『現代中国と市民社会』(勉誠出版)シンポジウムに関する若干のコメント(2)――B.C81年、前漢始元6年の「人権」――
- 2017年 4月 26日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
今井弘道教授(北大名誉、浙江大学特聘)は、報告「非キリスト教起源で市場社会起源の『人格の尊厳』――拙論への補充的報告――」を読み上げられた。
市民社会と人権概念の発展に関して西欧の思想的蓄積に依拠して本質論的考察をしており、特別に中国における市民社会や人権の問題を議論している訳ではない。しかしながら、この問題をキリスト教的精神世界や西欧世界の枠内に閉じ込めず、広く市場社会の性格の考察を通して解明しようとする。市場経済ならば、洋の東西を問わず、どこでも自生している。別に西欧に固有ではない。そうだとすると、西欧で発達した市民社会・人権理念を中国に導入する場合に本質的拒絶反応に直面する理由はなかろう。
私のとぼしい知識でも、中国の人権問題は殆ど人権侵害の相で語られている。法輪功信者への迫害、チベット人の焼身自殺等々。中国の皇帝専制の大一統的伝統の遺伝子が今日の中国共産党体制内部に生きているからとされる。それでは、中国の長い歴史において人権が守られるべき価値として語られたことは全くなかったであろうか。私見によれば、それは存在した。
私は今井氏に以下のような歴史的事実を指摘した。前漢昭帝の始原6年、キリスト歴B.C81年に大御前会議が開かれた。昭和天皇の開戦終戦に関する少数高官等の御前会議と異なって、漢帝国の各郡各国より文学と賢良の士を選んで招き、その数60余人と御史大夫桑弘羊、配下の御史の人々、丞相車千秋、配下の丞相の史の者等とが大激論を展開した。テーマは、漢帝国の経済体制と経済政策、すなわちその時代基本的生活必需品の塩、基本的生産財の鉄製農具、主要娯楽財の酒が国有国営だったし、また流通・物流の国家統制もきびしかった。群国の知識人、文学や賢良の士達は、国有国営制を停止し、民有民営制への移行を強く主張し、ここに央地間の、官民間の大政策論争が始まった。
私=岩田がここで注目するのは、その論争に「人権」なる用語が姿を現した事だ。統制経済の結果官僚制肥大化の害を説いて、文学の士は、「公卿は不急の官を減除し、機利の人を省罷するを請う無し。人権縣(かか)ること太だ久し。」(『塩鉄論』岩波文庫、1935年、p.47)と断定していた。官僚支配の下「人権」が中ぶらりんとなって久しい。「権」の語義は、「重さの基準」である。人の重みのスタンダードが不安定になって、つまり不安・不定になってしまったとB.C81年に文学の士は弾劾していた。ヨーロッパ語のHuman Rightが言葉としていつの時代に登場し、いつの時代に今日と同じ語義を獲得したか、私は知らない。中国の場合、2100年昔に今日のHuman Rightに通じる「人権」概念が使用されていたと言えよう。ここでは引用しないが、御史大夫桑弘羊自身、反論して民有民営にまかせておくと、貧富・強弱の格差が超拡大し、社会秩序がくずれてしまうと明言している。2100年前の中国人は、官民ともに今日的水準の政策論争を行っていた。
今井は、市民社会の基礎をキリスト教空間の「プロテスタント的・ヒューマニズム的人間観」よりも、「商品交換社会」の人間論に求める。今井によれば、「人権の起源」を求めるとなると、前者に関心が集中するのが大勢らしい。そんな学問状況の中で市民社会・人権の基礎を商品社会・市場社会に求めようとする主張に賛成する気持が私=岩田にある。プロテスタントの出現よりも1500年以前に前漢塩鉄論争で「人権」問題が提起されていた事実は重い。但し、ここで留保しておくが、民有民営論の賢良・文学の士は、商工業を末利とする農本主義であって、国有国営論に立つ御史大夫は、商工業重視であると言うねじれ事象だ。今日の「市場経済」対「計画経済」の対抗分類に必ずしも一致するわけではない。
私見によれば、商品交換・市場経済は、市民社会の成立の必要条件であっても、十分条件ではない。社会内の全存在・全実在が市場売買・商品交換の対象となると、市場万能となると、市民社会は消滅する。選挙の投票権も、会社の職場・職務も、官職も、位階勲等も、博士論文も、人体臓器も、人間自身も市場取引の対象となり得る。市場内部にかかる全面的市場化を制動するメカニズムは無い。
中国社会の歴史では、商品交換メンタリティー=商人根性がかなり早い時代に全民衆の心性をとらえてしまったのではなかろうか。市民社会の経済的土台となった資本主義的産業社会が経済的先進地域の中国や中近東ではなく、相対的に後進的であった北西部ヨーロッパに自生的に誕生し、ややおくれて極東日本に輸入されたにせよ、準自生的に定着した理由は、そこにおいて商品交換・マーケットが最高度に成熟していたからではない。市場を目指しながらも、自己労働の完成品をのみ売買すると言う職人根性が売れるものは何でも売ると言う商人根性を抑制できる強度に発達して、尊重されてもいたからである。手元の原材料や仕掛け品のマーケット・プライスが上昇すれば、喜んで転売して利益をあげると言う商人根性が全民衆の心性に優性であったならば、産業化・工業化プロセスの長期性に耐えて、産業資本主義が誕生する事はなかったろう。納品契約があっても、違約金を支払ってでも、仕掛け品を売り払う。
このような経済社会においては、官僚制・官人社会による過剰商品化・過剰市場化の抑制・制御が産業経済の順調な回転・進行にとって必須であろう。しかしながら、官僚制内部に商品交換原理が浸潤し、官人根性が商人根性に犯されると、すなわち許認可だけでなく、官職自体も売買されるようになると、社会的分業編成の再生産が崩壊する。
中国的特色の市民社会があるとすれば、商品交換的自由(>不自由)と官人社会的(共産党的)不自由(>自由)の節合の妙を中国社会が発見した時であろう。
平成29年4月25日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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