『現代中国と市民社会』(勉誠出版)シンポジウムに関する若干のコメント(1)――論語とホッブス自然法――
- 2017年 4月 25日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
『現代中国と市民社会:普遍的《近代》の可能性』(石井知章・緒形康・鈴木賢――編 勉誠出版)出版記念シンポジウムが明治大学駿河台校舎グローバルフロントにて4月22日に開催された。会場で本書を7500円の2割引きで購入した。目次を一覧しただけで、知的関心が盛り上がってくる。知友の内田弘や野沢敏治の論文も収められている。同日午後同じ御茶の水で開かれる「アソシエ」の総会・講演会に出席するつもりであったが、本書目次を見て、シンポの始終を見とどけようという気になった。
本書の編者達と同じく、私もまた市民社会・《近代》の普遍性如何に深い関心がある。深いと言うより、心身的関心である。編者達が近代市民社会の光・表・明に意識が向いているとすれば、私はその影・裏・暗の方へも意識が向かざるを得ない心身的打撃を西欧・北米・日本の市民社会から10年間受け続けて来た。私が専門とする旧ユーゴスラヴィア地域に勃発した多民族戦争の1990年代十年間、国際共同体を自認する市民社会諸列強は、紛争・衝突・戦争の現場的諸事実の認識の客観性と報道の多面性に執着する事なく、抗争する諸民族集団の中から自分達の文化圏・宗教圏に属する民族と異文化・異宗教でも戦略的・戦術的に同盟する民族とに対して市民社会的語法を駆使して徹底的に弁護する。それに反して、自分達の文化圏・宗教圏に近縁であっても政治的・戦略的に反抗する民族に対して、市民社会的語法を巧みに使って、その民族の低市民社会性をとことん印象付ける。かくして、人道的武力介入を正当化する。だからと言って、私は市民社会の理念を捨てるのではない。西欧市民社会の普遍性を、ふくらみを持った概念でつかみたい。
本書で厳復による『国富論』の中国語翻訳、『原富』の書名で20世紀初に出版された書物について論じられている水田洋先生の講演が短く終わり、会場からの質問を求められた。98歳の老先生には失礼になるかも知れないと心配しつつも、水田洋訳『リヴァイアサン 1』(岩波文庫)における孔子の章句と水田洋のそれへの訳注について質問した。ホッブスは、自然権とそれを制約する自然法を区別し、同書において19個条に及ぶ諸自然法について長々と解説する。そしてかかる精細な諸自然法は、もっとも能力のとぼしい人々にさえ理解できるエッセンスにまとめられるとする。すなわち「あなたが自分自身に対して、してもらいたくないことを、他人に対してしてはならない。」(p.254) ホッブスは、この章句の出典も誰の言葉かも明記していない。しかしながら、私達東洋人の読者には自明である。論語の顔淵第十二、衛霊公第十五の「己所不欲 勿施於人也。」である。しかるに、水田洋は訳注(13)において「マタイ・七・一二、ルカ・六・三一を、逆にしたことばであるが、このとおりの禁止的表現の出典は不明。」(pp.258-9)と書いていた。以上の問題について、私=岩田は、すでに「ちきゅう座」(2015年5月3日)に「ホッブス、自然法、孔子――水田教授の見落しと経産省テント」に論じていた。
偶然チャンスがあって、訳者水田に質問した。流石老碩学である。あっさりと自分の見落しを認められた。その上でホッブス『リヴァイアサン』の訳業が終戦直後の物質的悪条件の下で進められた事を語られた。
そこで帰宅後、『リヴァイアサン』の訳者解説を読み直してみた。解説の末尾にこうある。「訳者が初めて『リヴァイアサン』を読んだのは、1940年、東京商科大学の高島善哉先生のゼミナールにおいてであった。・・・・・・翻訳をはじめたのは1945年10月、セレベス島マカッサルの終戦連絡所に、通訳として勤務していたときであり、第一分冊は、日本評論社の世界古典文庫62として、1949年3月に出版された。」(p.385) これを読んで、70年の昔20歳台なかばの水田青年が南洋の一つの島で一人西洋古典に立ち向かう知的・思想的情熱を実感して目がしらが熱くなる。今日、西欧古典の社会思想史的意味を相対化できるのも、かかる諸先人諸先生の刻苦精励のおかげである。
それがわかった上であえて言えば、ホッブスがヨーロッパ起源の諸自然法のエッセンスを孔子の言葉で記した事実とその意味は、現代中国における市民社会の可能性を議論する時にもっと早く自覚されるべきであったろう。
平成29年4月24日(月)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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