「古代史への尽きぬ興味(1)-『日本書紀』成立秘話にせまる」
- 2017年 4月 25日
- カルチャー
- 合澤清
*森博達著『日本書紀の謎を解く』(中公新書1999)
『日本書紀』は誰によって書かれたのか
ちきゅう座の仲間でもある、友人のYさんとのある会話の中で、言語学者の森博達による『日本書紀』の画期的な解読があることを教えられた。彼がそのときあげたのは森博達著『日本書紀の謎を解く』(中公新書1999)という本であった。早速手に取ってみた。
最初に、これは大方の古代史研究者の一致した見方のようであるが、『日本書紀』は壬申の乱以後に新たに権力の座についた天武天皇(大海人皇子)が、自己の権力を正統化するために中国の「国史」にならって、「天武10年(681)3月17日、川島皇子以下12名に詔して、「帝紀」と「上古諸事」を記定させ、中臣連大島と平群臣子首に筆録させた。これが書紀の撰上に結実する修史事業の始まり」とされる。
ここで一応留意しておかなければならないのは、「天皇という概念」についてである。
梅原猛は、その『水底の歌-柿本人麿論』(新潮社1976)で、次のように述べる。
「天皇の誕生は、持統帝の時代、早くとも天武帝の時代をさかのぼることはできないのではないか。」つまりそれまでは、「大王」と書いて和訓で「オオキミ」と読ませていたのだという。「天皇」という称号は-つまり、天皇は-それまで存在しなかったのである。
これに関連して、もう一つ興味深い指摘がある。それは考古学者の森浩一が書いている(『敗者の古代史 記紀を読み直し地域の歴史を掘りおこす』(中経出版2013))のだが、従来歴史の教科書で「磐井の乱」と呼びならわされている九州の磐井との戦い(6世紀前半)についてである。森浩一はこういう。「ヲホド王(継体天皇)と筑紫君磐(石)井(つくしのきみのいわい)の戦いは、従来「磐井の乱」と称されていたが、石井は北部九州を治めた地域国家の王であり、ヤマト政権に服従してはいなかった。ヲホド王もまた越や近江を支配した地域国家の王を経て、ヤマトを制圧し大王となった。百済と親密なヤマト政権に対し、石井は新羅と結び、東アジアの国際情勢が絡んで戦争(527年)に至った。」それ故、これは磐井によるヤマト政権への「反乱」ではなく、れっきとした「戦争」なのだ、と。
これらの指摘は大変興味深いものであり、今後の問題とも密接に関係してくる内容であるので、十分頭に入れておく必要がある。
さてそこで、森博達の画期的な業績(発見)は次の点を言語学的に実証したことにある。
「持統3年(689)6月29日、「浄御原令」が班賜された。その10日前、唐人の続守言と薩弘恪が賞賜された。両名は唐朝の正音(唐代北方音)に通暁し、最初の音博士を拝命した。両名が書紀を撰述することになった。
古代の最大の画期は雄略朝であり、その次が大化の改新であった。続守言が巻14「雄略紀」からの述作を担当し、薩弘恪が巻24「皇極紀」からを担当した。しかし、続守言は巻21「崇峻紀」の終了間際に倒れた。薩弘恪は、「大宝律令」の編纂にも参画し、多忙を極めた。巻27までの述作を終了していたが、文武4年(700)6月17日の奉勅後まもなく卒去した。
こうして文章学者の山田史御方が、撰述の担当者に選ばれた。この頃、書紀の編修方針に大きな変革が起こっていた。神代から安康までの撰述の必要が生じたのだ。御方には唐に留学していなかったため、漢文を正音で直読する能力がなかった。結局β群は、基本的に倭音と和化漢文で述作されることになった。」(『日本書紀の謎を解く』)
森博達は専門の(日本語・漢語)言語学を駆使して『日本書紀』全30巻をα群とβ群、およびどちらにも属さないものに分類する。全体は漢文で書かれているのであるが、まず彼が注目したのは、「固有名詞を表すのにどのような音をもった漢字が用いられているか、また漢字が正しい語法・文法によって書かれているか」という点である。「その結果、唐代の北方音に通じ正格の漢文が書ける人物が執筆したα群と、唐代の北方音に不案内で、文法的に間違っている日本的な漢文が目立つβ群に截然と分けられることが判明したのである。」
α群とβ群の区分は次の通り。
[α群]
巻第14(雄略天皇紀)~巻第21(用明天皇・崇峻天皇紀)
巻第24(皇極天皇紀)~巻第27(天智天皇紀)
[β群]
巻第1(神代紀上)~巻第13(允恭天皇・安康天皇紀)
巻第22(推古天皇紀)・巻第23(舒明天皇紀)
巻第28(天武天皇紀上)・巻第29(天武天皇紀下)
最後の巻第30(持統天皇紀)はα群・β群いずれにも属さないとされる。
森によれば、α群の書き手として考えられるのは唐人で音博士に任官していた続守言と薩弘恪の両名であり、それが書かれたのは7世紀末の持統天皇の時代であろうという。5世紀後半の雄略天皇の時代と7世紀半ばの大化の改新の前夜となる皇極天皇の時代から書き起こされたのは、これらが当時それぞれ歴史的な画期・起点として認識されていたからである。それに対してβ群は、その後、文武天皇の時代から元正天皇の時代にかけて日本人・文章学者の山田史御方の手で編纂されたに違いないというわけである。
但し、α群はβ群の段階で加筆されている痕跡も認められるので、天智紀の記述には壬申紀の叙述をもとに書き換えられた箇所もあったことを想定する必要がある、という。
何のために『日本書紀』を編纂しなければならなかったのか
三浦佑之によれば、そもそも『日本書紀』とは、『日本書』(「日本」という名の王朝の歴史書)の中の「紀」(本紀)として企画されたのではないかという。その書名自体が、王朝交代-「易姓革命」-を所与の前提とした中国の歴史書(『漢書』『後漢書』などのいわゆる正史)にならって定められた可能性が高い、という。(『古事記のひみつ』吉川弘文館2007)
この書の編纂が開始されたのは、天武‐持統の時代からである。これは明らかに天武天皇と天武の妃であり、天武の死後に天皇の位を引き継いだ持統が、何らかの理由からその政権を権威づける必要に迫られて、神話伝承の類や各地の王国史などから収集した物語を繋ぎ合わせて自分たちの正統性を証明する、いわゆる「万世一系の天皇家の家系」として体系化したものと考えられる。
こういう形での系図の体系化は、古代社会のいたるところでみられることである。ギリシア神話、ローマ神話、あるいは中国神話などとつながる名家の系図は、いくつもその例を挙げることができる。権威というものはこうしてつくられるものであろう。
そして我が天皇家も、その例にもれずである。イザナキノミコト、イザナミノミコト、天照大御神という神代の昔から今日に至るまで、万世一系、絶ゆることなくこの国を支配してきた尊い家系として自己主張する必要があったのである。
もちろん、支配の手段としてであったことは間違いない。しかし、それが天武‐持統の時代からはじまったということには、その時代に何か特別な事情があったからに違いないのではないだろうか。
考えられるのは、一般に「大化の改新」(645)(古代史家は一様にこれを「乙巳(いつし)の変」と呼んでいるのだが)と名付けられている事件である。また、その後の白村江での倭軍の大敗北(663)であり、さらには、壬申の乱(672)という倭国内の内訌である。
これらの事件による国内の騒擾の激しさの評価に関しては、歴史家の間でかなりニュアンスの違いはあるようだが、そうはいっても大変な事件が30年を経ずして続いたことには変わりがない。
当然国内での民心の不安をしずめ、治安を安定させることが求められる。一方での引き締め(律令国家体制への移行)、遷都(天智による「近江京」遷都)そして神話作りである。
古代史の事件をめぐり、古代史家のいろんな書物を漁るのは楽しい。彼らの間での意見の相違もド素人の身には、結構楽しみである。
ドイツ語には歴史という言葉が二種類ある。GeschichteとHistorieである。Historieには、事象的な報告(例えば645年の事件、というようなこと)というニュアンスが強く、それに対してGeschichteという言葉には「ある種の物語」性がある。ヘーゲルの「歴史哲学」は、Geschichteの哲学である。ここには事実と物語が、別個にあって、相互に対応し合っているのではなく、同時に存在するという関係性が表明されている。
先ほどあげた古代史上の事件についての渉猟は、また改めて問題にしたいと思う。「日本王朝三交代説」を唱えた水野祐先生は、どこかで「素人だと言って遠慮することはない」と書かれていた。所詮は「井蛙の見」にすぎないであろうが、自説を展開して大いに楽しみたいものである。
*森浩一、梅原猛、水野祐、森博達、遠山美都男などを参考にさせていただいた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0468:170425〕
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