えることになる。歌会始の選者も、木俣修や五島美代子の起用によって、四賀光子と女性二人の時代がしばらく続くことになる。一九六〇年新安保条約成立後は、安保反対の国民運動も後退し、経済高度成長期を迎える、そのころの岡井といえば、現代歌人協会が歌会始入選者の祝賀会を開催したことについて、かなりのハイテンションで、つぎのように述べていた。
「(宮中の)の一行事に文学の仮面をかぶせた歌人たちは、その仮面性を知っている以上、腹であれらの歌の形をしたものどもをわらっているか、否定している筈である。あるいは仮面でも詐称でもないという人がいるかもしれない。その人には、あの皇室関係者の御歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけてもらわねばならない」
「この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠が、皇室の民主化の至情が、とにかくそうした熱情のたぐいをすっかり凍結しつくしたところに生まれる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、私を肯定することができない」
(「非情の魅力について」『現代歌人』創刊号一九六〇年五月 47~48頁)。
一九七九年いわゆる「戦中派」の中核でもあった上田三四二(一九二三年生)と岡野弘彦(一九二四年生)が佐藤佐太郎と宮柊二に代わって、歌会始の選者になったとき、一九六〇年代には角川『短歌』の編集にも携わった同世代の片山貞美は、つぎのように批判した。
「事は天皇・皇族の参加する宮廷行事である。当然のことに参加する者の意識は改って、天皇を頂点とする制度の秩序のなかに整然と組み入れられることをあらわにする。(中略)つまり詠進歌の行事は今日では短歌の文学的問題をほとんど含まず、政治的問題が主だと見なければならないのだ。だから選者は選歌を通して天皇制支持という姿勢をあらわにすると見なければなるまい」
(「二人の戦中派」(角川)『短歌年鑑一九七九年版』)
さらに、天皇制は家父長制とともにわたしたちの生活の根にかかわる問題で、「戦中派はそうした問題に一九四〇年代の戦争体験によって最も鋭く迫った人びとのはずである」から、選者になることは許せないと言い切った。しかし、一九七九年六月元号法が施行され、『短歌』は、一九八四年から、翌年の「宮中歌会始詠進要領」の掲載を開始する。短歌総合雑誌が「要領」を掲載、選者の一人岡野弘彦の詠進の勧めともいうべきエッセイや宮内庁での歌会始のプロモーターである入江相政のエッセイなどが続く時代の始まりとなった。戦後の短歌史上、短歌総合誌が、国の皇室行事に加担するというエポックをなした。さらに菱川善夫の『短歌』論文削除事件などが明らかになるのもこの時期であり(菱川善夫「変化と病―昭和五十年代の時代状況」『短歌現代』一九八五年二月)。歌壇全体が自粛ムードのなかで推移することになったことは、ある年代以上の歌人には覚えがあるのではないか。
一九九三年の歌会始選者に岡井隆が就任することが公になった一九九二年秋、歌壇の様相は少し違っていた。「前衛歌人」の岡井が選者になったことの衝撃は少なからずあった。詳しくは筆者作成の「岡井隆歌会始選者就任関係書誌(一九九二~二〇〇〇)」(前掲『現代短歌と天皇制』所収)を見ていただけばわかるように、全国紙から同人誌に至るまで、必ずしも網羅的ではないにしても、その反響は数年にも及び、八〇点近く、アンケートなどを含めればその発言者は一〇〇人に達するだろう。岡井自身の発言も7点ほど含んでいる。岡井が、繰り返し主張し続けたのは、「歌会始は、だれもが参加できる奔放最大の、知名度の高い短歌コンクールで、国家や皇室との関係はいまや薄くなってきた。これからの歌会始は、参加する多くの応募歌人により、反権力を歌ってきた歌人らが選者になることによって、イメージは変わる」ということだったのだろうか。座談会やインタビュー記事からだけでは不明確な点が多い。さりとて、岡井自身の執筆になる、たとえば、「あるニヒリストの演舌―歌会始の件につき」(『未来』一九九三年一月)、「歌会始の選者として」(『短歌往来』一九九三年二月)などを読んでも、独特の言い回しではぐらかされた感じがしないでもない。代表的な反響として、上記『短歌往来』の一五名による「アンケート・岡井隆氏が歌会始の選者を引き受けられました。そのことにつき率直な意見を述べてください」の回答が、温度差はあるものの、裏切り、嫌悪、遺憾、不可解、失望、好ましくない、納得できない、天皇との距離を保つ、などが一〇名、一方、騒ぐこともない、興味がない、ぴんと来ない、驚くこともない、今後に注目したいという五名だったというのも興味深い。当時、『未来』で岡井隆の選歌から離れた会員、『未来』から離れた会員もいたという。
近年の岡井隆は、歌会始の選者はやめたが、和歌御用掛として、皇居に通っているし、メディアへの露出度は高く、その発信力は衰えてはないようで、むしろ焦りさえもかんじさせる。昨年から今年にかけて、短歌誌ばかりでなく、つぎのような一般メディアにも登場する。
『朝日新聞』(夕刊)「人生の贈りもの」(二〇一五年二月)という一〇回のインタビュー記事では、
「かつてのマルキストが、歌会始の選者を引き受けたのはなぜか」の質問に、一九七〇年に蒸発して九州へ行った後で考え方を変え、五〇歳前後で思想転向したとして、つぎのように続ける。
「ぼくみたいに若いころ天皇制を否定していた左翼の人間が転向したわけです。日本の文化人って、転向しても理由を述べない人が多いねえ。あれはやっぱり書くべきだと思います。説明責任があります。僕はその理由をいろんな機会に『自分が若いころには分かっていなかった』とちゃんと書きましたよ。それを経たあとは、ずーっと揺るがない。その一つの表れとしての歌会始です」(『朝日新聞』二〇一五年二月二六日付夕刊)
ここでは、明確に「転向」に言及し、何度も「説明責任」を果たしてきたというが「若気の至り」
では、説明したことにはならない。現に、二〇〇八年の段階では、これも、小高賢との対談で「岡井さんの選者就任で一番足りないのは、ご自身の論理的説明ではなかったか」の質問につぎのように答えていた。
「振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う(中略)。自分自身のためだけでもいいから、きちっとあきらかにしておく必要があったかなあと思う。ただなにか書こうとすると、みんな、大島史洋君もそうだったけれど、『岡井さん、もうやめなさい。何を言ったって、全部、言い訳に取られるから、何も言わない方がいいですよ』というから、そう思っちゃった」
(『私の戦後史』角川書店 二〇〇九年 二九六頁)
私の検索の限りでは、以後も論理的に説明している発言が見当たらない。岡井は、さらに「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」(『文藝春秋』二〇一五年六月)においても、歌会始を「国民参加型の文化行事」と位置づけ、最近体調を崩した折に(和歌御用掛の)後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」と記す。しかも、天皇・皇后は平和への特別な想いを持っているので「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」と結ぶ。
二〇一六年に入って、『朝日新聞』の「はじめての歌会始~皇室と国民 同じお題で心詠む」(「文化の扉」一月一〇日)にも登場、「2万人以上の人が一つのお題で定型の詩を作りあうのは、他国にはない」「歌会始は、日本の伝統が脈々と続いていることを世界に知らせる良い機会なのです」と述べている。はたして「日本の伝統が脈々と続いている」歌会始なのかは、明治以降の歌会始のありようを見ても、そんな素朴なことではなく、戦略的な結果が今に至っていることを承知の上、見て見ぬふりをしていることではないか。
現在五〇代以下の歌人たちは、先にも述べたような歌人への言論統制・圧力について、今の世の中においては、なおさらそれはありえない、自分はそんな目には合ってはいないと、楽観している向きも多いかもしれない。しかし、現在にあっても、天皇・歌会始のことに言及するとき、選者と師弟関係・友好関係があったり、自分に目をかけてくれる選者であったりすると、たとえ異議があっても、急に言葉を改め、敬語が増えたり、慎重な言い回しになるか、無関心・無言をつらぬくことが多いと、私は見ている。自覚的、無自覚的を問わず、すでに自粛や萎縮にもつながっていることを指摘しておきたい。
聖域やタブーをつくらない議論の場を
こうした歌壇の大きな流れのなかで、私は、最近、一つの事件に遭遇した。それに連なるもろもろのことに共通して見えてくるものは、やはり国家権力の文芸への介入を受忍する、民主主義の衰退であった。
二〇一五年一二月、現在の歌会始選者の一人今野寿美が二〇一六年から『赤旗』の歌壇選者になるという記事であった(『赤旗』12月28日)。今野寿美の思想の自由、『赤旗』の編集の自由だといって、片づけられる問題なのだろうか。今野の選者としての歌会始の自身の作品と『赤旗』歌壇の選歌の結果を比べてみてほしい。明らかにダブルスタンダード的な要素が伺える。『赤旗』歌壇の選者を務めたことのある歌人の「なんかおかしい、今野さんの選歌は、明らかに『赤旗』におもねすぎている」との感想は聞いていたが、この件についての論評は、今のところ見当たらない。だが、これには、前触れがあった。一九四七年以来、七〇年近きにわたって、「玉座」から天皇の「おことば」が述べられている国会開会式には参加していなかった日本共産党が、二〇一五年のクリスマス・イブに、二〇一六年の通常国会から出席すると発表したのだった。そのために開かれた記者会見の模様を、『赤旗』より詳しく報道したのが『産経新聞』であった(一二月二五日)。「共産党、国会開会式に出席へ 天皇陛下御臨席に反対方針を転換「アレルギー」払拭へ」の見出しで、共産党は安全保障関連法の廃止を求める野党連立政権「国民連合政府」構想を提案しており、従来の対応を変えることで他党に根強い「共産党アレルギー」を払拭する狙いがあるとみられる、と報じた。ちなみに、「朝日新聞デジタル(12月24日12時49分)」では、「共産党が通常国会開会式へ 党として初、野党と同調」の見出しで、これまで天皇陛下の出席を理由に欠席してきたが、方針を転換した。開会式に出ている他の野党と足並みをそろえることで、来夏の参院選での共闘へ環境を整える狙いがある、とした。
さらにさかのぼれば、二〇〇四年の新綱領、昨二〇一五年一〇月の「日米安保条約廃案一時凍結」の発表で、野党共闘、アレルギー払拭をめざし、一枚一枚、たけのこのように、皮をはいで行って、残るものは何なのだろう。そういう流れのなかで、一見、寛容で、ウイングを広げたかのような『赤旗』紙面への著名歌人の登場、歌会始選者の『赤旗』歌壇への起用であったのである。だが、一方、歌人に限らず、いささかでも異を唱える者の排除や無視という非民主的な要素、開かれた議論の場を想定しがたい状況が、蔓延しているのではないかが懸念される。思想の自由、表現の自由を守ることの難しさを痛感するのである。
歌壇に限って言えば、そんな風潮を早くよりキャッチし、警鐘を鳴らし続けている歌人もいる。そして、二〇一六年の年末になって、佐藤通雅は、拙著3冊をあげて「果敢にタブーに踏み込んだこれだけの作業を、見て見ぬふりをいいのかと義憤の念にかられて、私はいくつかの文章を書いてきた」との論考が発表された。拙著で述べた「天皇・皇后の被災地訪問は、政府や企業あるいは自治体の被災地・被災者対策の不備を補完する役割」とすることについて、佐藤は、「補完の域を脱した、内部からの抵抗を感じることが何度もある」「為政者への無言の異議申し立て」であると、私の考えとの違いをも踏まえ、「いずれにしても、選者になったとたん黙して語らないのも、周りが見て見ぬふりをするのも不健全にはかわりはない。タブーはもう脱ぎ捨てて、さまざまな角度から意見を出し合い、問題を共有していくことを私は望んでいる」と結論付けた(「歌の遠近術12短歌と天皇制への視点」『短歌往来』二〇一五年一二月)。
しがらみのない、インターネットの世界から巣立つ歌人たちにも、ぜひ、歴史から学び、聖域やタブーをつくらない議論の場を構築し、こまやかな感性とゆたかな感情を大切にしてほしい、と願う。
初出:「内野光子のブログ」2017.03.14より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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