秋葉 洋さんと私
- 2017年 5月 31日
- カルチャー
- 『戦争青春記』小原 紘書評
韓国通信NO525
尊敬する職場の先輩だった秋葉洋さんが書き残した『戦争青春記』を読んだ。亡くなってから3年、夫人が自費出版した。
東京府立四中(現戸山高校)から陸軍幼年学校、士官学校に進み、卒業後、静岡県磐田の通信隊で敗戦を迎えた後、一般人として再出発するまでの記録である。
極東裁判の判決「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)」のラジオ放送を聞いて、「私の青春が終わった」という記述がとても印象的だ。青春はひとさまざまだが、13才から「天皇の軍隊」のエリートとして育てられた経験もまぎれもない「青春」だったことに違いはない。
「とにかく面白いから読んで欲しい」ではあまりにも能がなさすぎる。本のあらましを紹介しながら一緒に組合活動をした者の目から見えた銀行員時代の姿をスケッチした。
<人生は自分が作るもの>
秋葉さんとは私が新入社員のころに出会った。初対面の私に、「君は不正義だらけの職場でどう生きていくつもりなのか」「自分の人生を切り開くつもりはないのか」と問い、所属する第二組合から少数組合への加入を求め、私に震え上がるような人生の選択を迫った。
銀行が組合をつぶすために正副委員長を解雇して、組合弾圧に狂奔していた真っただ中の時期だった。
秋葉さんは出世と無頓着に職場を生きた。仙人のように達観した生き方ではなく、また意地を張るふうでもなく、天衣無縫な自由な生き方だった。「文句を言わずに仕事をしろ」という会社の方針に「無条件降伏」した職場の大勢のなかで超然としているように私には見えた。
陸軍士官学校で日本の敗戦を公然と語った人間が、後半生の職場で、負けない戦(いくさ)に挑んだ。「団結と組織拡大があれば負けない」と組合切り崩しによって5%になった少数組合員に希望と展望を与え続け、職場で支持されて誰もが自由に加入できる組合づくりを目指した。組織のためではなく「一人ひとりのための組合」を活動の原点にした。- そのことは遠隔地の教師と結婚した女性組合員の転勤要求を組合員総がかりで実現させたことによく表れている。組合に加入したての私も窓口でプレートを着け、東京駅頭のビラマキ活動に参加した。わがままな要求だと一蹴した銀行も一従業員の生活を優先させようとする組合の要求を呑まざるを得なかった。
<たかが労働組合、されど労働組合>
第一組合員と女性差別是正の要求を掲げて全組合員が100日間も座り込んだ闘争も秋葉さんを抜きにしては語れない。
日本橋高島屋前、丸善の隣にある本店前は騒然となった。銀行はあわてにあわてた。組合分裂で出世した役員や支店長に反省文を書かせるという「ゲリラ戦」も展開した。考え抜かれた「作戦計画」を実行する知将ぶりだった。一瞬のうちに組合ニュースを書きあげる能力。彼の発言力と指導力は抜群だった。団体交渉に出席した銀行の役員たちは彼の前で「わるさ」をした子どものように沈黙した。
仲間を思いやる気持ちの深さと自分の信念を曲げない一途さを備えた不思議な人だった。酒を飲んでは職場の問題から日本と世界の政治情勢、そして音楽と文学と「愛」を語った。
日本信託銀行の労働組合については語りつくせない。
「労使協調」と「政労協調」に陥ったわが国の労働運動が問われてから久しい。最近では「賃上げ」から「働き方」まで政府にイニシアチブを握られるというぶざまさである。
それにひきかえ私たちの組合は要求の実現のためにガムシャラに運動をした。運動をしなくなったら組合はなくなる。賃上げ、ポーナス闘争では1年近くも妥結しないことが再三だった。経営者に忖度して早期妥結をはかる第二組合との違いは歴然だった。
賃金問題にとどまらず、残業手当問題、臨時雇い、パートタイマーの待遇改善、人員要求、差別待遇の改善にも心血を注いだ。真面目に職場のことを考えたら当然のことだった。「闘いが未来を開く」という秋葉さんの主張を組合員は共有した。「闘争至上主義」だと第二組合はさかんに批判を続けたが、「たたかわない」ことを宣言したに等しい組合は職場から支持を失なった。
「たかが組合運動」といわれることある。しかし組合員にとっては「青春」をかけた活動だった。第二組合からの加入が続き、第一組合の消滅を願った経営者の目論見は完全に破綻した。
組合間の差別も女性差別も大幅に改善させるという成果もあげた。金融産業、全産業のなかでも女性の役付き社員の数は屈指の多さを誇った。
「ゴマすり」が評価される企業では公平な人事考課はあり得ない。「昇級昇格は勝ち取る」ものだと秋葉さんから学んだ。生涯ヒラ社員を覚悟していた私も要求して課長、さらに次長に昇格した。
今や社会問題となった過労死や残業問題も早くから取り組まれた。組合の要求通り時間外手当をきちんと払ったら銀行は「潰れる」と経営者は悲鳴をあげた。ただ働きをさせて会社が利益をあげるなんて認めるわけはなかった。
運動の先頭に立って労働組合を支えたのは女性組合員たちだった。「女性が社会を変える。未来は女性の時代」というのも秋葉さんの口癖でもあった。
銀行に対する社会的批判が高まった時期、銀行の社会的責任について企業内外で積極的に発言を続けた。不動産融資に対する過剰融資についても団体交渉で再三とりあげた。融資の内容まで切り込んだ労働組合はあっただろうか。組合が組合員の生活を守るのは当然としても、会社のために国民の命を危険にさらす原発を擁護する電力会社の組合は明らかに反社会的だ。東芝でも原発事業にストップをかける健全な労働組合(社内世論があれば「倒産」は免れたはず。
<スーパー「銀行マン」の前史>
現役時代の沈黙を破って退職してから「真実」を語るひとがいる。立派なことに違いないが、秋葉さんは現役の職場生活で公然と信念を主張して、誰憚ることのない「ぶれない人生」を送った。漢籍、西洋文学に通じ、美声でシャンソン、ロシア民謡をよく歌った。堂々とした立ち振る舞いは社長も寄せつけないほど威厳に満ちていた。職場の若者たちを誰彼となく面倒を見る秋葉さんを慕って第一組合に加入する人も多かった。悩むなら「一緒に悩もう。そしてともに闘おう」と若者に向かって発言する大人は当時でも少なかった。
彼の前半生を解き明かしてくれた『戦争青春記』を読んで感動した読者なら、著者がその後どう生きたか知りたくなるはずだ。その疑問に答えるために銀行員時代の姿を紹介した。
軍人のエリートを育てる教育機関の非民主的な組織について著書の中で活写されているが、そのなかで、秋葉青年が何を考えどう行動したのかはとても興味深い。
「天皇は神ではない」と発言したばかりに、危険人物として営倉送りになった。軍規違反の発言と行動にもかかわらず不思議なことに上官や教官、仲間から共感を集めたという話に驚く。戦争を遂行するエリート養成機関で、このようなことが起きていたという意外性。結核を患い、退学処分も予想されながら、トップクラスの成績で卒業したという不思議さ。彼の並外れた能力がうかがえる。
『青春記』では学校生活と軍隊生活が中心に語られるが、淡い初恋、親兄弟、特に母親との思い出もつづられている。銀行員としては超破格だった秋葉洋さんの人格形成の歴史がわかり感動的である。
戦後生まれの職場の若者たちが、「上司の命令には絶対服従」する姿を見て、彼は軍隊時代を思いだしたに違いない。日本帝国軍隊の崩壊を目の当たりにした彼には、荒廃した職場が、崩壊した軍隊に重なって見えた筈だ。少数とは言え、団結した仲間がいた点は違ったが、軍隊の中で育んだ自由思想、平和思想で銀行職場に立ち向かわざるを得なかったのはなんとも皮肉なことだった。表面は変わったように見えても内実はいっこうに変わらない日本社会に苛立ってもいた。
「群れる」ことを嫌った秋葉さんの「自立」「自尊」の意識と感性が仲間から理解されず、孤立することもあった。しかし絶望することなく、「人を信じて頼らず」をモットーに、仲間をとことん信頼してわが道を行く人だった。
読みながら「君はどう生きてきたのか。これからどう生きるのか」と問われた気がした。「戦争を知らない子どもたち」と言われ続け、戦争の苦労話を耳にタコができるほど聞かされた世代のひとりとして、次の世代に平和な国を残せないとしたら本当に心苦しい。余生を(秋葉さんはこの言葉をよく使った)与えられた宿題の解決に努力するしかない。『戦争青春記』を彼の「遺言」として読んだ。
『戦争青春記』 秋葉 洋著 一葉社発行 定価1800円+税
<イヤー とにかく忙しい>
忙しいというか気が落ち着かない。今国会中の共謀罪成立をもくろみ、2020年には憲法を変えると断言した「あいつの」せいだ。顔は見たくないし、声も聞きたくないのだが、何を言いだすのか心配でテレビを見続けている。お友だちに便宜をはかったことが厳しく批判され罷免された隣国と日本ははどうしてこうも違うのか。韓国なら「あいつ」も当然罷免だ。韓国では日本の治安維持法をまねて作った国家保安法の廃止が強く求められているが、日本ではあらたに作ろうとしている。時代遅れ時代錯誤も甚だしい。国家の安全を政府が言いだしたらロクなことにならない。国会前にでかけて声を張り上げることが多くなった。愚痴を言うくらいなら一市民として声を上げたい。これも秋葉先輩から学んだ生き方だ。強行採決は無効だ。国会へ行こう!!
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