「日の丸・君が代」強制は違憲ー予防訴訟難波判決から11年
- 2017年 9月 22日
- 評論・紹介・意見
- 澤藤統一郎
9月21日。あの日の感激と興奮から11年となった。2006年の9月21日。私たちは、東京地裁で、公権力による「日の丸・君が代」強制は憲法19条(思想・良心の自由の保障)に反して違憲無効、との判決を得た。
その主文第1項は、次のとおり。
「原告らが、被告都教委に対し、『入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)』(「以下本件通達」)に基づく校長の職務命令に基づき、上記原告らが勤務する学校の入学式、卒業式等の式典会場において、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する義務のないことを確認する」
いわゆる「日の丸君が代強制予防訴訟」での難波孝一裁判長判決である。
原告団・弁護団とも、手の舞い足の踏む所を知らずの歓喜の判決だった。裁判官が行政の判断を違憲とする判決を書くことは駱駝が針の穴を通るほどの難事。その実情を知る者にとって、この日の判決の意義は格別のものという思いが深かった。裁判長には、深甚の敬意を惜しむものではない。
しかし、素直に考えれてみれば、「日の丸・君が代」強制が強制される者の思想良心を侵害することは、理の当然ではないか。公務員だから、教員だから、思想良心の侵害を受忍しなければならないという筋合いはない。国旗・国歌(日の丸・君が代)に服することが教員としての資質の条件ではない。むしろ、国家の意思に従属することのない主権者を育てる任務の教員が、唯々諾々と国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に屈してよいものだろうか。
これは、理論の問題であるよりは憲法感覚の問題といってよい。理屈はどうにでもつけられるが、結局は個人の尊厳の尊重を貫くか、それとも公権力が設定した秩序維持を優先するか。私には、秩序派の憲法感覚の鈍麻は唾棄すべきものとしか考えられない。
難波判決は、「10・23通達」関連事件の最初の判決だった。そのトップの判決が優れた裁判官らによる勇気と知性にあふれたものとなった。これこそ、日本国憲法本来の人権原理を顕現するもの。私たちは、この判決がこれから重ねられる「10・23通達」関連判決の先例となるだろうと確信した。
しかし、あれから11年。残念ながら、あのとき思い描いたようにはなっていない。難波判決直後の、いわゆるピアノ伴奏拒否事件(「10・23通達」発出以前の事件)の最高裁判決が、難波判決を否定する判断となった。以来、最高裁判決の少数意見を例外として、違憲判決は姿を消した。私たちは、懲戒権の逸脱濫用論でかろうじて、減給以上の重きに失する処分を取り消して、都教委の横暴に歯止めを掛けているにとどまっている。
しかし、この11年間、判決内容が固定されてきたのではない。最高裁判決の判断枠組みも、下級審の裁量権論も微妙に動いてきている。けっして、「国旗・国歌(日の丸・君が代)強制が合憲」と確定したものとはなっていない。
9月21日、あらためて難波判決を思い起こし、「国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は違憲」との判決獲得への努力を決意する日としたい。
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予防訴訟の難波判決を紹介するために、岩波ブックレット「『日の丸・君が代』を強制してはならないー都教委通達違憲判決の意義」を書いた頃が懐かしい。
岩波のホームページに、次の記載がある。
「東京都教育委員会による教職員への『日の丸・君が代』強制を違憲とした東京地裁判決は,いかに書かれたか。弁護団副団長が提訴前から判決までの全過程を踏まえて,とりわけ憲法19条,教育基本法10条との関連で難波判決の意義と特質をどう見るのか,なぜ原告達の訴えが結実したかについて解明した注目の一冊。」
そして、「著者からのメッセージ」がこう書かれている。
「時代を映す訴訟があり判決がある.『日の丸・君が代強制反対・予防訴訟』と『9・21判決』は,まさしくそのようなものである.
この事件が映す時代相はけっして明るいものではない.日本国憲法と教育基本法への悪意に満ちた勢力が支配している時代.敗戦の悲惨な反省からようやく手にした教育の自由と,思想・良心の自由とが蹂躙されつつある時代.
歴史上,思想・良心圧殺の象徴として私たちが思い描く事件は,江戸幕府の踏み絵と明治期の内村鑑三・教育勅語拝礼拒否である.暴走する東京都教育行政は,幕府や天皇制政府の役人とまったく同じ発想で,学校行事での日の丸・君が代強制を踏み絵として,教員の良心を奪い,良心を枉げない教員を排除しようとしている.行き着く先は教育の国家統制にほかならない.
予防訴訟は,自らの思想・良心を堅持し,生徒・子どもらの学ぶ権利を擁護するために立ちあがった教師群によって担われた.必死の思いの原告教師たちと,支援者,弁護団,研究者の総力をあげた活動によって,一審段階ではすばらしい勝利の判決に到達した.
明るい時代ではない.しかし判決は,この時代の希望を映している.
また、私のパソコンのメモリーに、当時の草稿の次の一文が残っている。
◆国家ではなく、生徒こそが主人公。◆
教育をめぐる論議の中心課題は、国家による国家のための教育か、国民による国民のための教育か、に尽きる。国民とは学校現場では、生徒であり子どもである。学校現場の主人公を国家とするのか、生徒にするのか。
生徒の卒業制作の展示を禁止して、壇上正面に国旗を掲揚する。これが、東京都教育行政のイデオロギーをあまりにもみごとに視覚的に表象している。
本件予防訴訟では、原告が教職員に限られているという事情から、すべてを教職員の権利侵害に収斂させなければならない法技術的制約があった。しかし、原告となった教員たちの共通の思いは、教え子のために自分は何ができるか、何をすべきか、ということであった。
生徒の前で、今こそ自分の職責が問われている。原告401人は、そのように自覚した教師集団である。
教え子よ、国家に身を委ねてはならない。国家に思想を吹き込まれてはならない。自分自身でものを考える姿勢を堅持せよ。批判する力を持て。必要なときには抵抗の姿勢を示さねばならない。
自分も教師として、悩みながらも、ささやかな抵抗の姿勢を示そう。教え子よ、その姿を見てくれ。主権者として真っ当な国を社会を作る力量を育ててくれ。
これが、401人の自覚した教師集団に通底するメッセージだと思う。
淡々と「教育という営みは、教師と生徒との人格の触れあいを本質とするものですから、生徒に恥ずかしい行動はけっして取ることができません」こういう教育者が集団として存在することに、この国の光明を見る思いがする。
その教師集団を中心として、多くの研究者、弁護士、支援者、世論。そして、これまでの多くの教育訴訟における諸活動の歴史。その総合力の結集によって得られた本判決である。
訴訟はこれから控訴審。さらに多くの支援の力を得て、本判決を守り抜きたいと思う。そのことが、教育本来の姿を学校現場に取り戻すことになるだろう。そのことの意義は、私たちの未来にとって限りなく大きい。「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」のだから。
原告だった人々も、いま闘っている人々も、支援者も、そして私たち弁護団も、初心を思い返すべき日。それが、今日9月21日である。
(2017年9月21日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.09.21より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=9213
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