オレ様、今村だ、本当のこといったまで、それがナニか?
- 2017年 4月 30日
- 時代をみる
- 青山雫
今村元復興相の「帰還困難者の自己責任論」(2017年4月4日復興庁記者会見)「東北でよかった」(2017年4月25日自民党二階派講演会)発言で、二度(2.5か?)の失言を続けて、実質更迭となった件なのだが、ご当人はもちろん「本当のこと、言っただけのに、何がいけないんだ」程度の認識しかないのは、ミエミエで、議員辞職など端から思いも浮かべていないことからもこれは明らかだろう。安倍晋三も、二度目の失言の際には、講演会に臨席していて、即座に「不適切発言、東北の方を傷つけた、申し訳ない」と謝罪したようだが、この「東北の方を傷つけた」云々は、反安倍派含めて、少なくとも言葉の上では共通の捉え方になっている。もちろんかの今村の発言で東北住民が傷ついたのは、明白であってそこになにか議論する余地はないのだが、「東北でよかった」云々の発言の意味するところを、もう少し掘り下げてみる必要がなくはないだろうか。余りにも思いやりに欠けて物のいいようなのでそのことに気をとられて、そのことでやつは何を語ろうとしていたのか、その問題点を見ておこうというのが、以下の拙文の狙い。
まず「東北でよかった」ということの意味は、簡単に補足できて「人口の集中した地域だったら、もっと甚大な被害になっていた、だから東北でよかった」であって、だからやつは本当のこと言ったまで、何が悪いんだと、こう開き直る仕儀にいたる。この被害の大きさを比較して、より小さく済んだから「よかった」とする態度と立ち位置とはなんなんだろうか。一つには、実際に起きていない仮定上の被害と現実に起きた被害を比較して、より小さくて済んだ、と判断しうるとするその立場とは一体何なのか。そんな仮定上の比較をしたから、現実の被害についてなにを判定しようというのか、それが分らない。おそらくご当人も分っていないのではないのか。単にみずからの気休めを表出しているのかもしれない。そんなことのために東北の人々をダシに使うなと胸倉をつかみたくなる。小さく済んだと胸をなでおろしたからといって、それで現実の被害がなにか変化するわけでもなんでもないだろう。より小さい被害で済んだから、その復興のために支出される税金の額もより小さくなるから、つまり国民の負担が小さくなるから、だから「よかった」というようなことも今村の脳裏によぎっていたのかもしれない。であればそれは、甚だしい余計なおせっかいだろう。そんな仮定でもって「よかったわるかった」などという判断をすることを政治家に要求されてはいないのだ。そこのところのドカンチが今村の致命的なところとも言えるだろう。
大規模災害の様々なシミュレーションの中で、人口密集度だけでなく具体的な地域を想定して、どのような事象が生起してどのような被害がもたらされるかを研究することはもちろん否定すべきことではありえない。そのなかでは、地域間の比較を多種のパラメータに沿って測定して比較することももちろんできよう。しかしだからといって、こっちよりこっちで起きるほうがよい、などとするわけもなく、それぞれの場合についての対策がどうあるべきかを次の段階で検討するまでだろう。
どうみても、今村の発言は納税者の立場(あるいは国家財政的立場??)を、領域的侵犯的にドカンチ代弁したものか、シミュレーション的な検討を取り違えているものなのか、なんとも捉えようもない「オレ様」発言としか言いようもない代物だった。
と、ここまでの話は実のところ誰でも思いつく程度のものであって、はっきり言って凡庸。本論はここから先にある。それはすなわち「東北でよかった」などと、緊張感の欠如したことを嘯いている、そのことの裏にある、あの大震災の潜在的な破壊力についての認識の薄さなのである。これは、今村、安倍のみならず残念ながら、反安倍派、反原発派まで含めて、同じ穴の狢でしかないのだ。色々の面から、それは指摘できるのだがここでは一つだけ言っておく。
それは、先に今村発言に補足的した「人口の密集した地域だったら」に関することなのだが、とうじつ3.11は金曜日午後回っており、いわゆる帰宅難民とのちに呼ばれるような、膨大な数の勤労者、大衆の帰宅の流れが、おそらく数百万人の、東京とその周辺に生じたことを想起すべきだろう。これだけでも、なにかちょっとした事故、火災や工場の爆発、階段での将棋倒し、ガス漏れ、橋梁、高架線崩落、パニック行動などで、10万人規模の死傷者が出ても全くおかしくない状況が現出したこと、これへの恐怖感が全く語られず、ひたすら猫も杓子も「東北ガー、福島原発ガー」。何たるお間抜けぶり。さしたる人的被害がなかったのはまさしく奇跡以外の何者でもなかった。このことはどこの人口密集遅滞でも規模の大小こそあれ、ありうる事態であること、そのことが全くとは言わないが、なぜか忘れ去られているのだ。当日筆者は東北で震災に遭遇したが、沿岸部は津波によって甚大な被害を受けていたが、ちょっと内陸に入れば、翌日には大規模停電以外さしたる被害もなく、春先らしく、大学入試が延期になったやら、それでも運転免許の路上試験は信号も動作しない中行われたりと、むしろ東京などと比べれば、ずっと日常生活は保たれていたくらいなのだ。
今村「失言」は幾重にも渡って愚かしさをさらけ出しているが、それを慨嘆批判する側にも通底した、ある種の存在被拘束的な視界の存在を指示している。
人間とはまことに愚かしいものだ。目に見えたことだけが現実だと思い込んで、それにだけ気をとられて、様々な備えを議論することはするのだが、少し想像力を働かせれば見えてくることには、残念ながら、思いはせることが極めて乏しいということなのかもしれない。アメリカのトランプを笑っている場合ではないともいえよう。
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